その後
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第三十二話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/22連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
梅乃がボロアパートの家に戻ってからも、父親は変わらずミイラのようだった。動かず口も利かず、一日中ぐちゃぐちゃの布団の上で、背を丸めてぼうっと宙を見つめる。
気味が悪くて仕方ない。でも、夜中に叩き起こされたり、怒声とともに部屋を追い出されたりするよりはましだった。
父親にご飯を食べさせ、風呂に入れ、薬を飲ませて、たまに病院に連れていく。放課後は家のことで手一杯になった。
着々と、時間とお金が消えていく。
手続きの方法を知らなかったので、電気ガス水道は止まりかけたし、携帯も解約した。
ようやく、光の言葉の意味を痛感した。
――君にはせっかく未来があるんだ。でも、それを邪魔する人もいる。いらない邪魔が入る前に、君はたくさんの武器を手に入れておくんだよ。
――ぐずぐずしていたらダメだ。敵が追いかけてくる前に、君は早く逃げ切らないと。
あれは正しかった。
毎日くたくたで、常に自分より優先しないといけない人が家にいて、自分がやりたいことは何一つする余裕がない。
世界は理不尽だと思った。
もう全部投げ出したい。どうして自分一人がこんなに苦しいんだろう。悔しい。世界中に地団太を踏んで、私のことをどうにかしてよと神様に叫びたい。ずるい。
どうしてこんなに自分だけが――。
収拾のつかない気持ちに頭がはちきれそうになったとき、決まって思い出した。
――大丈夫。君の世界は、そう簡単に奪われない。
いつも梅乃の道標だった光が、最後にくれたさざ波のようなその言葉。
一年後に生きている確率は、五十パーセント。
思えばあの時、苦しんでいたのは、決して梅乃だけではなかった。
死が刻々と近づいてくる、その恐怖はどれほどだろう。
それでも光は一度だって、怖いとかつらいとか言わなかった。
ただいつも、常春のような穏やかさと暖かさを携え、梅乃の帰る場所としてそこにいた。
今になって気づく。
光はすごい。
光はあの時、梅乃の主であり、師であり、友であり、家族であり――。
光はあの時、梅乃の生命線だった。
そして今も、光と過ごした時間が、光の言葉が、梅乃をこの場所に立たせている。
半年後。父親の様子が変わり始めた。夜中、急に酒を求めて家を這いずり回るようになった。
少しすると家には酒がないとわかり始め、酒を買うための金品を物色するようになった。
一年後。父親は再び急性アルコール中毒を起こし、他界した。
医師の言いつけ通り、梅乃は家中の酒類をすべて処分していたし、父親には金を一切渡さず、絶対に見つからない場所にきちんと管理していた――はずだった。
ある日、いつも通り家を出て学校についてから、鞄から財布が抜かれていることに気付いた。
朝、鞄を居間の机に置いたまま背を向けて窓を閉めた、ほんの数秒のことだった。
急いで家に戻った時には、四リットルのペットボトル焼酎を抱えた父親が、床にうつぶせで倒れていた。ペットはほぼ空。むせ返るような酒臭さ。
あなたのせいじゃない。
ここまでよくがんばった。
仕方のないことよ。
震える声で呼んだ救急車は間に合わず、それでも案外、父親の死を梅乃の過失だと責める人間はいなかった。
――ちゃんと、お父さんを看てあげて。
――ちゃんと。
――ちゃんと。
――ちゃんと。
どうやら周りから見たら自分は充分やったようだ。安堵と、肩の重荷が一気に解放された感覚が何より強かった。
警察からの度重なる聴取、児童相談所での面談や親族調査、受け入れ可能な養護施設調査と受け入れ手続き。それらを終えてようやく、ひとまず高校卒業までは保障された住処を得た。父親の福祉葬なるものも行われた。
すべてが落ち着いた頃には、光の部屋を出てから一年半が経っていた。
高校三年生、九月。久しぶりに放課後が暇で、冬宮に誘われて、帰りに照り焼きチキンを食べた。
「そういえば、冬宮さんは進学?」
向かい合ってバーガーにかぶりつきながら、そう尋ねたのは、光の言葉が頭をよぎったからだった。
――ということは将来その冬宮さんは、美術系に進むのかな。
「うん。美大に行こうと思ってる」
冬宮はうなずきながら、リスみたいに頬を丸くしてバーガーを咀嚼している。相変わらず、美味しそうにものを食べる人だ。
「やっぱりそうか」
驚きはなかった。冬宮に見せてもらったデッサンノートはもう十冊を超えている。絵を描くことが好きで、一日中描いていたいんだろう。
「若狭さんは?」
反対に問われて、梅乃は困った。
もう卒業まで半年を切っているのに、何も決まっていない。というか正直、これまでそれどころではなかった。
「やっぱり、教育系?」
「え?」
当然のように問われて、梅乃は目を丸くして冬宮を見た。……教育系? なぜ? この状況では就職するしかないと思っていたが――。
「え、だって」
しかし冬宮は、梅乃をまじまじと見て続ける。
「若狭さん、誰かに勉強を教えるとき、すごく楽しそうだから」
「……え? そうかな」
「うん。とっても輝いた顔してると思う。……気付いてないの?」
「え、っと」
――ああ、そうか。そうかもしれない。
それまで一ミリも考えていなかったのに、一度思い描いてしまえば、すとんと腑に落ちた。
実はこれまで、月に何度かのペースで榎や冬宮と昼休み勉強会を開催していた。家のことで学校を休みがちな梅乃のために、榎が企画してくれたものだった。
――学校に行って、友達を作れ。
思えばこれも、光が示してくれた生命線だ。
しかし蓋を開けてみると、榎はミミズ文字の悲惨なノートを取るし、冬宮は基本的に授業そっちのけで絵を描いている。結局、全員ゼロからのスタートになった。
すると、奇しくもこういう復習の場数を一番踏んでいる梅乃が優勢になる。最終的にはいつも、梅乃が二人に教える構図が出来上がっていた。
――教師か。
確かに、誰かと顔を突き合わせて勉強するのは好きだ。いい、かもしれない。まだ間に合うのなら。
――ほら、教科書を出して。
――ふうんふうんって。僕がこんなに画期的な解明をしたのに。
――さあさあ、じゃあ、早く書き留めてよ、僕の偉大な発見を。
――彼はミとシとツと三が全部一緒じゃないか。
その原点も、言わずもがな光だった。
会いたい。
会って、私は成長したよと伝えたい。
もう一度礼も言いたい。
将来の夢が見つかったという報告もしたい。
毎日、会いたいと思っていた。
やっと、今なら会いに行ける。
でも――。
今となっては同じくらい、会いに行くのが怖くなってしまった。
最後に会ってから一年半。
光が生きている確率は、とっくに五十パーセントを切っている。
――『東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ』
あの詩は傲慢などではなかった。
匂いをおこした時、誰より感動してくれる主に出会えた梅は幸運だ。
ひとたび出会ってしまえばその人のため、何よりも誇り高く咲きたいと思うだろう。
では乞い慕う主が消えたなら、梅はその先なんのために――。
生きていて欲しい。なにがなんでも。
その思いが梅乃を、病院から遠ざける。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
次回が最終話です。
また次回もお目にかかれますように。




