十年前 父への花冠
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二十八話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
「今日は、どうしてここに来たの?」
さっきは答えてもらえなかった質問を、もう一度投げかけてみる。
「……やけど」
女の子はぽそっと答えて、今度は光も追いつける速度で階段を降り始めた。
どこを? と訊いたら、その子は立ち止まって、光に向けて洋服をめくった。
「ここ」
途端、光は息を呑んだ。
手のひらより大きなガーゼ。その端から、じゅくじゅくしたミミズ腫れが覗いている。
こんなに酷い傷、初めて見た。
……どうやったらそんなところをやけどするんだろう。お料理の練習だろうか。
しかし尋ねる前に、女の子はもうおしまいとばかりに、さっさとおなかをしまって歩き出す。
けがの話は、あまりしたくないのかもしれない。
まあ、そりゃあそうだよなあ。
じゃあなにか、違う話をしよう――。
「ねえ、この間、中庭にいたよね?」
すると女の子は、目を見開いてこちらを振り返った。
ぱちん。
二人の目が合った。
「どうして知ってるの?」
――こっちを向いてくれた……!
光は嬉しくて、前のめりに答える。
「窓の外に見えたんだ」
「……ふうん」
しかし女の子はすぐに興味をなくしたようで、伏目がちに小さく一度うなずいて、また歩き出した。
光は急いで追いかける。
「ねえ、今日も行くの?」
「うん、お父さんがくるまで」
もう、振り返ってくれなかった。
でもそうか。この前のどすどすした怖い人は、お父さんだったらしい。
「いつも、お父さんと一緒に病院に来るの?」
「うん」
止まらない背中が淡々と答える。
「……お父さんのこと、好き?」
なんとなく、そう訊いていた。
前に見かけた日、この子は強引に引き摺られるようにして中庭を後にした。
人形みたいに引っ張られて、光から見たら痛そうだった。
あんな人と一緒に暮らして、楽しいんだろうか。
女の子の歩みが、急に遅くなった。
「……そう、なんだとおもう」
「だとおもう?」
隣に追いついて、女の子の顔を横から覗き込む。
女の子は、自分のつま先をじっと見たままうなずいた。
だって。だってね――。
「あいしてるんだって」
それは霞が掛かったように、ぼんやりとした響きだった。
――あいしてる。
光はその言葉を、舌の上でそっと転がす。
女の子はうつむいたまま階段の手すりをぎゅっと握りしめ、それから再び歩き出した。
光はもちろん追いかけながら、もう一度、頭のなかで繰り返す。
――あいしてる。
どういう時に使う言葉かは、知っている。
すごく、大事な人に言う言葉だ。
それをおじさんは、女の子に言うらしい。
光は、生まれてから一度も言われたことがなかった。
というかそもそも、自分はお父さんと一緒に病院に来たことすらない。
ああ、そうか。
そうだった。
――じゃあ、あいされているんだろうな。
そうこうしているうちに、中庭にたどり着いた。
女の子は、一目散にシロツメクサがたくさん咲いている場所に駆けて行ってしゃがみ込んだ。
ここまでスリッパと靴下で出てきてしまった光は、このままついていって良いのか、束の間ためらった。
でも、靴を取りに戻っている間にも、女の子はお父さんと帰ってしまうかもしれない。
結局すぐに、スリッパはその辺に放って、靴下のまま茶色い土に足を踏み入れた。
病院の床よりもふかふかしていて、石のないところを選んで歩けば気持ちいい。
女の子の隣にしゃがみ込む。
女の子は早くも四つ、シロツメクサを摘んで手に握りしめていた。
「それ、どうするの?」
「はなかんむりにする」
「……はなかんむり?」
絵本で何度か見た、色とりどりの花の輪っかが頭に浮かぶ。
「君、あれが作れるの?」
あんなのは、特殊な職人が作るものだと思っていた。だって、それを身につけているのはいつも、すごく美しい、選ばれしお姫様だから。
「簡単だよ」
女の子は平然とうなずく。
――すごい。
光は感動した。
そんなものを作れる人が現実にいるなんて。
しかも、自分と同い年くらいで。
「君って立派なんだなあ」
光が目を輝かせると、女の子は「別に」と相変わらずそっけなく答えた。
でも――光は気づいた。
その頬が、わずかに赤く染まっている。
とある絵本で、王子様に花束をもらったお姫様が、頬をりんご色にして照れていたのを思い出した。
心がまた、じんわりと温まっていく。
「ねえ、ぼくにもつくってほしいな」
シロツメクサに夢中の女の子を下から覗き込んで、丁重にお願いしてみた。
その子がつくる花冠が、自分も欲しかった。
「だめだよ。これは、お父さんのだから」
秒殺で断られた。
がぁん。
光はうなだれる。
だめだよ、なんて人生で初めて言われた。
「お願い、ぼくにも作ってよ」
光はもう一度、両手を握りしめて訴える。
だって、どうしても欲しい。
「だめだよ」
返事は変わらない。
おねがい、だめだよ、おねがい、だめだよ、おねがい、だめだよ、おねが――。
「しつこい!」
最後には、ぴしゃりと叱られてしまった。
ますますショックだった。
そんな風に叱られたことも、これまで一度もない。
うずくまり泣きそうになっていると、女の子が大きくため息をついて、ちらりとこちらを見た。
「……今日は、お父さんの分で時間がないの」
そしてすぐ、せっせとシロツメクサの選定に戻る。
光はそれを、しょぼしょぼに萎れた顔で見つめ――あれ……? あれれ? それって。
「ねえ、それって、じゃあもし、君とぼくがまた会えたら――?」
にょきにょきと、おとぎ話の豆の木みたいに期待が膨らんでいく。
女の子はまた、横目で一瞬だけこちらを向いた。
「もしも、また会えたらね。でも、病院なんかで、そう何度も会わないと思うよ」
つんと鼻をそらして、ませた口調。
それでも光の萎れた心は、みるみる復活した。
身体ごと女の子の方を向いて、神様を見るような気持ちで見つめる。
「いいや、会うよ、任せて。なにしろぼくは弱っちいんだ」
「……なにそれ」
返ってきたのはまた、興味なさそうな声だった。
それでもその頬は、また、赤く染まっている。
りんご色。ああ、やっぱり――。
「お姫様みたい」
「……なにそれ」
ボロボロの靴を履いて、お父さんのために一生懸命花冠を作る、けなげで素直な女の子。
気づけば女の子は、シロツメクサを必要な分集め終わって、今度はせっせと編み始めていた。
光が隣にいることなどまるで忘れてしまったみたいに、むっと口を丸め込んで集中している。
光はきれいな輪っかが紡がれていく様を、膝に肘をついて、じっと眺めていた。
「できた!」
しばらくして、ようやく出来上がった花冠は、光たちの頭には少し大きい大人用。大ぶりの花だけを使った、豪華なものだった。
女の子はそれを、満足げに太陽に掲げる。
シロツメクサのひとつひとつが太陽の光を受けて、真っ白く輝く。
輪っかを通り、容赦なく差し込む陽の光。
それを力強く跳ね返すように、女の子は、にっと歯を見せて笑った。
まぶしかった。
こんなにきれいに笑うなんて、やっぱりお姫様に違いない。
光は人生で初めて、素敵な笑顔というものを見た。
どすどすどすどす。
急に地ならしみたいな音がして、意識を引き戻された。
音がやってくる方を振り返ると、不機嫌そうに顔をゆがめた、巨人みたいに大きなおじさん。
「……お父さん、だよね?」
ひそひそ声で尋ねると、女の子は口元をこわばらせてうつむいた。
それから作った花冠を、両手で小さく握りしめる。
どすどすどすどす。
地面を不穏に揺らす乱暴な足取りで、おじさんはあっという間に近づいてくる。
三つ数える頃には、日向にいた光と女の子は、すっぽりと巨体の影に隠れてしまった。
つま先とつま先がくっつきそうな距離。
見上げると首が痛くなった。
女の子は隣でうつむいたまま、両手を精一杯伸ばして花冠を差し出す。
「あの、こ」
「またこんなところまで来やがって。さっさと帰るぞ」
しかし言い終わる前に、苛立ち混じりの声が無遠慮に遮った。
ぐい。
花冠を差し出した女の子の腕の片方が、荒々しく引かれる。
急な動作に、女の子はつんのめった。
はずみで、両手で持っていたきれいな花冠は、真っ二つに引きちぎれてしまった。
そのうち片方が地面に落ち、ばらばらになる。
おじさんは目もくれず、女の子をさらに引っ張る。
女の子はますます体勢を崩して、自らの足で、地面に落ちた花冠の片割れを踏んでしまった。
――あっ!
光はびっくりしておじさんを見上げた。
しかしこの人には最初から、光など目に入っていない。
それどころか、女の子すら目に入っていないのかもしれない。
どすどすどすどす。
声をかける間もなく、おじさんは女の子を引き摺って、どんどん遠ざかっていく。
光はただ呆然と、それを見ていることしか出来なかった。
――あいしてるんだって。
先ほどの言葉が、再び頭の中に響く。
おじさんが今、乱暴に引っ張っているのは女の子の右手首。
そこにはついこの間まで、分厚い包帯が巻かれていた。今は薄めのガーゼに変わったけれど。
――痛そう。
二人の背中がだいぶ小さくなった頃、女の子の腕が、すべてを諦めたようにだらんと垂れ下がった。
手に残っていた花冠のもう一方の片割れが、その時、ぽとんと地面に落ちて崩れた。
――できた!
鮮烈な笑顔と弾んだ声。
太陽に掲げられ、白く瑞々しく輝いた花冠。
二人が完全に見えなくなってから、光は一人、とぼとぼ全てを拾い集め、梅の木の下にそっと横たえた。
その後、病室に戻りベッドに入ろうとしたところで光は、自分が靴下で外に出ていたことを思い出した。
はっとして来た道を振り返る。
自分が歩いてきた場所に、土の足跡がぺたぺたついていた。
そういえば、スリッパも途中でどこかに忘れてきたみたい。
――取りに行かないと。
そう、思ったと同時。
お姉さんの看護師が、スリッパを持って部屋に入ってきた。
「外に出るときは、靴を履きましょうね」
いつもの、目の端と口の端がくっつきそうな完璧な笑顔。
でも、目元がぴくぴくしていて、額には青筋が浮かんでいる。
光はうなずきながら、この人はどうして笑うんだろうと思った。
さっき見た素敵な笑顔が、頭から離れなかった。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
また次回もお目にかかれますように。




