高校一年生冬 失恋の売買
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第五話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
ぽっかーん、二度目。
これまでも意味の分からない人だとは思っていたが、今回はもう、取り合う気にもならない。そもそも失恋は一般に心の傷であり、それをこんな風に茶化してくる光の人間性に呆れを通り越して笑えてしまうし、しかも六百万というやたら具体的な大金。
ひょっとして、常時金に困っている梅乃を馬鹿にしているのだろうか。こんな若さで、しかも病人が、六百万などという大金を持っているわけが――。
「あ、ちょっと待ってね。ううん、おもいよぉ」
光は車椅子の下の物入れから、おもむろに大きな紙袋を取り出した。朝食のお盆を押しやるようにして、それを机の上に置く。ほら、と紙袋の口を広げられ、思わず中をのぞくと、ゼロが四つ並んだ札の束がお目見えした。六束も。
「……え?」
「道真グループって知らない? 不動産とか家電とか食品とか、あと最近は介護も始めたんだっけな。そんな感じで手広く事業をやっているらしいんだ。僕はそこの、俗にいう御曹司なんだけど」
――え?
「でもほら、残念ながら、僕は見てのとおりか弱くて、すぐにでも死んでしまいそうだろう? だから余生をできるだけ楽しく過ごせるようにって、毎月お小遣いがもらえるんだ」
――え?
しばらくの沈黙。言葉の脳内処理に、だいぶ時間がかかった。にわかには信じがたい。でも、目の前には確かに、平然と差し出された大金。
もう一度、言われたことを反芻してみる。
――道真グループって知らない? 手広く事業をやっているらしいんだ。
――僕はそこの、俗にいう御曹司なんだけど。
――余生をできるだけ楽しく過ごせるようにって、毎月お小遣いがもらえるんだ。
言葉だけ思い起こすと大変腹立たしい。言っていることが本当なら、この人はでろでろに甘やかされたボンボンお坊ちゃんじゃないか。
……が、実際にはそれほど腹を立てていなかった。話す光自身が淡々としていて、全く嬉しそうでも誇らしげでもなかったからだ。あかりを差し出したときのほうが、三倍は偉そうだった。
光は退屈そうな顔で肩をすくめた。
「お小遣いなんてもらっても、僕には普段、使い道がまるでない。考えても見てよ。こんなに力なく儚い僕が、お金をいくらもらったって、使いこなせるわけないだろう。いっそ馬鹿にされているのかと思うぐらいだ」
しかしその主張は、梅乃にはよくわからなかった。
薄給なうえに酒に金を使い込む父親のせいで、梅乃の家は年中生活苦だ。卑しいと思われないぎりぎりを攻めながらせっせと給食をおかわりした小学生時代。なんとか組み合わせを工夫して、持っている洋服のレパートリーの少なさが露呈しないようにも必死だった。テレビなんてものは家になく、「昨日のドラマ見た?」系の話題には昔からまず入れないし、中学高校は、用具や部費に金を出す余裕がないので、部活に入るという選択肢がなかった。
すべて、金さえあれば解決した。
世の中の大抵の不自由など、金がないよりは何倍もいいに決まっている――。
明らかに納得していない顔の梅乃を見て、光は眉を下げて笑った。
「わかってる。僕は恵まれている。贅沢なことを言った」
光が詫びるように小さく頭を下げたとき、その細い首に赤い跡が見えた。人工心臓をぶら下げている、紐の跡。
――この機械、まあまあ重いから首が凝っちゃうよ。
ぼんやりと、そんな言葉を思い出した。
「でも今月はラッキーだ。買いたいものができた」
急に、光が声の調子を上げた。
「君の失恋を、六百万で僕に売ってよ。経験してみたいんだ。自分も他人もどうでもよくなってしまうほどの、その衝撃を」
「……え?」
「つまりだよ」
光は車椅子から器用に身を乗り出す。目がらんらんと輝いていて、梅乃は思わず避けるように肩を引いた。
「僕は先に、君に六百万円支払う。そうして、君から失恋をもらう。まあつまり、失恋してしまった君の心を全力で癒して、忘れさせてみせるよ。これで、買取完了。君が了承してくれたら、僕はその失恋を自分のものにして、存分に使う」
――はい?
身振り手振りを交えてじっくり説明されたが、全くわからない。ここはもう、光が何を言いたいのかは考えないほうがいいのかもしれない。
「……それはつまり、六百万、私にくれるってことですか」
梅乃にとって、大事なのはそこだった。その後の云々は知らないが、これは俗にいう、『ノーリスクハイリターン』ではないか。だとしたら、乗らない手はない。梅乃の家はいつでも、藁にも縋りたいほど金に困っているのだから。
「そうだね、失恋を僕にくれるなら」
……相変わらず分からなかった。だが、目の前にはまごうことなき大金。
「わかりました。どうぞ」
梅乃は結局、はっきりとそう告げていた。光はみるみる目を輝かせる。
「本当に? いいの?」
「はい」
梅乃は深くうなずいた。
世の中には、苦労しないで得た金は要らないとか、本当につらい人間の気持ちが勝ち組にわかるかとか、言う人もいる。でも、梅乃にそんなことはどうでもいい。動機や過程がどうであれ、もらえるものはもらっておけばいい。実益に敵うものはない。
例えば六百万あれば、しばらくはあのおぞましい家に帰らなくて済むし、安全基地を求めて放課後、繁華街でナンパ待ちをしなくていい。それが今、梅乃が生きる世界のすべてだった。
「ありがとう。嬉しいよ」
本当に、ありがとう。
光は歯を見せて笑った。
ああそうか。
この人は、外の汚い世界に触れていないから、こんなに明るく笑うのかもしれない。
「じゃあ早くこれを受け取って」
光に紙袋を押し付けられ、梅乃はひとまず、大金の入ったそれを自分の毛布の中に隠した。
「ねえ、僕はまた君に、ふりかけを持ってきてもいいかな?」
これまでは無断で乱入してきたくせに、光はその時、初めて梅乃にお伺いを立てた。
「……まあ、ふりかけなら」
梅乃はうなずく。一度その素晴らしさを知ってしまうと、ふりかけのない病院食は、これまでより一層ひどいもののように感じられた。
「今度はのりたまも持ってくるよ」
「……はあ。……あの、本当にこれ、もらっていいんですか? お金」
梅乃は狐につままれたような気分で返事をしてから、毛布の中に隠れる大金に目をやって、おずおず問う。自分の手元にこれほどの大金が急に舞い込むなんて、やはりすぐには信じられないし、実感がわかない。
するとなぜか、光は嫌そうな顔をした。
「僕は『あげた』んじゃない。『買った』んだ。勘違いしないように」
……なるほどわからん。つまり、『もらっていいよ』ということだろうか。とりあえず、梅乃は控えめに会釈した。
「うん。わかったならよし」
満足そうに、光は車椅子の向きを変え、カーテンの向こうに消えていった。
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また次回もお目にかかれますように。




