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高校一年生冬 はじまり

はじめまして、前田奈穗と申します。

お読みくださりありがとうございます。


本作品は2026/03/09に第一話から第四話まで投稿します。

以降は午前と午後で毎日二話ずつ更新いたします。


すでに完結まで書き上げており、2026/03/20ごろ連載終了予定です。

お楽しみいただけましたら嬉しいです。



 若狭梅乃(わかさうめの)は全力で走った。


 四つ年上の大学生彼氏に振られ、居候していた家を追われて、仕方なく家に帰った夜だった。


 ごんごんごん。


 何度も頭に衝撃を受けながら、たまに体のあちこちが擦れる。


 がつん。


 極めつけの一撃が後頭部にきた。酔いそうな勢いで視界が回転し、平衡感覚が失くなる。


 ──気持ち悪い。


 そう思って、意識的に目を閉じるより先。


 梅乃の視界はぶつりと暗転した。



 梅乃が病院に救急搬送されたのは、高校に入学してからはこれが初めて。生まれてからは六度目だった。


 幼少期に二度、小学生で二度、中学生で一度。緊急搬送以外も含めれば、二桁ではすまないが。



 今回は深夜十二時、酒に酔って帰ってきた父親が、梅乃の部屋の戸を叩きまくるところから始まった。


 どんどんどんどん!


 銃撃のような凄まじい音が、突然、部屋中に響いた。


 梅乃はすでに自室の電気を消し、眠りに落ちる手前でまどろんでいたところだった。


 脳より先に、びくんと身体が反応した。すぐには状況を理解できなかった。


 ばしん!


 勢いよく戸が開いた。


 日雇いの工事現場帰り、泥だらけの作業着を着た父親が、のすのすと汚い靴下で梅乃の部屋の畳に乗り上げる。ろれつの回っていない舌で、唾を飛ばしながらくだを巻く。


 帰っているならなぜ父親のために電気をつけておかない。

 お前も母親と一緒で俺のことはどうでもいいのか。

 毎日苦労して金を稼いでいる俺に感謝の一言もないのか。


 梅乃が肩までかけていた毛布は剥ぎ取られ、胸倉を強く掴まれた。


「この人でなし!」


 鼻同士がぶつかりそうな距離で怒声を浴びながら、気づけば居間まで引き摺り出されていた。


 父親の片腕には、700ml のブラックニッカ。


「顔まで()()()に似てきやがって」


 最終的にはそのお決まりの一言と盛大な舌打ちと共に、玄関の外にどつき出されていた。


 『あの女』とは母親のことだ。リストラを機に酒癖が悪くなり暴力的になっていった父親のおかげで、母親は精神を病み、十年前に失踪した。当時は梅乃もそれなりに寂しかったり悲しかったりしたのかもしれないが、今となってはもう、何の感情もない。


 雨降る十二月下旬、夜半。気温は零度あるかどうか。部屋着の薄いスウェットに裸足。最悪の気分だった。


 しかし、こういう時はされるがまま、抵抗しないのが一番傷が浅い。


 梅乃は玄関の扉に寄りかかり、体温がなるべく逃げないよう、膝を抱えてうずくまった。


 父親が完全に潰れるのを待って、こっそり部屋に戻ろう。


 しかし、読みが甘かった。


 小一時間がたった頃。梅乃がドアにもたれ、眠いのに寒くて眠れない地獄と闘っていると、突然乱暴に背中を押された。


 うつらうつらしていた意識を覚醒させ、ぼんやり後ろを見上げる。


 父親が、ほとんど空いた酒瓶片手に、ものすごく不機嫌な顔で梅乃を見下ろしていた。


 焦点の合わない父親と目が合う。


 瞬間、これはやばいと思った。


 父親が癇癪を起こしているとき、障害物になってはいけない。これは基本中の基本だ。


 ひゅっ。浅く息を吸い、反射的にか細い声で「ごめんなさい」とつぶやいていた。


 父親が潰れるには、酒が足りなかったようだ。


 しばらく彼氏――もう元カレか――の家に居候していたから、判断が鈍っていたのかもしれない。


「あぁ?」


 父親が酔っ払い特有の、制御のない大きな声ですごんだ。同時にごみ袋を道の端に押しのけるように、梅乃の背中を踏みつけて蹴飛ばした。


 梅乃の父親は百八十センチを超える長身で、肩幅も大きい。百五十センチ、女子高生の中でも華奢な梅乃から見れば、この状況はどう考えても負け戦だった。


 べしゃりと転んだ梅乃に、のっそりと分厚い壁が、重たいウィスキー瓶を持って影を落としている。


 久しぶりだから、というのもあるかもしれない。


 その姿を見ただけで――殺される。本能が、本気でそう警鐘を鳴らした。


 震えもつれる足でよろよろ立ち上がり、ボロアパートを走る。眠い頭に裸足。思ったように進まない。


 はやく、はやく逃げないと――。


 焦りばかりが先行し、前につんのめって手近な柵を掴んだ。急いで振り返る。父親はゆらゆら不安定に揺れながら、それでも大股で、確かに迫ってくる。


 息を吸うたび、ひゅっと喉がひきつれた。肺に空気がうまく入ってこない。心臓が痛い。


 ようやく、なんとか階段に足をかけた――。


「逃げんのかあ?」


 低い声とともに、父親がゆらりと瓶を振りかぶった。


 ひゅんっ。


 ブラックニッカが風を切る。


 酔っぱらった人間が投げる瓶など、遅いし、コントロールも甘い。第一、父親は本気で梅乃を狙っているわけではない。


 だから、容易に避けられる。


 自分が冷静だったなら──。


 全身全霊で避けた。


 必要以上に大きく後ずさり、自分が今、どこに立っているかも忘れて。


 次の瞬間、足がもつれた。


 体が大きく前に傾く。


 ごきり。


 足首が変な方向に曲がった。


 階段を踏み外した。そう、理解すると同時。


 ひゅんっ。


 後頭部から階段に突っ込んでいく梅乃の鼻先を、重たい瓶がかすめていった。



 その夜、病院のベッドで、梅乃は夢を見た。


 幼いころの夢。


「ねえねえ。起きてよ。起きて」


 梅乃はゆっくり眠っていたのに、肩に振動を感じて意識が浮上する。のろのろと目を開けると、まだあたりは真っ暗で、ぼんやりと見えた時計は、夜中の三時半を指していた。


 肩を揺さぶる正体に目を向ける。


 ベッドわき、窓からの月明かりに照らされて、くりくりと丸い目が二つ光っていた。


 梅乃は、その子を知っている。


 ――また来たの?


 そう、言葉にするのは、眠くて億劫だった。


「ねえ君、また来たの?」


 高揚を一生懸命隠したひそひそ声で、その子が問う。……こっちの台詞だ。睡魔に負け、無視して目を閉じる。


 ちょっと聞いてよと、また肩を揺さぶられた。


「今度は骨折? 忙しいなあ」


 ――余計なお世話だよ。


「でもね、僕は会えてうれしいよ」


 ――変な子。


「じゃあね。眠い時に来てごめんね。明日また会いに来るね」


 ――うん。


 梅乃は枕に頭を預けたまま、かろうじてうなずいた。


「約束ね」


 その子は嬉しそうに、梅乃の小指に自分の小指を絡めた。つながった指をゆらゆらと数回揺らしてから、じゃあね、と小さく耳元で声がして、ごそごそと身をよじる音がして、それから、その子の気配が消えた。


 ――まったく。


 家ではいつたたき起こされるかわからないから、静かに眠れるこの夜は、貴重だったのに。


 心の中で悪態をつきながら、梅乃は今度こそ深い眠りに潜った。





お読みくださりありがとうございました。

感想や評価など、いただけましたら大変嬉しいです。

また次回もお目にかかれますように。

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