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高校一年生冬 光の余命

お読みくださりありがとうございます。前田奈穗と申します。


第十七話をお届けします。

本作はすでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。


午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。


お楽しみいただけましたら嬉しいです。



 結論から言うと、父親は死ななかった。


 山は越えました。

 一か月ほど入院したら退院です。


 病院で医師からそう言われたとき、梅乃(うめの)は待合室の真っ白な壁に、思わずふらりと寄りかかった。


 安堵なのか呆れなのか、それともほかの何かなのか、自分でもわからなかった。



 どっと疲れ果てて(ひかる)の部屋に帰った。


「おかえり」


 いつも通りの声に、また泣きそうになる。常春の草原のような、梅乃の日常。


 ようやく、帰ってきた。


「ただいま」


 一歩、部屋に入る。


 扉からまっすぐ正面。梅乃を迎え入れた光の机の上には、夕食が置いてあった。


 そのはす向かい、梅乃の机にも同じく置かれている。


 もう夜の十時半。


 いつもなら、健康的な光は電気を消している時間なのに。


「まだ食べてなかったの?」


「君と一緒に食べようと思って」


「……今日は、ありがとう」


「僕はなにもしていないよ」


 さあはやく食べようと、光が促す。言われるままに、荷物を置き手を洗って、梅乃も席に着いた。


 光が取り計らってくれたのか、味噌汁もご飯もまだ湯気を立てている。


「いただきます」


 味噌汁のお椀を、両手で持って一口すすった。


 緊張で締まっていた喉を温かい液体がすっと流れていく。


 お椀を持つ指が、味噌汁の温かさでしびれ始める。どうやら、自分の手はかじかんでいたらしい。


 優しい薄味が、今日はうれしい。


 梅乃はそっと、深く息をついた。


「今日はどうだった?」


 いつも通り、光が訊いた。


 ──どうだったも何も。


 しかしふと、今日は光に話したいことがあったんだと思い出す。


「クラスの子と、放課後、マックに行ったよ」


「えっ、本当?」


 光は早速身を乗り出した。予想していた通りの反応に、梅乃はふふんと得意になる。


「そう。私が誘ったの」


「ええっ! すごいや。正直、僕はもうすっかり諦めていた」


「二人で照り焼きチキンを食べたよ。それから、お揃いのパンをお昼に食べた」


「ええっ、昼もおやつも一緒? それはもう親友の域じゃない?」


「私は、やればできるの」


 梅乃が胸を張ってみせると、光は嬉しそうにうなずく。


「うん、そう、そうなんだよ。嬉しいな。ようやく君の魅力が、君や周りに伝わりだしたみたいだ」


「……いや、そこまでは、わからないけど」


 小さく肩をすくめた。光はこういう時、茶化したり冷やかしたりしないで、ひたすらに梅乃を称賛するからむず痒い。


 梅乃は、塩バターメロンパンや照り焼きチキンのおいしさをできるだけ細かく話して聞かせた。


 光は興味津々に聞いていたくせに、「おいしそうだけど、焼き鮭を食べながら聞くと味覚がおかしくなりそう」と最後は微妙な顔をした。


「明日も、冬宮さんに話しかけてみようと思う」


「うん。それがいい」


 満ち足りた気分で、ご飯の最後の一口を頬張った。今日はのりたまふりかけ。


『食べ物が仲良くなる秘訣』というのは、やっぱりかなり正しい気がする。


 激動の一日だったけれど、こうして、昨日と変わらぬごはんの時間があることで、心がほぐれる。


 ごはんは、人を暖かくする。


 食べ終わるといつも通り、お風呂に入って(なんとこの部屋の利用者専用のお風呂だ)、ドライヤーをして、おやすみを言い合って電気を消した。


 今日、父親が倒れた。


 そんなふうには思えないぐらい、何も変わらない一日の終わりだった。



 電気を消して、三十分ほどたった頃。


「……起きてる?」


 静かな水面にそっと石が落ちるように、静まりかえった部屋に、ぽつんと光の声が響いた。


 梅乃がちょうど、眠れずに、何度目かわからない寝返りを打ったところだった。


「君、起きてたの?」


「まあね」


「すごく眠そうだったのに」


 僕はもう瞼が上がらないよ、が光のおやすみ前の一言だったはずだ。


「それはそれ、これはこれ」


「多分それ、使い方間違ってるよ」


 真っ暗な部屋に、二人の声が響く。


「君は、眠れる?」


「……眠れない」


「そうだよね」


 相変わらず、砂浜に穏やかに打ち寄せ、そっと沁み込んでいくさざ波のような声だった。けれども淡々と、哀れみのない同意なのが心地いい。


 梅乃は光と反対、壁の方に身体を向けたまま目を閉じる。


「……ねえ、私、いつかはここを出なくちゃいけないのかな」


 ありのまま漏れ出た声は、思ったよりも頼りなく、切実で。


 ああ、そうか。


 ――奪われる。


 それが、自分はすごく嫌なんだ。


「どうかな」


 光の声が、闇の中に優しく落ちる。


「少なくとも、僕が死ぬまでは、いくらでもいてくれて構わないけれど」


 梅乃はぱちりと目を開いた。目の前には灰色の壁が見える。


「……君は、すぐに死ぬ予定があるの?」


「うーん、こればっかりは神様に訊かないとわからない」


 光はまた、穏やかに淡々と答えた。


「一応、一年後に生きている確率は五十パーセントらしいけれど」


「……いちねんご」


 初めて聞くことだった。そうか。自分はこれまで、そんなことにも頭が回っていなかった。


 一年。


 それは、すごく短いんじゃないだろうか。


 すごくすごく、短いんじゃないだろうか。


 梅乃は布団の中で膝を抱え、丸まった。


「死なないで」


 寝間着の裾を、ぎゅっと握りしめる。


 死なないで――。


 初めてだった。


 こんなに、誰かに生きてほしいと思うのは。


 くすっ。


 囁くような、笑い声が部屋に響いた。


「そんなこと、僕は初めて言われた」


 しみじみと、面白がるように。


「君くらいだよ。そんな、奇特なことを言うのは」


 梅乃はまた、寝返りを打った。目線の先には窓の外、薄く頼りない三日月が、紺碧の夜空に輝いている。


「僕はね、何度か、『今夜が山かもしれません』ってお医者に言わせたことがあるんだ」


 ふと、平静な、感情のない声がした。


 梅乃は視線を下げる。はす向かい、光のベッドが見える。


「……それって、死ぬかもってこと?」


「そう」


 返事はあまりに明瞭で、夢や幻聴ではない、現実の出来事だとはっきり分かった。


「でも、僕の家族が様子を見に来たことは一度もない」


 もぞもぞ。布団がこすれる音がした。みるみる布団が盛り上がり、前にいじけた時のように、光は頭まですっぽり毛布を被ってしまった。


 心もとない月明かりが、こんもりともりあがった白い山を照らす。


「ねえ、君に嫌われるかもしれないことをひとつ、言ってもいいかな」


「……何?」


 きっと、嫌いになることはないと思った。


 盛り上がった光の毛布が、ダンゴムシみたいにさらに丸くなる。


「君の父親はずるい。……ずるいよ」


「え?」


「だって……君にひどいことをしておいて、まだ君に、死に際に駆けつけてもらえるんだから」


 やりきれなさと、諦めと、悲しみと。


 いろんなつらさが滲んだ声だった。


 ぷつんと糸を切られ、なすすべなく空に吸い込まれていく風船が、遠ざかる地面を見下ろして嘆いているような。


 叶うならどうか、自分が空に飛んで行って、地上に連れ戻してあげたい。


「……私は、君の死に際には駆けつけたいと思うよ」


 くすっ。


 また、光が笑った。


「何を言っているの。僕はまだ死なないよ」


 光はダンゴムシを脱して、ベッドに仰向けになる。その声はいつも通り、飄々としていた。


「……うん、そうしてほしい」


 梅乃もまた、仰向けになって天井を見上げる。


 広い部屋に、所在なく漂う不安が二つ。


 ここにはふたり、人がいる。


 さっきより何倍も穏やかな気持ちだった。


「ありがとう」


 目を閉じて、梅乃は呟いた。


「え?」


「今日は、本当にありがとう。君がいてくれてすごくよかった」


 一言一言、かみしめるように。


 痛切な感謝は、静かな暗闇の中、まっすぐ光に届いている。


 もぞもぞ。


 また、毛布の中で光が動いた。返事はいつまでたっても聞こえない。


 くすっ。


 今度は梅乃が笑った。


 梅乃のことは、目をきらきらさせて、どこまでも直球に称賛するくせに。


「……おやすみ」


「……おやすみぃ」


 二度目のその挨拶のあと、梅乃はやがて、さざ波に優しく攫われるように、深い眠りに落ちた。



お読みくださりありがとうございました。

感想、評価などいただけましたら大変嬉しいです。

今日はこのあと、また一話上がります。

また次回もお目にかかれますように。

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