高校一年生冬 退院
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第八話です。第二章、擬似同居のような環境が始まります。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
二日後、梅乃は退院した。ついに父親とは一度も連絡をつけなかったが、梅乃がきちんと金を払ったためか、特に病院側から文句は言われなかった。
「やあやあ、退院おめでとう。今日からここの五階が君のアジトだよ」
会計が終わるとすぐに、聞き飽きた声に絡まれた。
「どうもありがとう」
梅乃は適当に返してエレベータに向かう。先に動き出したのは梅乃なのに、もたつく松葉づえと漕ぎなれた車椅子。光のほうが断然速いのが悔しい。
「どう? 退院後の空気はおいしい?」
「まだ病院から一歩も出ていないから何とも」
「それもそうだ」
いつも通り、何が面白いんだかわからない会話をした。
案内された五階の部屋は、梅乃が泊まっていた四人部屋の病室よりも広かった。梅乃の家よりも広い。キングサイズの、おそらく備え付けではなく持ち込みのベッドが窓際隅に一つ。さらに、クイーンサイズの、これまた持ち込みであろう淡い桃色のベッドが対角隅に一つ。その隣には一人がけの机と椅子。
そして何より目を引いたのが、キングサイズベッドの横にある、大きな本棚だった。細かい彫刻の入ったアンティーク調で、天井ほどの高さ、両手を広げるほどの幅のものが、壁にべた付きで三つ。本の背表紙や高さはきれいに揃えられ、隙間なくびっしり詰まっている。
圧倒されていると、光が梅乃を、もの言いたげにじとっと見上げた。
「今、車椅子の僕がどうやってあんなに高い本棚の一番上から本を取るんだって思っただろう? 御曹司にはお手伝いさんがいるんだ」
「ああ、言われてみれば、一人じゃとれないか」
「なんだ、そう思っていたわけじゃないのか」
「生憎頭の回転が悪いんだ」
からりと梅乃が言うと、「あ、そういえば!」と光が今度はぱっと目を見開いた。
「君、学校は? 高校生だろう」
急に話題が飛んだ。高校か。そういえば、そんなものもあった。
「ああ……多分、もうじき退学になるんじゃないかな」
もうだいぶ通っていないので、さして思い入れもない。あっさり言ってのけると、光はぎょっとした。
「どうして」
「あまり出席していないし」
「どうして」
「どうしてって、……さあ?」
前のめりに詰め寄る光に圧され、後ずさる。別段、大した理由もなかった。
部活に入らず、放課後クラスメイトと遊びに行くわけでもない――泊まる場所探しのナンパ待ちで忙しい――梅乃は、学校で誰とも仲良くない。授業だってつまらないし、仮に家で課題をしていても、酔いつぶれた父親が帰ってきたらそれどころではなくなる。
授業に着いていくのが厳しくなってきた頃、元カレとの付き合いが始まった。継続的な関係を持ったのは、それが初めてだった。彼の家に連泊したある日の朝、「学校だるいなあ」と梅乃がなんとなくつぶやくと、彼があくびしながら言った。「さぼっちゃえば? 高校なんて意味ないじゃん」その時、ああ、そっかと思った。高校って、そんなものなんだな。
中学時代は『通学定期圏内』という概念がなく、放課後にぶらつける場所が今より限られていたので、地元の図書館でこっそり高校生たちに混じり、夜まで勉強していた。それが功を奏し、奨学金を取って今の高校に入った。今となってはもう、奨学金を勝ち取ってまで高校に入った意味は見失ってしまった。
しかし、世間知らずお坊ちゃん、もとい光の考えは随分違った。梅乃が高校にあまり出席していないと聞くやいなや「こりゃあ大変だ」と血相を変えた。
「制服は?」
「ええっと、家にあるよ」
「取りに行こう。明日からは登校しないと」
「え、いいよ」
あの家に帰るのはごめんだ。光の勢いに圧されどおしだった梅乃がようやく渋ると、
「じゃあ、浅葱にとりに行かせよう」
「アサギ?」
「ほら、僕と仲良しのお手伝いさん。よくふりかけを買ってきてくれる」
ああ、そういえば、ちらっと名前を聞いたかもしれない。
「……私のことまでしてくれるの?」
「もちろん」
さらりと肯定された。光のさらなるお坊ちゃまぶりを痛感した。そして正直、その申し出は非常に助かる。
「それで君、家の鍵は?」
「……今は持ってない。でも、基本うちはドアが開いてるから」
「え? 危なくない?」
「さあ、取られるほどのものもないし」
すると、光がポーンとベッドわきにあるボタンを押した。光の部屋には、全室共通のオレンジ色のナースコールとは別に、緑色のボタンがある。今押したのもそっちだ。十秒とたたず、スーツ姿のジェントルなおじさんが部屋に入ってきた。
「浅葱、彼女の家から制服と通学に必要な荷物一式を取ってきてくれないかな?」
「はっ」
浅葱、と呼ばれたその人は、その命だけで恭しく礼をした。梅乃はぽかんと口を開けた。こんな、どこぞのドラマみたいな光景があるのか。浅葱は無駄のない動きで踵を返し、部屋を立ち去ろうとする。
「え、あの」
思わず呼び止めてしまった。訊きたいことが多すぎる。
「何か」
浅葱が振り返った。低く淡々とした声と無表情。梅乃は無意識に背筋を伸ばした。
「え、っと……私の家は、ご存じなんでしょうか」
「はっ」
浅葱は再び、慣れた様子で恭しく頭を下げた。恐縮し、梅乃もつられてぺこんと頭を下げる。そしてはたと気付く。
――え、私の家、知ってるの? なぜ?
権力恐るべし。
「では」
「あ、あのっ。私の父には気を付けてください。家にいて、酔っぱらっていたら、特に」
「はっ」
浅葱はあっという間に部屋を出ていった。霞の上に急に置き去りにされたみたいな非現実感。浅葱が出ていった方向を見つめ、立ち尽くしていると、ははっ、と横から身軽な笑い声がした。
「誰かにそれほど気を遣う君は、初めて見た」
いつも通りの軽口。でも、梅乃はぼんやりしてしまって、曖昧に笑い返すことしかできなかった。そもそも、年上の人間をたった一言で意のままに動かし、平気な顔をしている光が信じがたい。光は自分とは全く異なる人間なのだと、いまさらながら理解した。
「大丈夫だよ。浅葱はああ見えて有段者らしい」
光はのんびりと言った。
その後、いまだ状況を把握しきれない梅乃を置き去りに、光は適当に本棚から本を抜き取ってベッドに寝転び、読み始めた。
部屋に沈黙が訪れる。
仕方なく、梅乃はそわそわした気持ちでクイーンベッドに腰かけた。淡い桃色。いささかお花畑な色だ。色のセンスは微妙だが、触れてみると、これまで寝てきた布団やベッドとは明らかに肌触りが違った。きめ細やかで、肌を優しく撫でるように吸い付いてくる。マットレスはふかふかすぎて、体重をかける方向を少しでも変えるたび、お尻がいろんな方向に沈んだ。梅乃は背中からぽすんと倒れこんだ。
そのまま目を閉じてみる。
ぺらっ。
光が本をめくる微かな音がした。
これまでの生活にはありえなかった、静けさと柔らかさ。
ここは、現実じゃないような気がする。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
また次回もお目にかかれますように。




