第2話 5歳児の産業革命
「……ハンス。この領地の帳簿は、もはや喜劇の台本だな。笑えない方の」
ハンスと2人で田園の視察を済ませたリヒトは皮肉を口にした。
アステリア家の執務室。踏み台に乗って机にかじりつく五歳のリヒトは、冷徹な眼差しで数字の羅列を追っていた。
隣で冷や汗を流すのは、執事のハンスだ。彼はリヒトの急激な変貌に戸惑いつつも、その指摘の的確さに逆らえずにいた。
「まず、この『隣領からの塩の購入費』だ。金貨百枚。……ふざけているのか? 我が領には、かつて王国有数の規模を誇った塩田があるはずだ」
「は、はい。ですが、三十年前の海難事故以来、あそこは『呪われた地』として放置されておりまして……。今は、隣のルガード領から、彼らの言い値で買わされております」
「呪い? 非科学的だな。塩化ナトリウムに呪いが付着して、人体に有害な影響を及ぼすというデータでもあるのか?」
リヒトは鼻で笑った。
「ないなら、今日から再稼働させる。ハンス、今すぐスラムへ行け。動ける人間を五十人集めろ。呪いなどという実体のないものより、明日のパンの方が重要だと教えてやれ」
「若君、それはあまりに急進的では……!」
「急げと言っている。猶予は一時間だ」
数時間後、リヒトはハンスと、護衛兼「物理的な実行部隊」である騎士団長バドを引き連れ、海岸沿いの廃塩田にいた。
「若、本当にやるんですかい? ここは潮の流れが速くて、昔は死人も出たと……」
バドは岩のような筋肉を持つ巨漢だが、中身は少しばかり臆病な男だ。
「バド。死人が出たのは、安全管理が杜撰だったからだ。私が計算したところ、この入り江の形状なら、防波堤の一部を補修し、水門の開閉タイミングを最適化すれば、事故のリスクは限りなくゼロに抑えられる」
リヒトは小さな手で地面に図を描き、集まったスラムの住人たちに言い放った。
「お前たち。ここを掃除し、水門を作り直せ。今日からここは、アステリア領の『心臓』になる。働きに応じた給与は保証する。サボる奴は、私の合理的な判断により即刻クビだ」
住人たちは、五歳児の迫力に圧倒され、震えながらも作業を開始した。
事業が動き出したその夜。
廊下で、一人の男がリヒトを呼び止めた。
このアステリア子爵家の現当主、カスパール・フォン・アステリア子爵。リヒトの父親である。
「やあ、リヒト! 今日はメアリと泥遊びをしていたと聞いたよ。どうだい、お城の庭の土の味は?」
カスパールは、美しい金髪をなびかせ、手には常に詩集とワイングラスを持っている。悪人ではないが、致命的なまでに「経営」に向いていない。
「父上。私は泥遊びをしていたのではありません。土壌の成分調査をしていたのです」
「ははは、相変わらず冗談が上手い子だ。そうだ、明日は私の友人の詩人を招いて、盛大な宴を開く予定なんだ。リヒトも参加するといい」
リヒトの瞳が、スッと細くなった。
「宴、ですか。……父上、その予算はどこから?」
「ん? 予備費というやつかな。人生は詩のように美しくあるべきだからね」
「……父上」
リヒトは父のワイングラスを、その小さな手で静かに押さえた。
「人生は詩ではありません。収支決算書です。明日の宴はキャンセルしてください。すでにその予算は、塩田の資材費として私が差し押さえました」
「えっ? 差し押さえ……?」
「以後、金貨10枚以上の支出には私の承認を得てください。父上は、どうぞそのご友人と、素晴らしい詩でも詠んでいてください。」
リヒトは微笑み、呆然とする父を残して去っていった。
翌日から、リヒトの改革はさらに加速した。
ターゲットは、もう一つの主力産業「羊毛」だ。
「メアリ。この毛布、肌触りが悪いな。不純物が多い証拠だ」
乳母のメアリは、リヒトに羊毛の原毛を見せられて困り果てていた。
「坊ちゃん。うちは昔から、刈り取ったままの毛を商人に売る決まりなんです。加工なんて、手間がかかるだけですよ」
「手間の分だけ金になるんだ。メアリ、お前には女性領民たちを統括してもらう。……ハンス! 特製の『洗浄液』と、新型の『糸車』の図面は用意できたか?」
「は、はい。若君の指示通り、灰汁と油を配合した洗浄液の試作品が完成しました。驚くほど汚れが落ちます。……それから、この複雑な構造の糸車。これがあれば、今の三倍の速度で糸が紡げますぞ」
「よし。原毛のまま売るのを今すぐやめろ。すべて糸にし、植物染料で染めてから出荷する。……いいか、ブランド名は『アステリア・シルク』だ。羊毛だがな。希少価値を演出するんだ」
五歳児とは思えない矢継ぎ早の指示に、城内は戦場のような忙しさとなった。
ハンスは帳簿を片手に走り回り、
バドは塩田の警備と土木作業に駆り出され、
メアリは女性たちを集めて「高品質な糸作り」の講習を始めた。
「……ふむ。ようやく歯車が回り始めたな」
窓の外、活気を取り戻しつつある領内を見下ろしながら、リヒトは前世で愛用していたブラックコーヒーの代わりに、温かいミルクを一口飲んだ。
「五年以内に、この領地のGDPを三倍にする。……非合理な贅沢は、その後に存分にさせてやろう」
五歳の小さな支配者の野望は、まだ始まったばかりだった。
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