十年前 至上の花冠
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二十九話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
二週間後。再び会ったその子は左足に包帯を巻いていた。
六週間後。再び会ったその子は右腕を吊っていた。
数か月がたつ頃には、光は頻繁に整形外科と小児科をのぞきに行くようになっていたし、緊急搬送があったときにはどんな人が来たのかを浅葱に熱心に尋ねた。
浅葱経由なら大体の情報は手に入ったので、教えてもらった特徴があの女の子に近かったらすぐに会いに行った。
夜中でも関係なく肩を揺さぶるから、女の子はたまに不機嫌な顔をしていた。
でも、「明日会いに行くね」と言ったら「うん」と必ず約束してくれるから、光は懲りずに夜中でも会いに行った。
ある日、中庭で女の子は約束通り、光に花冠を作ってくれた。
慣れた手つきで花を集めていく様子を、光はその日も夢中で見つめた。
自分のための冠だと思うと、その手つきが尚更すごいものに見えた。
感嘆の息をこぼしながら、光は問う。
「ところで君、今日はどこをけがしたの?」
「栄養失調」
「えいよう……?」
聞きなれない長い言葉に首をひねる。
しかし女の子はそれ以上口を開かなかった。
花を摘む女の子の指が、前より骨ばっている気がする。
長袖からふと、右手首が覗いた。
とても細い。
そして、ようやくガーゼが取れたらしいそこには、ざっくりと、皮膚が引き裂かれたような跡が残っていた。
「それ、どうしたの?」
思わずその跡を指さして尋ねた。
「……こないだ包丁で切った」
女の子は面倒臭そうに答える。
そんなところを?
この前はおなかのやけど。この跡は包丁の傷。
やっぱり、お料理が好きなんだろうか。
でも頭の隅で、そういうことではないとわかり始めている自分がいた。
女の子の横顔をじっと見つめる。
シロツメクサの花畑に、熱心に注がれる瞳。
そこに、他の感情は読み取れない。
「もうすぐ揃うよ」
不意に女の子が言った。
頬が、高揚でほんのり赤く染まっている。
――お姫様。
ただ楽しそうな横顔。
この横顔が、すごく好きだ。
でも――ひとたびこの子のお父さんが庭にやってくれば、彼女は一瞬で、感情のない人形みたいになってしまう。
無抵抗に引きずられ、たとえ一生懸命作った花冠を引きちぎられても、誤って踏みつけてしまっても、悲しみの声一つ上げない。
こちらの胸が張り裂けそうになった。
でも、それを目の前の女の子に言ったら、すごく嫌がられる気がした。
だから話を変える。
「……ねえ、そういえば、ぼくはホウシュウに、君に何をあげたらいいかな?」
「ほうしゅう?」
女の子は手を止め、こちらを向いて首を傾げた。
――あっ、こっちを向いてくれた。
光は思わず口元を緩めた。それから胸を張って言う。
「お礼のプレゼントだよ」
すると女の子はむっと口を丸めて、眉間に皺を寄せて考え込んだ。それから――。
「……よくわからない。私、別にいらない」
キッと鋭く睨まれた。初めての土地を警戒して、尻尾をピンと立てる野良猫みたいに。
――ああ、そうか。
きっと、この子はこれまでホウシュウをもらったことがないんだ。
どうしてだろう。
この子は、すごく素敵な顔で笑って、その上素敵な冠まで作れるのに。
光は、何が何でもあげたくなった。
「だめだよ。いいことをした人には、ご褒美がいるんだ」
「えぇ、いいよ」
いるよ、いいよ、いるよ、いいってば、いるの!
「いるったら、いるの!」
「……もう、好きにしたら」
女の子はため息をついて、最後は投げ出した。よし。今回は、光が勝った。
「本当? やったあ!」
光は目を輝かせて喜んだ。
「じゃあ、そうだな。何がいいかな」
光は丁寧にシロツメクサを束ねて編んでいく女の子の手つきに、ぽうっと見惚れながら考える。
光があげられるもの……あげられるもの……。
あ。
――知らない? シンデレラ。
――知らない。
――うそだあ。読んだことないの? 絵本とかで。
――お父さん、そういうの買ってくれない。
これだ。自分自身の力でこの子にあげられる、特別なもの。
「ねえ、じゃあ君に、ぼくがお話をするよ」
「お話?」
もうしてるじゃない、と女の子は再び首を傾げた。
光は首を振る。
「ううん。そういうことじゃないよ。おとぎ話。シンデレラとか、浦島太郎とか」
「……なにそれ。おもしろいの?」
「面白いよ。だってぼく、一日中そういうものを読んで時間を潰すんだ」
「……なにそれ。おもしろいの?」
「面白いよ」
堂々巡り。女の子は、最後はやっぱり投げ出して、
「じゃあ、これを作り終わるまでね」
そう、ため息をついた。
光はまた、目を輝かせて喜んだ。
そして、ちょっとばかし緊張する。
お話を誰かに語って聞かせるのは初めてだ。
しかも、その子は光のお話で初めて、そのストーリーを知る。
それってすごく重要な役目だ。
きっと、光が生きてきた中で、いちばん。
「じゃあ、まずはシンデレラ。いくよ? 準備はいい?」
「準備なんか、いらないよ」
「ええっ、強気だねえ。じゃあいくよ。むかーしむかし、あるところに……」
光は意気揚々と、面白さが伝わるように、抑揚をたっぷりつけて話した。
女の子はふうんと聞き流して手元を進めながら、時折手に汗握るシーンでは思わずぎゅっとシロツメクサを握って、握りすぎてくちゃくちゃにしてしまったり、急展開なシーンでは「えっ」と小さく声を漏らして、拍子に作りかけの花冠を落としてばらばらにしてしまったりした。
今日の女の子は、随分と手際が悪い。
でも、それが嬉しかった。
伊達に一日中一人ぼっちで本を読んでいない。
ほとんどの絵本は、読み飽きるほど読んで一言一句暗記している。
誰よりもうまく話して聞かせよう。
女の子の反応を見るたび、ますます声に力が入った。
それから、白雪姫を話して、桃太郎を話して、ちょうど浦島太郎も話し終えた頃。
「できた!」
女の子が、満足げに花冠を太陽に掲げた。
陽の光を跳ね返す、まぶしい笑顔。
光は今日も目をすがめた。
女の子はまぶしい笑顔のまま、こちらを向いた。
「どうぞ」
恭しく、王様に捧ぐみたいに、頭に輝かしい冠が載せられる。
ふさふさと、髪に茎や花が当たる感触。
すがすがしい緑のにおい。至上の王冠だった。
「ありがとう」
光が言うと、女の子はふふんと鼻を鳴らした。
光は飛びあがって喜びたかったけれど、花冠を落したくないのでじっとこらえて、それが頭に載った自分の影法師を見つめていた。
――部屋に戻ったら、鏡でも見てみよう。
「……そういえば、君は何の病気なの? いつもここにいるね」
ふいに、女の子が光に問うた。
光は目を瞬く。
女の子が光について質問するのは、初めてだった。
「心臓」
光が答えると、今度は女の子のほうが目を瞬く。
「心臓? それって、今もいたい?」
「ううん、今はそんなに。急に痛くなるんだ」
「急にか。……急は、いやだよね」
やけに実感のこもった声だった。
「どうして急だといやなの?」
「……お父さんも、いつも急だから」
女の子は目を伏せて、ぽつりとそう言った。
初めて、女の子がお父さんのことを愚痴った。
光は女の子の左手をつかんだ。
ちゃんと、傷跡がない方の手を選んだ。
女の子が驚いた様子で顔を上げる。
光は何も言わず、女の子の手首をそっと両手で包む。
女の子の額に、自分の額を寄せていく。
額同士がこつんとぶつかった。
急な光の行動に、女の子はくすりと笑った。
小鳥がさえずるような、かわいらしい笑い声。
光も、つられて笑った。
しばらくそうしていると、女の子は額をつけたまま、内緒話みたいにささやく。
「ねえ、きっと、すぐに治るよ」
哀れみのないその言葉は、光の心にじんわりと沁みた。
「うん」
お母さんがいたら、こんなふうに『いたいのとんでけ』をやってくれるのかもしれない。
何よりも強力なおまじない。
だから今度は、光の番だった。
「……僕と、一緒に逃げる?」
額をあわせたまま、光はすぐそこにあるまんまるな瞳を見つめた。
絵本ではよく、王子様がお姫様をさらって一緒に逃げる。例えば召使いにされていたシンデレラを救い出したのも、ガラスの靴を持った王子様だった。
自分も、この子をどこまでもさらってあげたい。
この子の苦しみが、全部なくなってしまえばいい。
女の子はまんまるな目をさらにまんまるにして、再び目を瞬いた。
「そんなこと、できないでしょ」
「できるよ。あさぎ……えっと、お手伝いさんに頼めば」
「お手伝いさん?」
「うん。笑うのは君よりずっと下手だけど、優しいよ」
女の子をじっと見つめる。
「ね?」
頭を傾けたら、花冠がずるりとバランスを崩した。
慌てて花冠を両手で押さえる。
そのせいで、女の子との距離が離れてしまった。
「ぼくと、一緒にここにいなよ」
それはただ、光の願いなのかもしれなかった。
「……いなよ」
初めて出会った、素敵な笑い方をする、誰より素直なお姫様。
女の子は、困ったように目をそらして、うつむいた。
「できないよ」
「どうして?」
「お父さんは、私がいないとだめだから」
「でも、お父さんは大人だろう?」
「でも……あいしてるんだって」
あいしてるんだって。
――ああ、そっかあ。
ジョーカーを切られた。
それを言われてしまえば、光にできることはなかった。
絵本の中の登場人物はみんな、愛する人とともに暮らしている。
王子様もお姫様も、町の人たちも、森の中の動物たちも、みんな。
自分には、「あいしてる」はあげられない。
光はまだ、それを知らない。
どすどすどすどす。
また、地鳴らしのような音がやってきた。
光はもう一度、女の子に手を伸ばす――。
でも、光がその手を摑まえるより先に、女の子はお父さんの方を振り返った。
「行かなきゃ」
引き留める間もなく、一目散に走っていってしまった。
そういえばまた、裾が土色のズボンを履いていた。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
また次回もお目にかかれますように。




