高校一年生冬 登校
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第九話です。梅乃が久しぶりに学校に行きます。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
小一時間すると、浅葱が数名の若い付き人と共に部屋に入ってきた。制服やバッグ、着替え、体操着が次々に運び込まれる。鍵や携帯、財布の類もぬかりなく持ってきてくれたようだった。
慌てて起き上がりあたふたしていると、はす向かいのベッドの上で光が「君にすることはないよ」と笑った。
「ありがとう。ご苦労様」
あっけにとられている梅乃の代わりに、慣れた様子で光が言った。梅乃もなんとかぺこりとお辞儀する。
浅葱が去ると、光は満足げに梅乃に笑いかけた。
「よかった。これで高校に行ける」
「ああ、うん」
別に大して行きたくもなかったので、歯切れの悪い返事になってしまった。光は首を傾げる。
「あれ、学校行きたくないの?」
「行きたくないというか、まあ」
「でも、ここに一日中いても、することがないだろう。学校に行きたくないのなら、勿論ここにいたらいいけれども、きっと明日の午前中にはもう、やることがなくて学校へ行きたくなるんじゃないかな」
「そう、かもしれない」
返事に困ったのと、本当にそうかもしれないと思ったのと、両方だった。ここに来て小一時間。光はひたすらマイペースに読書にいそしんでいて、梅乃は空気の如く放っておかれている。
梅乃の方から話しかけたり、光の本棚から本を借りたりしてもよかったのかもしれないが、光は集中していそうだし、本はなんだか分厚くて高級そうだし、気が引けて結局、手持ち無沙汰な虚無を味わった。確かに、これを一日中はなかなかきつい。
「足りないものがあればまた言って」
光はあっさり言って、再び読書に戻ってしまった。
翌日、少し悩んだ末、梅乃は数か月ぶりに学校に行った。ここまでお膳立てされて行かないのも気が引けたし、確かに光の部屋は少々退屈だった。
「行ってらっしゃい! 楽しんで!」
光はベッドの上から楽しそうに手を振った。
「ああ、うん」
梅乃が部屋を出ようと扉に手をかける――。
「ちょいちょい待って待って」
寸前で、光が慌てた声で引き止めた。振り返ると、光が不満駄々洩れな顔をしていた。
「君、こういう時には『行ってきます』だろう」
「ああ、じゃあ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
光は引き戸のドアが完全に閉まるまで、楽しそうに手を振っていた。
数か月ぶりの学校は、松葉づえをついていたおかげもあって、案外楽だった。見るからにけがをしている人には、多感で繊細な高校生はみな優しい。休んでいた分のノートを進んで写真に撮らせてくれた子もいた。先生くらいは何か言ってくるかと思ったが、ここまでくると登校しただけ偉いと思われているのか、特に何も言われなかった。
授業にはもちろんついていけなかった。特に理系科目。元々真面目に受けていなかったうえ、数か月分の授業内容を飛ばしている。何の話をしているのかさっぱりわからず、取り敢えず黒板だけ写しておいた。
そんな有様でも、梅乃は久しぶりに「動いているな」と思った。
彼氏の家に居候しているときも、病院でも、ただひたすら寝て食べて、ぼうっと時間がたつのを待っていた。そんな生活も、殴られたり寒空の中放り出されたりするよりはずっとまし。安心感すらあった。
しかしこうして「普通の高校生活」をしてみると、これまでは、生命活動という意味においてまるで無だったことを思い知る。本来、人とはこんなに活動的なものなのか。浦島太郎になったような気分だった。
――きっと、やることがなくて学校へ行きたくなるんじゃないかな。
人生で何度目かに差し出された安全地帯。そんなことを言ったのは、光が初めてだった。退屈だから、外に出る。そうか、そういうものか。おそらく普遍的な思考なのに、梅乃はその日やけに新鮮に、身をもって納得した。
病院に帰ると、光が「やあやあ、おかえり」と出迎えた。今日も本を読んで過ごしていたらしい。机の上には、梅乃なら読む気もしないような横文字の本が載っている。
「どうだった? 久々の学生生活は? エンジョイできた? 友達は増えた?」
小学生の入学式じゃあるまいし。
「久々によく動いた。友達は、できないね。休んでた分のノートは見せてもらえた」
「惜しいな。君と仲良くなりたいなら、あげるべきはノートじゃなくて食べ物なんだけど」
「私と仲良くなりたい人なんかいないよ。三か月も休んだ不思議生命体だから」
「仲良くなりたいわけでもないのにノートを渡すかな?」
「義理じゃない?」
「君は人生損するんじゃない?」
「君は人生が楽しいだろうね」
……あ、入院している人にこれは無神経だっただろうか。冷や汗をかきかけたが、光はけろりと笑っていた。
「それで、授業はどう? どんなことを習うの?」
「ああ。まるで分らなかった。二次関数の最大最小だって」
「数学か。君は数学が好き?」
「好き嫌い以前に、何をしているかまるでわからない。学校にはしばらく行ってなかったから」
「ああそうか。それなら好悪を早計に判断してしまわない方がいい。今日の教科は何だったの?」
「数学Ⅰと現代文と英語と古典。あとは体育だから見学」
「ふうん。高校生は大変だなあ」
言いながら、光は読んでいた本を閉じた。
「ねえ、課題は出た?」
「でたよ、残念ながら。古典」
げんなりした梅乃の反応とは対照的に、光はそれを聞いて目を輝かせた。
「へえ! どんなの? ちょっと見せてよ」
森で新しいクワガタでも発見したかのような反応。梅乃は変わっているなと呆れながら、鞄からノートを抜き出して光に渡した。
「『東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ』」
「ああ、それ。今日やった句」
――春風が吹いたら、匂いを(京から太宰府まで)送っておくれ、梅の花よ。主人(菅原道真)がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
正直、梅乃にはあまり共感できない句だった。道真が太宰府にやってくる前から、梅の花は東風吹けば匂いおこしていたはずだ。それを、自分がいなくなったら梅の花は忘れてしまうかもしれないなんて、なんだか傲慢ではないか。
「有名な句だよね」
光がノートを眺めながらつぶやく。
「へえ、そうなんだ。まあ、詠んだ人が人だし」
梅乃はどうしてこんな句が有名なんだろうと心の中で思った。
「君は、この句が好き?」
「さあ。……私にはよくわからない」
「そうか。僕は好きだな。この傲慢さが切なくて」
「……へえ」
梅乃はとりあえず相槌を打った。
「さてはわかっていないな」
「ばれたか」
梅乃は肩をすくめ、光はまったくと笑った。
目を細めた光の横顔は、なぜか少し切なく見えた。
お読みくださりありがとうございました。
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また次回もお目にかかれますように。




