第8話 黒い粉と社交界
本日3話目
「ハンス、お前は領地に残れ。今、この領地で最も価値のある資産は『連続生産体制』だ。私の不在中に工場のラインを止めるな。それがお前のミッションだ」
「……若君。六歳になったばかりの主を一人で王都へ送り出す執事の気持ちを、少しは計算に入れていただけませんか」
アステリア領の城門前で、ハンスは泣きそうな顔でリヒトを見送っていた。 リヒトの隣には、新たに侍従として採用された青年、マルクが立っている。彼は元・没落騎士の三男坊で、計算能力はそこそこだが、口が堅く、リヒトの冷徹な指示を「そういう仕様」として淡々とこなす適応力があった。
「行くぞ、マルク。王都の社交シーズンは、情報のバーゲンセールだ。一滴も漏らさず回収する」
馬車が王都へ向かう間も、アステリア領ではリヒトが残した「宿題」が着々と進行していた。
製鉄所の奥深く、リヒトが特命を与えた鍛冶師たちが、異様な熱気を放つ炉を囲んでいる。
「……若君の言った通りだ。石炭を蒸し焼きにした『コークス』を使えば、これまでの炭とは比較にならねえ高温が出る。鉄が……鉄が、まるで水みたいに溶けやがる!」
リヒトの知識による製鉄技術の向上は、鉄の質を劇的に変えた。
さらに、極秘の実験棟では、カイルの監視のもと、硫黄、木炭、そして硝石を厳密な比率で調合する作業が進められている。
「……これが、リヒト様の言う『黒色火薬』か。『爆発』という現象を引き起こす……」
カイルは、指先に付いた黒い粉を見つめ、戦慄した。これが完成すれば、春に攻めてくるであろうルガード子爵の軍勢は、戦う前に「消滅」することになる。
一方、王都は華やかな社交シーズンの絶頂にあった。
リヒトは、セシリアが運営する百貨院の貴賓室で、ある人物と対峙していた。
王妃派の重鎮、イザベラ侯爵夫人。 宮廷の裏側で絶大な影響力を持つ人物だ。
「……ふふ、あなたがアステリアの『小さな怪物』ね。財務卿をやり込めたという話、お茶菓子の代わりに楽しませてもらったわ」
「侯爵夫人。私は怪物ではありません。ただ、支出と収入のバランスを適正化したいだけの、善良な市民です」
リヒトは優雅に(子供らしい愛嬌を3%ほど混ぜて)一礼した。
「王妃派が、次期王位継承に向けて多額の資金を必要としているのは存じております。……どうでしょう。王領地で放置されている『鉱山採掘権』を私に譲渡していただければ、我が百貨院の利益の一定割合を、王妃様の『慈善事業基金』へ寄付いたしますが?」
イザベラ侯爵夫人の目が細まった。五歳児の口から出る「寄付」という言葉の裏にある、どす黒い実利を彼女は見逃さなかった。
「……面白いわ。あなた、本当にセシリアが夢中になるわけね」
年越しの夜。
王都の広場には鐘の音が響き、人々が新しい年を祝っている。
イザベラ侯爵夫人との交渉に成功したリヒトは、セシリアに招かれたプライベートな会食の席にいた。
「リヒト。来年はいよいよ、私たちの百貨院が王国内の全主要都市に展開する年ね。……でも、あなたは少し急ぎすぎじゃないかしら?」
セシリアが、最高級の鴨料理を切り分けながら、少しだけ心配そうに尋ねる。
「急いでいるのではない。先行者利益を確定させているだけだ。……春になれば、隣領のルガードが動く。それまでに、彼が手を出せないほどの『圧倒的な国力差』を見せつけておく必要がある」
「……戦うつもりなのね」
「戦いは最後の手段だ。だが、確実に勝てる切り札を持つ事で、強気な外交ができる。」
心配そうな表情をしたセシリアとの会食を終えたリヒトは、冬の夜空を見上げた。 六歳という年齢にそぐわない冷徹な思考は、すでに春の戦場、そしてその先の王国全体の経済統合を見据えていた。
「マルク。明日の予定は?」
「王太子の家庭教師との会合です。……若君、せめて年越しの今夜くらい、ゆっくり寝てはいかがですか?」
「睡眠は六時間で十分だ。それ以上の眠りは、人生という資産の浪費だよ」
リヒトの言葉に、マルクはただ無表情に手帳を閉じた。
アステリア領の、そしてこの世界の「歴史」が、黒い粉の爆発音と共に大きく動き出そうとしていた。
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