高校一年生冬 入院初日朝
お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。
さて、第二話です。
すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。
お楽しみいただけましたら嬉しいです。
朝日がまぶしくて目が覚めた。わりとすがすがしい目覚めだった。
「一週間の入院です」
やってくるなり、医師は困り眉でそう告げた。それから昨晩の事の次第を梅乃に詳しく話して聞かせる。
「人が倒れています」そう通報があったのは、午前一時半ごろ。梅乃は、アパートの階段の二階と一階の間の踊り場で、頭から血を流して倒れていた。救急車が現場に到着した時には、そこには梅乃以外誰もおらず、こちらの病院に搬送されたのは午前二時ごろ。
救急外来で頭部CTや足のX線検査を行い、傷口縫合や足首の固定など、一通りの応急処置も問題なく終えた。現時点でわかるのは、全身の打撲と、頭蓋骨に軽いひびが入っていること。それから右足首が……。
梅乃はそれを片耳で聞きながら、毛布にだらりと落ちている自分の手をぼんやり見つめていた。
おそらく、通報したのはアパートの住人だろう。
梅乃と父親はもう十年、今のアパートで暮らしている。たびたび響く父親の怒声と、酒瓶が割れるけたたましい音。中には我が家の事情に薄々気が付いている家もあるだろうが、梅乃達以外のアパートの住民はかなり頻繁に入れ替わるし、ご近所づきあいも特段ない。
今回も、通報者が名乗り出なかったのはきっと「関わりたくありません」という意思表示だ。
まあ、気持ちはわかるし、通報してくれただけありがたい。皆、自分の暮らしを守ることに忙しいのだから。
「……それで、昨晩は何があったのかな?」
思考を飛ばしていたら、いつの間にか説明が終わっていた。
「寝ぼけて、部屋にあった酒瓶片手に外に出て、うっかり足を踏み外しました」
梅乃はするすると、抑揚のない声で言った。医師は微妙な顔をした。さすがに苦しい。しかし、しばらく間が空いたのち、医師は結局うなずいた。
「そうですか。わかりました。では、事故ということで、警察には届けません。入院手続き等ありますので、親御さんに連絡をお願いできますか?」
内心、苦笑した。梅乃はこの病院の常連だ。保護者の連絡先くらい、梅乃が目覚めるのを待たずとも絶対に知っている。それでも梅乃が目覚めるのを待ったのは、あの人が話の出来ない父親だから、関わりたくないということだろう。
この病院に梅乃が初めて運ばれたときは、さすがにこうではなかった。その時も梅乃のけがの仕方は不自然で、医師はまっとうに虐待を疑った。
梅乃の治療中、医師は父親を別室に呼び、家庭環境や子どもへの接し方について尋ねた。しどろもどろに答える父親に、同席していた医師や看護師は、これまたまっとうに思ったはずだ。
――ああ、黒だ。
複数の権威ある人間から白い目を向けられ、父親は焦った。場の全員が、自分を加害者と確信している。蔑みの目を自分に向けている。
切り立った崖の上、味方は一人もおらず、じりじりとふちまで追い詰められていくような感覚。まずい。これはまずい。まずい。まずい。まずい――。焦燥と不快が限界に達し、耐えきれなくなった父親は、突如爆発した。
「しのごのうるせえよ! 誰が育ててると思ってんだ! 外野は黙ってろ!」
椅子をひっくり返して立ち上がり、隣の誰も座っていない椅子を蹴飛ばした。声になっていない声で叫びながら、医者との間にあった机もひっくり返す。その暴れようはすさまじく、怒声や物音は、数部屋離れた場所で包帯を巻かれていた梅乃にも聞こえた。
すぐに、病院伝いで児童相談所に連絡がいった。梅乃は点滴の後、家に帰ることなく保護施設送りになった。大人は梅乃には何も説明してくれず、言われるがまま、梅乃は一週間ほど父親と離れて暮らした。
しかしどういう経緯か、一週間したら、再び何の説明もなく親元に帰された。「何かあったらまたいつでも来てね」施設のおばさんは笑顔で言ったが、幼かった梅乃に、家から施設への行き方はわからなかった。
家に帰されてひと月とたたず、今度は腹部をやけどして、梅乃はこの病院に世話になった。そのときにはもう、医師は梅乃に生暖かい哀れみの一瞥を向けるだけだった。できることはやったから許してくれという、言外の拒絶。
ああ、こういうものなんだ。以来梅乃は、自分が置かれたこの環境を、それまで以上に諦観している。
医師が立ち去り、入れ替わりでやってきた看護師が、慣れた手つきで血圧や体温を記録し、包帯を取り換えていく。梅乃は作業のために言われるがまま、寝返りを打ったり上体を起こしたり、足をあげたりした。ぎしぎしと、錆びついたブリキのように身体がきしむ。頭も動かすたびに気怠い。目が覚めた瞬間のわずかな爽快感は、もう跡形もなかった。
おつかれさまです。看護師は必要処置を施した後、事務的に告げた。それから質素で青臭い、どうみてもおいしくなさそうな病院食を運んできた。梅乃はそれを、うつむいてもそもそ食べた。
時刻は朝十時。高校ではとっくに一限が始まっている時間だった。しかし、梅乃はもともと大して真面目に高校に通っていない。数か月前に道端でナンパされ、彼氏ができてからは、日中も彼氏――何度も言うようにもう元カレだが――の家でだらだら過ごしていた。だから今日も特段、無断欠席に罪悪感は生まれない。
ぼうっと窓の外を見た。
中庭の真ん中に一本、何だかわからないひょろひょろした木が生えている。真冬の今、葉もつけていないその木はただ、貧相な印象を与える。
退屈だった。まあ、あの家で父親の怒声や酒瓶を食らうよりは、何億倍もましだけれど――。
とはいえ一度、家に帰らなくてはいけない。裸足にスウェットで階段を転がり落ちたので、梅乃は、携帯や財布、家の鍵も持っていなければ、靴すら履いてなかった。
本来保護者に持ってきてもらうのだろうが、あの人はそういうことを頼める父親ではないし、頼みたくもない。こっそり病院を抜け出して、自分で取りに行くしかない。
父親は昔から酔っぱらっていると鍵をかけ忘れるたちだったが、最近ではむしろ無錠がデフォルトになり、家は二十四時間大解放状態だ。この病院を抜け出すところさえ病院関係者に見つからなければ、問題なく任務遂行できるだろう。
――よし、いまのうちに。
動きの鈍い身体を引き摺り、ベッドから足を出す。
床に足をついて体重をかけた、その瞬間――。
ずきっ。
足首をつんざくような痛みが走って、梅乃はベッドに尻餅をついた。
右足に、ギプスがついていた。
そういえば、先ほど医師が、足首が折れているから安静に、動くときには松葉づえを云々とか言っていた気がする。話半分以下にはいはいと返事をしていたので忘れていた。
「こらこら、安静に」
シャッ。
耳慣れぬ、それなのにどこか懐かしい声と共に、勢いよくカーテンが開いた。医師かと思い、梅乃は肩を跳ねさせる。
しかし現れたのは、車椅子の、同い年くらいの男の子だった。
お読みくださりありがとうございました。
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また次回もお目にかかれますように。




