高校一年生終わり 本音
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二十三話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
放課後、梅乃は光の部屋に戻った。
――日常生活に、介助が必要かもしれない。
部屋の扉に手をかけたとき、後ろ髪を引くように、そんな医師の声が頭をよぎった。
かき消すように、いつもより勢いをつけて扉を開ける。
「やあやあ、おかえり」
光は揚々と片手を上げて梅乃を迎えた。
「ただいま」
「今日はどうだった?」
「塩バターメロンパン、獲得」
「おおっ! よっ、韋駄天!」
「いだてん?」
「俊足の神さま。勝利の味はどうだった?」
「最高」
「いいねえ」
いつも通りのやりとりに、心が洗われていく。
「それから、学校に遅刻したから、一限と二限の最初が受けられなかったんだ。そうしたら隣の席の榎君が、ノートを見せてくれた」
「なんだって? 君っていう人は、モテモテじゃないか」
「ふふん、私、結構やるんだ」
「そうだよ。君はいつもすごい」
相変わらず反応が真っ直ぐで、こそばゆさを逃がすために、思わず苦笑いしてしまう。
「……でも彼は、どうやら字が壊滅的に下手らしい」
「なに? どれどれ、見せてごらん」
さっそく、撮らせてもらったノートの写真を差し出した。
「……おお、これは」
写真を一目見て、光は目をぱちぱちと瞬き、束の間本気で言葉を失くした。しかしすぐに、「これはやりがいがあるぞ」と肩を回し始める。
「さあ、教科書を出して」
ぽんぽんと、ベッドの隣を叩かれた。
梅乃は教科書を鞄から抜き出して光に渡しながら、促された場所に腰かける。
思えば、二人でこんな風に勉強をするのは案外久しぶりだ。
「待ってよ。彼はミとシとツと三が全部一緒じゃないか」
「えぇ? ……どれ」
いやいや。まだちょろっとしか見ていないが、いくらなんでもさすがにそれは――本当だ。ひどい。ひどすぎる。
「……取り敢えず、今日の生物はミトコンドリアの話みたいだ」
しかし光は早々に榎の文字の癖を把握したらしい。慣れた手つきで教科書の該当ページを探し始める。梅乃の方も、資料集を引っ張りだしてパラパラめくる。
途中、光を横目で盗み見た。熱心に古地図から航路を解読する冒険少年のような、エネルギーと挑戦心に満ちた横顔。
――帰ってきた。
そう、じんわりと実感した。
――日常生活に、介助が必要かもしれない。
同時に水を差すように、その言葉がよみがえった。
死人の巣窟みたいな場所に、ミイラみたいな父親を一人、置いてきた。
居心地悪さがずっと、うっすら背中に張り付いている。
それでも。
それでも、自分が帰る場所は、ここなんだ――。
梅乃はぶんぶんと頭を振った。
「おぉい、聞いているかい?」
「えっ、あ、ごめん。なんだっけ」
いつの間にか、光の自信満々な解読報告が始まっていた。
「つまりミトコンドリアっていうのは、君の身体の細胞一つ一つにもちまちま入っていてね……」
「うん」
――うん、やっぱり、ここがいい。
久しぶりに、二人で夕食までみっちり顔を突き合わせて勉強した。疲れ切った二人をねぎらうように、最後の課題、ラスト一問が解き終わった完璧なタイミングで夕食が出てきたときには、感動して二人、諸手をあげて喜んだ。
光はお膳が目の前に運ばれると、高らかに宣言した。
「やったあ。今日という今日はご馳走だ。よおし。僕はゆかりとあかり、両方かけてしまおう」
「えぇ、欲張りすぎじゃない?」
「いいや、今日ばっかりは欲張っても文句は言われまい。というか、君はやらないの? 随分と節約家だね」
「……言ったね? 舐められたら困るよ。私は『もらえるものはもらう』をポリシーに生きてるんだから」
煽りに乗せられて、結局梅乃も、あかりとのりたまの二色ご飯にした。
「いただきます」
二人で両手を合わせ、お互い待ちきれずにそそくさとお盆から箸を取り上げる。
しかし光は、豪華な二色ご飯をたっぷりすくって、口に入れる直前、
「ああそうだ。それで、君の今日のニュースは、もう全部聞き終わったっけ?」
そう、思い出したように手を止めてこちらを向いた。
「ああ、そうだな……」
梅乃は持ち上げた箸を僅かに下ろし、視線を上げる。
――日常生活に、介助が必要かもしれない。
また、耳にはりつくような声が聞こえた。
頬が引きつった。
光はもくもくと二色ご飯を咀嚼している。
梅乃は両手で箸を置き、小さく息を吸った。
唇が震える。
本当は一人でこれ以上、この重荷を抱えきれそうにない。
「父親が今日、退院したでしょ」
「うん、そうだね」
光も自然に箸を置いた。さざ波が囁くような、ゆったりとした相槌。
「……なんかね、死んだ人みたいに静かだった」
ひゅっ。息を吸うと、喉の浅い部分で嫌な音がする。
「話しかけても目が合わなくてさ、なんか、本当に生きてるのかなって感じ」
口の端を引き上げて、明るく話しているつもりなのに、声が不格好に揺れている。
「うん」
「病院から、アパートまで一緒に行って、荷物だけ置いて……置いて……置いてきちゃった」
「うん」
「家の中、瓶がたくさん割れてて、服も雑誌も散らかってて。……なんか、空気もこもってたし」
無意識に手を強く握りこんでいた。爪が皮膚に食い込んで、指の先の方が白くなる。
「お父さん、部屋が散らかってるのに全然見えてないみたいに、靴で入っていって、そのまま布団に座って……それで、変なところ、ずっとぼうっと見てた」
「そうか」
「……なんか、これから死ぬ人って、こんな感じなのかなって」
意思とは無関係に声が上ずる。自分の話していることが、話したいことが、頭の中でぐちゃぐちゃで、取り敢えず、頭に浮かぶ言葉を口に出している。
「うん」
光の返事は、どれだけまとまらない言葉を投げてもふんわり受け止めてくれる、低反発のクッションみたいだった。
頭に浮かぶのは、ついこの前まで荒れ狂った鬼みたいだった父親が、ミイラみたいに座り込んで、生気のない家と同化した姿。
――今、お父さんはとても不安定な状態です。できるだけ、お父さんを看てあげてくださいね。
医師にも看護師にも、再三言われた呪縛のような言葉。
「私、面倒を見てあげてって。お父さんにはあなたがいないとって……」
ずしん。言葉にするとまた一段、肩に乗った鉛が重くなる。
――ちゃんと、お父さんを看てあげて。
――ちゃんと。
――ちゃんと。
――ちゃんと。
酒を飲んでは瓶を振り回し、夜中でも叫び声をあげて梅乃を叩き起こし、寒空の中でも灼熱の中でも肩をどついて梅乃を放り出した父親。
ミイラになったら、梅乃のせいだろうか。
梅乃が『ちゃんと看て』いなかったから、父親は死ぬんだろうか。
あんな家には帰りたくない。絶対に、一秒だっていたくない。
でも、帰らなかったら父親は死んで、そうしたら父親を殺したのは――。
「私、わたし……」
言葉にならなかった。何を言いたいのかも、わからなかった。
ただ、梅乃の肩には重い重い鉛が乗っていて、どこかに置いて来ようとしても、そこから無数の茨が伸びて、梅乃に巻き付く。
「お父さんなんか、見捨てちゃえばいいよ」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
それはひどく、静かな声だった。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
また次回もお目にかかれますように。




