第一話「忘却の静寂」
よろしく
二〇七五年の東京。空は常に薄い鉛色の膜に覆われている。
かつて人々を苦しめた「悲しみ」や「トラウマ」という病は、この街から一掃されていた。最新のナノマシン技術と、政府が推奨する『記憶外部保存法』によって。
ルカは、新宿の雑踏から少し外れた路地裏にある、小さな「調律室」の椅子に座っていた。
彼の仕事は「記憶の調律師」。顧客の脳内に蓄積された余剰な感情の残滓を、銀色のチップ「外部メモリ」へと抽出・整理するのが役目だ。
「……終わりましたよ、佐藤さん」
ルカが声をかけると、診察台に横たわっていた初老の男性がゆっくりと目を開けた。数分前まで、彼は亡くなった妻との別れの記憶に苛まれ、ひどく憔悴した顔をしていた。だが今は、まるで春の陽だまりにいるような、穏やかで空虚な微笑を浮かべている。
「ああ……。なんだか、とても体が軽くなった。私は、何に悩んでいたんでしたっけ?」
「些細なノイズです。もう心配いりません」
ルカは淡々と答え、指先で小さなメモリを弾いた。そのチップの中には、男性が三十年間連れ添った妻の死に際の言葉、冷たくなっていく手の感触、そして底なしの絶望が封じ込められている。
男性は感謝の言葉を述べ、軽やかな足取りで店を出て行った。
一人残されたルカは、作業デスクに戻り、先ほどのメモリを専用のサーバーに転送しようとした。だが、その時。
――バチッ。
旧式の端末が火花を散らし、ノイズが走った。
画面に表示されたのは、佐藤さんの記憶データではない。それは、見たこともない「風景」の断片だった。
燃え盛る巨大な塔。空を埋め尽くす真っ黒な鳥のような群れ。そして、誰かが叫んでいる声。
『……忘れるな。これは、僕たちが選んだことじゃない』
その音声は、現在の「清浄な社会」では決して許されない、生々しい「怒り」と「恐怖」に満ちていた。
ルカの指が震える。このデータはどこから来たのか。佐藤さんの記憶の深淵に隠されていたものか、それとも、ネットワークの向こう側から紛れ込んだ「禁止された記録」なのか。
その時、調律室のドアが乱暴に開かれた。
立っていたのは、白い防護服に身を包んだ「記憶警察」の男たちだった。
「ルカ・アスマ。先ほど不適切な通信プロトコルが検知された。直ちに端末を離れろ」
ルカは直感した。
自分が今、この世界の「平和」を維持するために塗りつぶされた、巨大な嘘の端を掴んでしまったのだと。
(つづく)




