負け戦
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第三十一話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/22連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
「君が好きだ」
白い箱の中、医師とお手伝いさんにしか会わない光にとって、梅乃はそれ以外のすべてだった。友人でも家族でも、きっと知り合いですらない。
それでも、一度市内の総合病院を離れ、梅乃と会うことがなくなってからも、光は折にふれ彼女を思い出した。
――あいしてるんだって。
呪詛のようなその言葉。六歳のあの時は、とても勝てなかった。
でもいつかまた会えたら、その時はきっと。
その呪詛と同じ言葉で、自分があの子をさらうんだ――。
そんな、おとぎ話みたいなことまで考えた。
再び梅乃に出会い、彼女が今でも同じ箱に閉じ込められていると知ったとき、それは、単なる仮想ではなくなった。
足りないものは何だろう。彼女を支える力だろうか。お金だろうか。
いっそ強引に大金を支払えば、彼女の生活になれれば――父親と、同じ役割を示せれば――大きな心で言ってしまえるかと思った。
――あいしてる。
でもすぐに、自分の浅はかさを知った。
そういうことではなかったのだ。
確かにすごく、梅乃が好きだ。
でも、白い箱の中、ひとり紡いできた光の想いは、どうしたって、無知で不完全な箱入りで。
それは自分勝手な投影や期待、自分の人生への渇望すらも入り混じった、歪な形をしている。
――あいしてる。
そう伝えるには、光の世界はあまりにも狭すぎる。
光はあまりにも、人を、感情を、知らなさすぎる。
「僕はすごく大事なことを学んだよ」
「僕には、君を引き留めておけるだけの力がない」
梅乃が幸せになってくれたらいい。
先が短い自分なんかより、何倍も。
狭い世界で、唯一出会えたお姫様。
――『東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ』
――春風が吹いたら、匂いを送っておくれ、梅の花よ。主がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。
――君は、この詩が好き?
――さあ。私にはわからない。
傲慢で、切ないこの詩が、光は好きだ。
自分がここにやってくる前から、梅の花は毎年ずっと咲いていて、自分がいようがいまいが、来年もいつも通り咲くだろう。
でも今――自分という存在がここに現れた今――梅の花が少しでも、根本的な部分を揺らがせてくれると信じたい。
梅の木の下、熱心にシロツメクサを編んでいた、逃げ場所のない女の子。
自分のけがも、検査日時も、彼氏の誕生日も大学も気にならない。
―― 一人が好き、というか。私はまだ、友達を作る余裕がないのかもしれない。
やっぱり君は、まだ同じ箱の中にいる。
僕が安全基地になるから、どうか君は、先のある君は、余裕がないなんて言わないで。
外の世界を、未来を見て。
僕の代わりに、どうか君が――。
身勝手な思いはたまに暴走し、彼女を困らせた。
先へ先へと急かす光に、梅乃はよくため息をついていた。
そのたびに、光は歯噛みしながら反省した。
そして――その身勝手と同じぐらい、置いていかないで欲しかった。
――ここにいなよ。……いなよ。
何か大切なものを差し置いても、ここにいて欲しい。
梅乃しかいない自分を、一人にしないで欲しい。
自分でも何がしたいのかわからない。
――君を、思い通りにしたいわけじゃないんだ。
それは誰より、自分に言い聞かせていたのかもしれなかった。
「戻れない」
梅乃がそう言ったとき、光は驚かなかった。
――行かなきゃ。
十年前も、梅乃はそう言って父親のもとに走った。
――あいしてるんだって。
やっぱり、自分には勝てなかった。
失恋を買う。
思えば最初から、皮肉のような負け戦。
「つらくなくても、顔を見に来るよ」
梅乃は、こんな時なのに笑った。
それは気丈で、昔、花冠を通して陽の光を跳ね返した、あの鮮烈な笑顔と同じ。
頬を赤らめて笑う、絵本の中のお姫様。
初めて出会った、たった一人の女の子。
「嬉しいな。君は思ったよりも、僕に愛着があるみたいだ」
光もつられて笑った。
「ありがとう」
心に深く沁み込んだその声が、自分の人生だと思った。
「きれいだ」
そっと、背中を押す。
「梅乃」
「大丈夫。君の世界は、そう簡単に奪われない」
梅にとっては一瞬の主。過ぎゆく長い年月の中で、いつしかその面影は消え去り、それでも梅は、毎年のびのびと匂いをおこす。
それでいい。それがいい。
彼女ははやく、狭苦しい箱から出て、もっともっと大きな場所で――。
ただ、願うなら。
いつしか広大な庭で美しく香る、その梅の木の幹に、自分がささやかな年輪を刻めていたらいい。
薄くて細い一筋でいい。
自分がともに刻んだ一層が、その木のこれからを支えてくれたらいい。
これから健やかに伸び、匂いをおこし、きれいな花を咲かせる、そのたおやかなこれからを――。
踵を返した梅乃は、頼もしい足取りで去っていった。
その後ろ姿を、いつものように手を振り見送って。
彼女が見えなくなった時、振っていた手をだらりとおろし、気が付いた。
ああ、でも本当は――。
別に彼女の一部になんかなれなくていいから、自分も隣で咲き続ける、梅の木になりたかった。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
本作はあと二話で完結します。
また次回もお目にかかれますように。




