第45話:サクラの視点、桜色の独白
本日4話目
あの日、桜が舞い散る中で彼と目が合った瞬間、私の時間は一度止まったような気がしました。
三年前、流行り病で両親を亡くしてから、私の世界は「色」を失っていました。十一歳の私が、七歳の弟・タロウの手を引いて、毎日必死に団子を丸め、煤にまみれて火を熾す。それが私のすべて。
明日の米があるか、タロウが冬を越せるか。そんな不安ばかりが、胸の奥に澱のように溜まっていました。
そんな時でした。路地裏の、古びた私たちの店に、信じられないほど綺麗な格好をした少年が現れたのは。
「……君の名前は?」
彼の声は、とても若いはずなのに、どこか遠い空の上から響いてくるような、不思議な重みがありました。
金色の、光を吸い込んだような髪。そして、すべてを見透かしているようでいて、どこかひどく寂しそうな、深い瞳。
大和の人間ではない。アステリアから来たというその方は、まるで神様が間違えて地上に落とした宝石のように、私たちの日常には不釣り合いな存在でした。
(……怖い。でも、なぜか懐かしい)
初めて彼に話しかけられた時、私はそう思いました。
知らないはずの人。なのに、彼が私を見るその切なげな眼差しが、私の心の奥底に眠っていた「何か」を優しく叩くのです。
「佐々木さん」――。
彼が時折、無意識に口にするその聞き慣れない名前。それが私を指しているわけではないと分かっていても、その響きには、祈りにも似た切実な熱がこもっていました。
翌日から、リヒト様――彼はそう名乗りました――は、頻繁に店へ現れるようになりました。
「……団子を。ここにある団子を、すべて買おう」
最初は、正直に申し上げて、とても「変な人」だと思いました。
だって、たった一人の少年が五十本も団子を買ってどうするのでしょう。それにお金の払い方も、まるでこの世の金貨すべてを持っているかのように無造作で。
「福利厚生」とか「市場調査」とか、聞いたこともない難しい言葉を並べて、彼は一生懸命に自分の行動を説明していました。
でも、タロウはすぐに懐きました。
「リヒト兄ちゃん!」と笑って駆け寄る弟を、彼は最初、どう扱っていいか分からないという風に戸惑っていましたが、次第に不器用ながらも頭を撫でてくれるようになりました。
「タロウ君。……これは、おもちゃだ。ゼンマイという技術を使って動く。……君の知的好奇心を刺激するための投資だ」
そう言って渡された、鋼鉄でできた小さな自動車。
私は、その贈り物がどれほど高価なものか想像もつきませんでした。でも、タロウが声を上げて喜ぶ姿を見て、私の冷え切っていた胸の奥が、少しずつ、じんわりと温かくなっていくのを感じたのです。
(……この人は、奪いに来たのではない。……与えに来たんだ)
それからの数日間で、大和の街は魔法にかかったように変わり始めました。
私のような孤児でも無償で学校へ通えるという新しいお触れが出たのです。街のあちこちに光り輝く大きな板が設置され、あの高貴な天皇陛下が、リヒト様と同じくらい若い「大統領」という方と並んでお話しをされていました。
「……もうすぐ、大和にも新しい法律が適用される。そうすれば、誰でも無償で学校に通えるようになるはずだ」
いつかリヒト様が仰っていた言葉が、そのまま現実になった。
その時、私は確信しました。リヒト様はただの「商人の息子」ではない。もっと、もっと高い場所にいる方なのだと。
けれど、それを問い詰めることはできませんでした。
だって、私と一緒に店先で一本のお茶を飲み、雨宿りをしながら不器用に手ぬぐいを貸してくれる彼は、とても優しくて、そして、驚くほど「ただの男の子」に見えたからです。
忘れられない日があります。
激しい夕立に見舞われたあの日。
私とタロウがずぶ濡れになりながら看板を片付けていた時、彼は雨の中を走ってきてくれました。
「……サクラさん!」
泥にまみれるのも厭わず、重い看板を運んでくれた彼。
冷たくなった私の手に、彼の手が触れた瞬間。
私は、リヒト様の手がひどく震えていることに気づきました。
(……あんなに強い力を持っているはずの人が、どうしてこんなに震えているの?)
彼は、アステリアの最先端の技術を語る時、世界を動かすような堂々とした態度を見せます。
でも、私の目を見ようとする時だけ、彼はまるで道に迷った子供のように、脆く、頼りなげになるのです。
あんなに立派な格好をして、たくさんの知識を持っていても、この人は私と同じように「寂しさ」を知っている。
そう思った時、私は初めて、彼に対して「お侍様」や「リヒト様」としてではなく、一人の人間として、愛おしさを感じました。
「……お茶を淹れますから。雨が上がるまで、ここにいてください」
狭い店の中で、二人きりで雨音を聞きながら過ごしたあの時間は、どんな贅沢な食事よりも、私の心を甘く満たしてくれました。
そして、昨日のことです。
彼は、信じられないほど立派な馬車で私を迎えに来てくれました。
私とタロウのために、一生かかっても入れないような、白亜の御殿のようなお店へ連れて行ってくれたのです。
「アステリア・パビリオン」。
その中で過ごした時間は、まるでおとぎ話の中に迷い込んだようでした。
見たこともない「電灯」という光の粒が天井から降り注ぎ、空気中には芳醇な肉の香りと、優雅な音楽が満ちていました。
テーブルの上に並べられた、キラキラ光る銀の匙や、透き通ったガラスの器。
「……リヒト様、私、こんなにたくさん道具を使いこなせる自信がありません……」
不安で震える私に、彼はそっと微笑んで言いました。
「……形式は気にしなくていい。……自分が食べやすいように食べてくれればいいんだ」
その声があまりに優しくて。
運ばれてきた「ステーキ」というお肉を口にした時、私は涙が出そうになりました。
こんなに柔らかくて、温かくて、幸せな味がこの世にあるなんて。
両親が生きていた頃も、こんな贅沢は一度もありませんでした。
冷や飯を弟と分け合い、凍える夜を過ごしていた私にとって、それはリヒト様が魔法で作り出した幻ではないかと思うほど、眩しすぎる輝きでした。
「……サクラさん。……食事は、気に入ってくれたかな?」
デザートという甘いお菓子を食べ終わった頃。
夜風に吹かれながら、彼は真剣な眼差しで私を見つめていました。
「……君は、その……よく頑張っているな」
リヒト様は、時々、すごく不器用になります。
何でも知っているはずなのに、私の前では言葉を選びすぎて、結局、とてもシンプルなことしか仰らない。
でも、その「頑張っている」という一言が、私のこの三年の苦労をすべて洗い流してくれたような気がしたのです。
誰かに褒めてほしかった。誰かに、頑張っているねと認めてほしかった。
その私の心の穴を、リヒト様は完璧に埋めてくれました。
「……私、一生、忘れないと思います。……リヒト様、どうして、私たちにここまでしてくださるのですか?」
私の問いに、彼は「他人とは思えない感覚を持っていた」と答えました。
その時、リヒト様の瞳の中に、私ではない「誰か」と、そして今目の前にいる「私」を、必死に結びつけようとする熱い光が見えました。
彼は、ずっと私を探していたのではないか。
遠い、遠い過去か、あるいは別の世界から。
そう思わずにはいられないほど、彼の魂は私を求めているように感じられたのです。
帰りの馬車の中で、眠ってしまったタロウの寝顔をリヒト様が優しく見守っていました。
その横顔を盗み見ながら、私は心の中で静かに誓いました。
(……私は、あなたの正体が誰であっても構いません。……あなたが、この世界を支配する大統領であっても、どこかの商人の息子であっても)
夜空に光る、星よりも明るいアステリアの光。
それを見上げるリヒト様の寂しそうな背中を、いつか私が、温かく抱きしめることができる日まで。
私は、この大和の地で、精一杯、美しく咲いていようと思います。
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