高校一年生終わり 手首の傷
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二十二話です。過去がまた少し明らかになります。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
そのまま、梅乃は高校へ向かった。
遅れて教室に入る。
もう二限の途中だった。授業は数学。
扉を開けると、黒板を向いていたクラスメイトが数人、こちらを振り向いた。
冬宮もその一人だった。目が合って、小さく手を振る。
先生とも目が合い、会釈をしてからそそくさと席に向かった。
「おはよう。今日どうしたの?」
席に着くと、隣の席の榎がこっそり話しかけてきた。相変わらず、手癖でペンを回している。
「ああ、っと……ちょっと、家に帰ってた」
「忘れ物?」
「まあ、そんな感じ」
ふうん。榎は数回うなずいて、黒板に向き直った。
普段はさして話すこともないのに、自分のことを気にしてくれている人がいる。
不思議な感覚だ。
授業が終わった後、「これ、写真撮ったら」と一限と二限のノートを見せてくれたのも榎だった。
だが、彼の書く文字は、ちらりと見ただけでもものすごいミミズ文字。解読は相当大変そうで。
……これは光の力を借りないと。
礼を言って写真を撮りながら、梅乃は密かに笑ってしまった。
それから、古典と情報を受けて、昼休み。
チャイムと同時、いつものように冬宮と購買に走った。
あんなに恐れていたのに、父親が病院を出た後も、今のところ普段とさほど変わらない。
いっそ拍子抜けしてしまうほどに――。
「若狭さん、今日は何かあったの?」
購買を出て、人気のない階段で二人、戦利品をほくほくかじっていたら、冬宮が問うた。ここは静かに過ごせる穴場スポットなのだと、初めて一緒にお昼を食べた時に冬宮が教えてくれた。
「ああ、……父親が退院して」
梅乃も戦利品を咀嚼しながら、なるべく重く聞こえないように答えた。じゅわっと口に広がる甘じょっぱさと、絶妙なサクふわ食感。これは何度食べても飽きない。
「……お父さん、病気なの?」
「あー、アル中」
少し迷ってから、冬宮には言ってしまってもいいかと思った。
冬宮だって、梅乃に絵を見せてくれたから。
「うちの父親、割とろくでもないんだ。しょっちゅうお酒飲んで暴れてる」
梅乃はわざと肩をすくめた。
冬宮が顔をあげてこちらを見る。せっかくパンの一番中身が詰まった真ん中にたどり着いたのに、いっこうに次の一口をかじらない。
「……お母さんは?」
それは、核心に触れたいと手を伸ばしながら、むやみに傷を荒らすことを恐れている、遠慮の塊みたいな声だった。
梅乃はからっと笑う。
「うち、父子家庭だから」
梅乃も、パンの真ん中にたどり着いた。待ってましたと大きな口でほおばろうとして――ぐっ。
冬宮が、梅乃の手首をつかんだ。
一番いいところを阻止され、梅乃は「あ、ちょっと」と抗議する。
「あの、さ。……これ」
冬宮の視線は、右手首の内側。皮膚に青く透けている血管の、少し下。
「……ああ、うん」
長袖ならギリギリ見えないその場所には、引き裂かれたような古傷があった。
梅乃はいつも、ひと回り大きいのシャツを着る。冬宮にまで気づかれているとは思わなかった。
気まずい沈黙が流れる。
「……大分昔だよ」
梅乃は座っている自分のつま先を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
十年くらい前だろうか。
「りすか」なるものをする人がいるとどこかで知って、なんとなく――。母親が消えて以来、キッチンで長らく埃をかぶっていた包丁を取り出して、手首に当ててみた。
自分でも、自分が何をしたいのかわかっていなかった気がする。
やり方も加減も知らなくて、利き手でもない左手で、さして思い入れもない自分の右手首を、ぐさり。切ったというよりは、刺した。
思いのほか深かった。痛いし、血がどんどん出る。ようやく怖くなってきて、包丁を持ったままその場にうずくまった。
ちょうどその時、父親が日雇い清掃の仕事から帰ってきた。
「は? ……汚ねえ」
それが、第一声だった。
お前を食わせてやるために、俺が一日中必死に掃除してへとへとで帰ってきたのに、その間にてめえは、部屋を汚していやがったのか。
床に広がる血溜まりに盛大に眉を顰め、額に青筋を浮かべながら、たしか父親は、そんなようなことを捲し立てたはずだ。
それから、壁が押し寄せるみたいにずんずん近づいてきて、梅乃の手の中にあった、血だらけの包丁を取り上げた。
痛くて動けない、と思っていた。その時までは。
しかし、包丁を持ってこちらを見下ろす父親と目が合ったその瞬間――。
痛みは全て吹き飛び、恐怖に塗り変わった。
怒っている。包丁を持っている。大きい。壁みたい。包丁。
――逃げなきゃ。
途端、梅乃はすさまじい速さで父親の横をすり抜け、家を飛び出した。
死にたくない。怒られたくない。包丁が怖い。痛いのはいやだ。いやだ。いやだ。いやだ――。
手首を押さえながら、必死で夜道を走った。
あの時、自分は結局どこで倒れたのだったっけ。
当時六歳。一人ではどこにも行けなくて、手首からドバドバ出てくる血を見ていたら、頭がふらふらしてきて。
しゃくりあげながら辺りを彷徨ううちにいつの間にか、冷たい地べたに頬がくっついていた。
次に目が覚めたのは、病院だった。
ああ、そうだ、あの時か。
――きっとすぐに治るよ。
青空に向かってひょろひょろ頼りなく伸びる、満開手前の梅の木。
シロツメクサがたくさん咲く、春の中庭。
しゃがんでシロツメクサを摘む自分の隣に、ちょこんとしゃがんでこちらを見つめていた、真っ直ぐな目の男の子。
梅乃はその小さな頭に、花冠を載せたかもしれない。
――君が教えてくれたんだ。
そうか。そう、だったんだ。
思い出したくもない記憶。
それに紐づいて、ささやかな春の思い出もよみがえった。
「今はもう、やらないよ」
手元のパンをぼうっと見つめながら、梅乃はつぶやいた。
隣には、神妙な顔で梅乃の手首を握る冬宮がいる。
また、少しの沈黙。
「……やらないで」
それは、随分悩んでから発された、切実な声だった。
この人は、例えば自分の絵が破れてしまった時も、塩バターメロンパンが食べられなくなった時も、こんな声を出すんじゃないかと思う。
「こんなこと言われてもむかつくかな。……ごめん」
今度は冬宮が、俯いて自分のつま先をじっと見つめた。
ようやく、梅乃の手首が解放される。
自由になった両手で、梅乃は塩バターメロンパンをかじった。ど真ん中、一番美味しいところだ。
「……むかつかないよ」
心地良い甘じょっぱさをほおばりながら、梅乃は言った。
天井を仰ぐ。
やっぱり、すごく美味しい。
冬宮も、つられておずおずとパンをかじった。
「やっぱり塩バターメロンパン最高」
「うん、最高」
「明日もゲットしよう」
「うん。絶対」
明日の話ができる友人がいる。
昼休みの残り時間、冬宮はいつも通り黙々と、梅乃の隣で絵を描いた。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
また次回もお目にかかれますように。




