十年前 出会い
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二十六話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
その子を初めて見かけたのは、道真光が六歳のときだった。
その頃、光は既に入退院を繰り返し、我が家でお手伝いさんと遊ぶ時間よりも、病院で一人点滴されている時間のほうが長かった。
病弱な自分は、跡継ぎには心もとない。
両親は早々に、光を自らの手で育てることを放棄した。一度は結んだ風船の糸を気まぐれにぷつんと切るように、いとも簡単に。
まもなく、道真家には第二子が生まれた。たくさんいたお手伝いさんも大半はそちらにつきっきりになり、代わりに光には毎日、「これでも読んでいなさい」と本が届けられた。
その日もいつものように病院で点滴を打たれながら、渡された本を読む気にはならなくて、窓の外を見やった。
外来患者用の一階の部屋。中庭の真ん中に、梅の木が見えた。
季節は春はじめ。
ちょうど七分咲きで、青空の下、映える薄桃色がきれい。
ぼんやり見ていると――。
ひょこ。
――あれ?
不意に窓の下方から、小さな黒いものが覗いた。
――なんだろう。
点滴が外れてしまわないように、そっと上体を起こす。
同い年ぐらいの女の子が一人、中庭でちょこちょこ動き回っていた。
長袖長ズボン。ズボンは大きすぎるのか、しょっちゅう靴で踏んづけて、裾は汚れた土色になっている。
どうやら、その子は地べたに咲くシロツメクサに執心しているらしかった。
顔を近づけて、じっと眺めては考えこみ、お眼鏡にかなったものはぷちんと摘んで集めていく。
ひとつ、またひとつ。
手の中に花が増えていくたび、きゅっと控えめに口角を上げた。
今度は遠くにあるシロツメクサに手を伸ばす。
長袖から、細い手首が見えた。
――あ。
そこには包帯が分厚く巻かれていて、手首が細すぎるせいで、骨付きハムみたいになっていた。
――けが、したのかな。
女の子は夢中で花を集める。左手に集めた数は、もう二十になるだろうか。
――シロツメクサ、好きなの?
窓を開けて、そう尋ねてみようと大きく身を乗り出して――ちくん。
左腕が痛んだ。
点滴の管が突っ張っていた。
――ああ、もう。
光はぶすっとベッドの中に潜り込む。
いいところだったのに。
窓の外にはまだ時折、ひょこひょこと黒い頭が見える。しばらくそれをぼうっと眺めていると――。
「おい」
急に、窓の外でどすの利いた声がした。抑制されているが、地を這うように、低くて怖い。
――なんだろう。
そっと首を伸ばして、窓の向こうを窺ってみる。
ずかずかずかずか。
苛立ちを隠さない荒っぽい足音と共に、現れたのは、大きな壁みたいなおじさんだった。
眉間に皺を寄せ、髪の毛はぼさぼさ。ヨレヨレのスウェットに、すっかり茶色くなって元の色がわからない突っ掛け。
女の子はその人と目が合うとびくんと肩を震わせて、拍子に、せっかく摘んでいた花をすべて落としてしまった。
地面に真っ白なシロツメクサが散らばる。
女の子が長く握りしめていたせいで、それらは少しくたびれていた。
おじさんは大股で、女の子のすぐそばまでやってくる。
最後の一歩が、シロツメクサたちをぺしゃんこに踏みつけた。
「あっ!」
光は思わず声を上げた。
同時に、女の子の顔からすっと表情が消えた。
しかしおじさんはまったく気づかず、女の子の腕を乱暴に鷲掴み、さっさと来た道を引き返す。
女の子は無表情のまま、人形のように無抵抗に引き摺られ、あっという間に遠ざかっていった。
「おつかれさまでした」
少しして、柔和な笑みをたたえた看護師のおばさんが部屋に入ってきた。今日の分の点滴が終わったらしい。
おばさんは大仰なほど丁寧に光の腕をとり、ゆっくりとテープをはがして針を抜く。
そしてこちらを覗き込んで、ねっとりした声で尋ねた。
「いたかった?」
「ううん」
首を横に振りながら、光は思い出す。
――あの子は道真さんの家のお子さんだから、くれぐれもソソウのないように。点滴一本射すのも慎重に。
この人は前に廊下で、若いお姉さん看護師たちにそんな事をすごんでいた。
「それならよかった。お大事にね」
目の端と口の端がくっつきそうな、よくできた笑顔。
あの時のやまんばみたいな顔を思い出すと、なんだかこれは、気味が悪い。
光は曖昧に笑って目を逸らし、自由になった上体を乗り出して、今度こそ窓に両手をついて外を覗いた。
しんとした小さな中庭。
ぺしゃんこにつぶされたシロツメクサたちが、ぽつぽつと地面に転がっている。
女の子の手中ではみずみずしい白色だったのに、それらはもう、すっかり茶色くなっていた。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
また次回もお目にかかれますように。




