高校一年生終わり 不穏の再来
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二十話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。
午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
翌日、学校から帰った梅乃に、光は「おかえり」と言った。いつもならこちらを見て手を振ってくれるのに、今日は読んでいる本から顔を上げない。
「ただいま」
梅乃の方もぶっきらぼうに答えて、自分のベッドに向かう。
そこには何冊か、本が積まれていた。
『将来の夢を見つけられないあなたへ』
『十三歳のハローワーク』
『宇宙人と見つける仕事図鑑』
『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』
──ああもう。
梅乃は天を仰いだ。積み上げられた本の上に、鞄をどしんと置いてやる。
「ねえちょっと」
それから光に、文句の一つでも言ってやろうとした矢先──。
プルルルル
梅乃の携帯電話が鳴った。この前一度だけ見た、見慣れぬ市外局番。
心臓が、不快な音を立てた。
「……もしもし」
「もしもし、私××病院の看護師をしております、○○と申します。若狭梅乃様のお電話でお間違いないでしょうか」
「……はい」
口内が、急速に乾いていくのを感じた。
「三日後、お父様が退院されます。お迎えに来ていただくことは可能でしょうか」
「……え」
目の前に、急にシャッターを下ろされたような気がした。
それから、逃げ場のない脳内を荒らす情報の嵐はすさまじかった。
梅乃がはいとかいいえとか答える前に、事務的な言葉がどんどん流れ込んでくる。
父親は脳に障害が残り、前頭葉機能の低下で無気力状態にあること。
一人で歩くのもやっとだということ。
薬の服用方法説明に、家族の付き添いが必要なこと。
日常生活にも介助が必要かもしれないこと。
支払いや保険、医療費の助成制度についても説明があるということ。
「ご来院いただけますか?」
それは疑問形でありながら、いいえと言える空気ではなかった。父親には、梅乃の他に連絡がつく身内がいない。
「……はい」
荒らされ何もなくなった真っ白な頭でぼんやりと、皮肉だと思った。
自分が入院のときには父親との連絡を押し付けられ、父親が入院の時にも父親を押し付けられる。
血がつながっているというだけで、最後は全部、梅乃に回ってくる。
何の準備も装備もないまま、突然肩に大きな鉛を乗せられたような気分だった。
時間や場所をまたも一方的に告げて、電話は無情に切れた。
ツーツー。
機械音が鳴る携帯をもったまま、梅乃はだらんと腕を下ろした。
父親が、退院する。
病院から出て、帰ってくる。
身体が、すごく重かった。
「ねえ」
静まり返った水面にそっと石を落とすように。
ふと、しんとした部屋に声が落ちた。
重い首をなんとか曲げて、声のする方を振り返る。
光が、梅乃が帰ってきてから初めて、こちらを向いていた。
「どうしたの?」
問うてくるその声に、怒りや不機嫌は全くない。代わりに、潤んできらきら光る優しい瞳が細かく揺れていた。
心配の目だった。
やっぱりこの人が、自分の生命線だ。
とすん。
重力に負けるように、梅乃はクイーンベッドに力なく尻餅をついた。
ごとん。
携帯が床に落ちる。
ひゅっ。
息を吸うと、いつかのような引きつれた音がする。
――奪われる。
――奪われたら、どうしよう。
また漠然と、そう思った。父親が、では勿論ない。
「……父親が、退院する。保険証とか、色々揃えて、迎えに来いって。三日後」
言いながら、頭が現実と切り離されたように呆然としていた。
「そうか」
相槌を打つ、光の声は落ち着いていた。低くて、砂浜にそっと打ち寄せ沁み込んでいく、さざ波のように穏やかで。
急激に、目に熱いものがこみあげる。
両手で塞ぐように目元を抑えて──ぼすん。
ふかふかのベッドに横向きに倒れこんだ。
柔らかく、肌になじむ素材の毛布。身体を包み込んでくれるマットレス。
ここはいつだって、優しくて、温かくて、光がいる。
常春の草原のように、なによりも安らかな空間。
それなのに──。
「……全部、なくなっちゃったらどうしよう」
母親とはぐれて泣く、幼い子どもみたいな声が出た。
ごそごそ。
背中の後ろで、光が身をよじる音がする。
ぎし。
ベッドがきしむ音がして、ギュイン。
わきに置かれた折りたたみ車椅子が、開かれる音。
よいしょ、よいしょ。
これは多分、光が車椅子の足置きに、片方ずつ足を乗せている声だ。
そうしてゆっくりと、光の気配がこちらに近づいてきた。
ぽん。
頭に、寄り添うように何かがのった。
「……大丈夫」
ぽん。ぽん。
華奢だけれど、年相応に大きい、光の手だった。
ゆったりとした、凪いだ声。
「君はここに、いつでも帰ってきていいんだよ」
温かいものが、心の器にゆっくりと注がれていく。
また、目に熱いものが込み上げる。
「大丈夫」
それはどこまでも伸びやかで──。
「君の世界は、そう簡単に奪われない」
伸びやかなのに、力強い声だ。
ぐっと目に押し付けた手の隙間から、涙がゆっくりと、目尻を伝う。
光は何も言わず、頭を撫で続けている。
梅乃はただ、声を殺して泣いた。
泣いて泣いて、頭を撫でられたまま、どうしてか、いい加減止まってよと笑いそうになるくらい泣いて――。
そうしていつの間にか、眠りに落ちていた。
三日後の朝。
その日、梅乃は六時過ぎに目を覚ました。
いつも七時に起きる光は、まだ眠っていた。
学校へ行く荷物を持って、光の部屋を出る。
「行ってきます」
閉めた扉を背に、つぶやいた。
学校へ行く前に、父親を迎えに、病院へ行かなくてはいけない。
病院へ行く前に、一度家に帰らなくてはいけない。
エレベータの前に立つ。
回数表示を見ながら、深呼吸。
――早く、必ず、帰ってこよう。
この、常春の日常に。
ポーン。
エレベータ到着音が鳴り、ドアが開く。
ぎゅっと手を握りしめる。
背中に絡みつく不安を断ち切るように、梅乃はいつもより大きな一歩で、エレベータに乗り込んだ。
お読みくださりありがとうございました。
感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。
また次回もお目にかかれますように。




