高校一年生終わり 別れ
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二十五話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
その日も、若狭家に鍵はかかっていなかった。
片足でドアを半開きにして、ノブを後ろ手で握ったまま、家の中を見渡す。
昨日と何も変わらず、割れ瓶や着古した洋服が散乱している。
そうっと首を回して、父親の姿を探した。
父親はすぐに見つかった。
昨日、梅乃が家を出た時と全く同じ体勢、全く同じ目つきでそこに、ミイラのように佇んでいた。
梅乃が来たことに、気が付いているのかもわからない。
息を呑んだ。
この人はこのままここで、誰にも知られずに腐っていくんじゃないか。
「……お、おとうさん」
なんとか声を絞り出した。
背後でドアノブを、確かめるように握りなおす。
本当はすぐにでも後ずさり、逃げ出したい。一刻も早く、ここを離れたくてたまらない。不快な手汗がどんどん湧き出て、とうとう手がドアノブを滑った。慌ててもう一度、握りなおす。背中にドアが当たった。
しばらくの沈黙。
父親はやはり無反応だった。
「お父さん」
今度は少し声を張って、呼びかける。祈るような思いで。
父親のためじゃない。父親が一人で生きていけると、安心したかった。
返事、返事をして。
元気な声でなくていい。一言「おう、お前か」と、それだけ言ってくれればいい。
ゆっくりでいいから立ち上がって、水を一杯飲んでくれたりしたらもっといい。
そうしたら、梅乃は心置きなくあの場所に帰れる。
あの、常春の場所に――。
父親の顔に、窓から差し込んだ朝日が当たっている。
陽に照らされた父親の顔は、頬がこけ、目の下はくぼみ、その瞳は太陽を正面に受けていながら、一筋の光すら映さない。
「お父さん」
震える声で、もう一度名前を呼ぶ。
返事をしてよ。頼むから――。
父親はようやく、顔だけゆっくりとこちらを向いた。
ひげがまばらに生えている顎を下げ、スローモーションのように口を開く。
その吐息が空気を震わせる直前。
その目が、すっと細められた。
「お前、あの女に似てきたなあ」
しみじみと、唸るような声だった。
背筋にぞくりと、嫌なものが走る。
床に足が縫い留められたように、動けなくなる。
「お前も俺を、捨てにきたんだろう」
地の底を這うように、低くしゃがれた声。
沈黙の中、怖いほど明瞭に鼓膜を揺らしたそれは、一文字ずつ、確実に梅乃の心を刺した。
そして思い知る。
ああ、終わった。
奪われた。
それは静かな絶望だった。
――お前も俺を、捨てに来たんだろう。
父親は知っている。その一言で、梅乃がいとも簡単にどこにも行けなくなることを。
――お前は俺を捨てるなよ。捨てないでいてくれるよな? 愛してる。愛してるんだ。殴りたいわけじゃないんだ。ごめんな。ごめんな。
――私も、おとうさんが好きだよ。どこにも行かないよ。
母親が出ていった直後、父親は酔っぱらっては夜な夜な梅乃を叩き、服や髪を引っ張り、風呂場に閉じ込め、そうして酔いつぶれる直前になると、決まって許しを乞うた。
お前はどこにもいかないで。
置いていかないで。
あいしてるんだ。
あいしてるんだ。
幼心に痛々しくて、この人には自分しかいないんだと守りたい心が芽生えて、むせび泣く父親を一生懸命布団に寝かせ、大丈夫だよと頭を撫でてやりさえした。
いつしか梅乃が成長し、母親似の顔が際立つようになってからは、怒鳴りこそすれ、縋りつくことはぱったりとなくなったけれど。
――捨てないでいてくれるよな? 愛してるんだ。
それでも、梅乃の足元で巨体を無様に丸めて泣く父親の姿。
それは今でも梅乃の深い部分に、『あいしてる』という呪詛と共に、爛れた焼け跡のように刻まれている。
――お前も俺を、捨てに来たんだろう?
たった一言。一瞬で、幼い頃の自分に引き戻された。
――放っておけたなら。
そう、本気で悔やんだ時点で、負けていた。
「戻れない」
その日の放課後。梅乃は一直線に光の部屋に帰り、「おかえり」「ただいま」を言い合うより先に、唇をかんでそう告げた。
「うん」
光は静かにうなずいた。まるで、最初からすべてわかっていたというように。
「つらくなったら、いつでもここに来たらいい」
あまりに優しいから、梅乃は思わず言いたくなってしまう。
違う、違うよ。
本当はここにいたい。いたい。いたい。痛い――。
それでも拳を握り、真っ直ぐ光を見つめ返した。
「つらくなくても、顔を見に来るよ」
精一杯の笑顔。
どうか、この瞬間だけは、気丈に見えていますように。
自分が置かれた環境を諦めきっていた梅乃を、光がここまで掬い上げてくれた。
だから今。
――ここにいなよ。……いなよ。
光が諦めきったその我儘を、自分が掬い上げたいと思う。
「へえぇ……君は思ったよりも、僕に愛着があるみたいだ」
気の抜けた声。光は人差し指で鼻を擦りながら目をそらした。耳がほんのり赤くなっている。
こういう時、照れ方が幼い光が好きだ。
「ありがとう」
心の底からの言葉だった。
「きれいだ」
返ってきたのは答えになっていない、それでも安心と共に、踏み出す力をくれる言葉。
光は、目の中に潜り込んでくるんじゃないかと思うほど、じっと梅乃の瞳の奥を見つめていた。
「それじゃあ」
それから笑顔で片手を上げた。登校する梅乃を「行ってらっしゃい」と見送るいつもの朝のように。
「うん、それじゃあ」
背を向けて、部屋の引き戸に手をかける。
あまりにも軽い扉の、その外に、一歩。
この場所から、何度も振り返って「行ってきます」を言った。
「行ってきます」には「ただいま」が要る。
だから今日は言えない。
振り返ってはいけない。
目頭に熱がこみ上げる。
ぐっと奥歯を噛み、唇を引き結んで、もう一歩――。
「梅乃」
それは穏やかな声だった。
思わず、振り返ってしまった。
「大丈夫。君の世界は、そう簡単に奪われない」
さざ波のように、言葉は穏やかに心に広がり、沁みていく。
「……うん」
小さく、でも確かにうなずいた。
もう一度、背を向ける。
一歩が重い。
それでも、今度こそ部屋を出た。
背中の後ろで、扉が静かに閉まった。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
また次回もお目にかかれますように。




