高校一年生終わり 嵐へ
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二十四話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
「お父さんなんか、見捨てちゃえばいいよ」
聞き間違いかと思った。
それはひどく、静かな声だった。
「死んだって自業自得だ。君のせいじゃない。……絶対に、君のせいじゃない」
光はうつむいて、膝にかかっている毛布を両手で握りしめる。
二種類のふりかけで彩られたご褒美飯は、二人の机の上で、冷めてかぴかぴになり始めている。
「ここにいてよ。だって、だって僕は、君に安全な場所をあげただろう? それに引き換え君のお父さんは君を苦しめてばかりじゃないか。君は……君は、どう考えたって僕を選ぶべきだ」
光は言いながら、握りこんだ自分の拳をじっと睨みつけていた。
「ここにいなよ。……いなよ」
唇を噛み、口の端を下げて泣きそうな顔をする。
それは決死の覚悟で我儘を言う、子どものようだった。
弱々しく訴えるその声が、どうしてか少し懐かしい。
――いるよ。
そう、心から思うのに、言葉にできなかった。
自業自得。本当にその通りだ。
その通りでしかない。
それなのに。
――ちゃんと、お父さんを看てあげて。ちゃんと。
ミイラみたいな父親に、自分がとどめを刺したらと思うと、言葉が出なくなる。
梅乃は一人では生きていけない、まだ子どもなのだ。
大人に『こうすることが正しい』と教えられたものを、投げ出すことが怖い。
自分の勝手で取り返しのつかないことになって、そしたら自分はどうなるんだろうと思うと怖い。
ぎりっ。奥歯を強くかみしめた。
どうして、こうなるんだろう。
どう考えたってここにいたいのに。
光の言う通り、父親なんか、見捨ててしまえたらと思うのに。
それなのにどうして――。
ぱっ。
ふと、左手を温かさが包んだ。
華奢だけれど大きい、光の手だった。
光はいつの間にか車椅子に乗ってそばに来て、梅乃を見上げていた。
強く握りしめるあまり真っ白になった梅乃の手を、添えられた熱が、じんわりほどいていく。
骨ばった指。今日の昼、梅乃の手をつかんだ冬宮のほうが何倍も、力があるような気がする。
それでも心強くて、泣きそうになった。
「……ごめんね。君を、僕の思い通りにしたいわけじゃないんだ」
向けられているのは、前にもしていたような、ちょっと情けない、ふにゃりと歪んだ顔。
「そんなこと、思ってないよ」
「うん」
光は眉を下げたまま、笑みを携えうなずいた。それから心の準備をするようにそっと息を吸って、また口を開く。
「……君は、家に帰るよ」
「えっ」
さっきとは真逆のことを言われた。しかも今度は断定形。
梅乃の手を包む手に、また静かな力が籠もる。
「でも、覚えていて。君がここで暮らさなくなったとしても、ここは君のための場所だ」
片手から伝わる熱が、全身をほどいていく。
「ちゃんと、ここにあるから」
また、泣きそうになった。
光はいつも、ここぞという時に、梅乃が一番欲しいものを惜しみなく差し出してくる。
砂漠の真ん中で、干からびる寸前の草木に、豊潤な水を与えるように。
縮こまり固まっていた頭が、少しずつ動き出す。
「……戻ってくるよ」
慎重に、自分の考えの輪郭を捉えるようにつぶやいた。
大きくひとつ、深呼吸。
今度は光の目を見て、繰り返す。
「……明日、父親に会いに行く。それで、大丈夫だと確かめて、きっと戻ってくる」
自然と背筋が伸びた。
父親だって大人なんだ。医師の許可を得て退院した、立派な成人。その事実を忘れていた。自分がいなくても、案外大丈夫かもしれない。
ちゃんと、確かめに行こう。
見てみないことには、ここでただ縮こまっているだけでは、わからない。
きっと大丈夫。だってこんなに細い光の手にも、これほどの力が宿っているのだから──。
真っ直ぐ、光を見据える。光もこちらを見ていた。
その瞳は月の光を反射して、きらきら輝いている。
「きれいだ」
ぽつりと、光がつぶやいた。
「君の、真っ直ぐに輝く目はすごくきれいだ」
その言葉はまさに今、自分が思ったことだった。光は微笑む。
「今の君なら、砂漠だって嵐だって、きっと切り裂いて進んでいけるよ」
胸の奥にすっと広がり、溶けていくような声だった。
光はここにいる。
暖かく、安らかなこの場所で待っている。
「戻ってくるよ」
梅乃は再びつぶやいた。
翌朝六時。その日も、光が目覚める前に家を出た。
アパートに辿り着く。
階段を上っていくと、各部屋の扉に陽がさして、あちこちのさび付きがよく見える。
昨日見た、死人の巣窟のような有様を思い出して肩が重くなった。
扉の前で立ち止まり、目を閉じる。
大きく一つ、深呼吸。
――きれいだ。
昨日の、光のきらきらした瞳が脳裏によみがえる。
恐る恐るドアノブに手をかけ、握った。じっとりと、手汗が滲む。心臓が、不快な音を立てている。
それでも力を入れて、ドアノブを引いた──。
お読みくださりありがとうございました。
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また次回もお目にかかれますように。




