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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

それでも、鰯は群れを成す

作者: まっちゃ

こんにちは。まっちゃです。

最近、ミステリー小説にはまってまして、なんかこう、読んでいてインスピレーションが湧いてしまったというか、自分ではどうしたかとかを考えたら書きたくなってしまったので、書くことにしました。ミステリーなんて書いたことないし、そもそも活動歴約3か月のド素人なので、大目に見てくださるとうれしいです。

【序章 死せる生命の楽園】


校外学習で水族館を訪れた中学生たち。展示を楽しみ、写真を撮り、友達同士で笑い合う。

だが、閉館の時間を過ぎても、ある理由で、俺たちは館内に残ってしまった。

落とし物を探していたのだ。

気づけば、水族館は突如として閉鎖され、外部との連絡手段は断たれる。広大な館内は、ただ静寂と不気味な水の音だけが支配する密室となった。


最初の死体は、バックヤードの奥で見つかった。床に広がる水の跡、散らばる道具、割れたバケツ。光の反射に揺れる鰯の群れだけが、静かに渦を巻いている。


俺たちは互いに鋭い視線を交わし、誰も口を開けずに犯人探しを始める。

だが、これが事故なのか、殺人なのか。誰も確かめられない。


**


【第一章 泳ぐアリバイの迷宮】


「俺のスマホ、ここに置いたはずなんだけどなぁ……」

小さな声で呟き、俺――(あおい)は展示室を右往左往する。聞こえるのは僅かな気泡の音と、足音だけ。何度も足を運ぶが、どこにも見当たらず、息が詰まるような感覚。焦りが心を支配していく。

一花は水槽の前で写真を撮り、朱里は隣で微笑みながらカメラを覗く。紬は静かに展示を眺め、慎重な凛はクラゲの青白い光に目を奪われている。碧叶と玲は少し離れてふざけながら展示を見ていた。


「そろそろ帰ろうか。スマホは…今度スタッフさんに確認してもらおう」

碧斗(あおと)が声をかける。出口から差し込む日は、すっかり朱色に染まっていた。館内の光は柔らかくなり、壁にかかった影が伸びる。

俺は出口のドアを押すが、びくともしない。引くタイプのドアだったなんて笑い話ならまだいいが、実際押しても押しても開かない。仲間たちの視線が交わる。不安と焦りを感じとる。冷たい金属の感触が手に残って気持ち悪い。

引率の先生も試したが、やっぱり開かない。 そのとき、通路の奥から足音が響いた。”森川(もりかわ)”と名乗ったスタッフが言う。

「機械が誤作動を起こしてしまったようで……すみませんね。一応、人数的にはぎりぎり寝泊まりできますが…」

誰も口を開かなかったが、答えはイエスしかない。

「すみませんね。お借りしてもよろしいですか?一晩だけなのでね…」

と、田中(たなか)先生。

森川さんに案内され、ついた場所は本来スタッフしか入れない区域だった。12部屋ほどある。ここにいるのは森川さん含め10人だから、ちょうどいい。

「私は外部との連絡を試みますので、皆さんは安心してお休みください。」

みんなの顔に安堵が浮かぶ。響く機械の作動音が妙に気なるが、俺は暗闇の廊下を歩いた。こういったときに限ってスマホがないのは、果たして偶然なのだろうか?

静寂に包まれた空間の中、何かが静かに、けれど、確かに変わろうとしていた。


**


朝の館内は静かだった。水槽の鮮やかな藍色と、朝日の淡い朱色が混ざり、幻想を生み出す。水面がわずかに揺れ、鰯の群れが渦を巻いた。

しばらくして気づく。森川さんがいない。廊下を歩く足音も、機械の作動音も、今は微かにしか聞こえない。碧斗があたりを見回し、呼びかける。―――返事はない。

急遽9人を3人ずつに分け、館内の捜査が始まった。

俺は一花(いちか)朱里(しゅり)とともにバックヤードへ向かう。水たまりは避け、散らばっていた道具も踏まないように通った。廊下から、微かな光が差し込む。一瞬、足が止まる。覗き込むと、道具が散乱し、バケツが割れていた。そして何より――

――森川さんが倒れていた。

二人が息を飲むのを感じた。もしかしたら、俺も含めて三人かもしれない。震える口で呟く。

「……森川さん…?」

胸がざわめく。木霊(こだま)するように、機械の作動音は大きくなった。


**


9人が集い、俺は状況を説明した。

碧斗が駆け寄り、慎重に体を確認する。

「……死んでる」

恐怖と混乱が館内を支配した。凛は涙を浮かべ、紬は言葉を失う。一花や朱里も声を震わせている。俺は心臓が強く打つのを感じる。緊張なのか、恐怖なのか、はたまた、その両方か。


「明らかに、このバケツで後頭部を打たれ、殺されている」

碧斗は一歩前に出た。

「……よし、怪しいやつを探そう」


俺たちは互いの顔を見た。


碧斗は淡々と続ける。

「まず、昨夜の行動を全員から確認する。夜中に何をしていたか、正直に言え」


(りん)が小さく震えながら答えた。

「私は展示室のクラゲの前で、少し座って考え事をしていました」


(つむぎ)は視線を床に落とし、そっと続ける。

「バックヤードの片隅で、書類を整理していました」


朱里は手を握りしめながら言う。

「私は水槽の前で、写真を確認していたと思います」


一花も小声で言った。

「廊下を少し歩き回ってました…」


(れい)は軽く肩をすくめて答える。

「僕はトイレに行ったあと、部屋でじっとしてました」


碧斗は順番に聞きながら、全員の言葉と動作を頭に刻む。

「俺はバックヤードの機械室で、機械のチェックをしてた」

碧斗自身も補足する。


田中先生は淡々と答える。

「私は廊下を巡回して、非常灯の点検をしていた」


佐藤(さとう)先生は震えて声で呟く。

「…私は、電波がつながらないか、探していました」


そして、俺――蒼は小さく息を吐く。

「俺は、落とし物を探して……展示室を何度も行き来してました」


碧斗はすこし唸り、何事もなかったかのように静かに頷いた。

「よし、ここからは常に3人1組で動こう。組む相手はじゃんけんでランダムに決めろ。」

結果、俺、玲、紬がA、碧斗、田中先生、凛がB、佐藤先生、一花、朱里がCとなった。

「俺のチームはここに残って証拠品を探す。お前らは部屋に戻れ。必ず3人で1部屋を使え」

俺たちは小さくうなずきあい、各部屋へと向かう。靴はこれしかないから、水たまりに触れないように慎重に移動した。みんなも、同じことを考えているようだった。


――全員にアリバイがあった。誰も、森川さんを殺すことはできなかった。俺たちは、水族館という迷宮に迷い込んでしまったようだ。


**


【第二章 深く眠りし貝の宝】


部屋の空気は、依然として冷酷で、張り詰めていた。沈黙に沈む不協和音。ガラスの水槽に映る俺たちを見つめ、その奥で揺らめく真珠を見る。――事件は一向に解決へと進まない。

紬は窓際に腰を下ろし、影に目を凝らす。玲は天井を仰ぎ、眉をひそめた。俺は二人の顔を注意深く除く。この部屋に、殺人犯がいるかもしれない。そんな恐怖と、動揺が見えた気がした。多分、俺も同じ顔をしていた。


鰯の群れが突然引き返し、続いて廊下に音が聞こえた。風か、床の軋みか、はたまた、誰かの足音か。

玲は静かに耳を傾け、紬はドアを睨む。

ふと、部屋の隅の段ボールが目に入る。光。何かが反射しているのか、道具なのか。だが、今は無視でいいだろう。


時間はゆっくりと、確かに溶けていった。沈黙は重く、肺が潰されそうになる。緊張が、静かに蓄積されていく。些細な違和感が、互いを疑心暗鬼に導く。しばらくすると、俺たちは互いの顔を睨むようになっていた。

やがて、碧斗の声が廊下の奥から響く。

「…全員、部屋を出ろ。」


**


廊下に集まった俺たちは、自然と輪になった。

碧斗が口を開く。

「犯人は…――――大人である可能性が高い。」

その声は、場の雰囲気にそぐわない、至って冷静なものだった。

田中先生と佐藤先生の表情が強張る。一花と凛には安堵が浮かんでいた。

気味の悪い静寂の中、互いが互いを疑い、睨み、しかし誰も口を開かない。響く水の音と、水槽で(なび)く魚の群れだけが、全員の刺々しい感情を抑えていた。

迷宮は終わりそうにない。


**


そのときだった。ほのかな水音に混じって、カツンと硬い音が、遠い通路から聞こえる。一瞬、誰もが身を強張らせる。水族館の構造は複雑で、音の出処も読めない。

碧斗は眉を(ひそ)め、目で周囲を探る。

「今の、聞いたな?」

誰も答えない。沈黙だけが過ぎる。

玲が小さく呟く。

「金属…っぽい感じだったよな。工具、とか?」

紬が震えた声で答える。

「でも……この辺は全部見たけど、そんなのなかった……」

その言葉に、俺は唾を飲む。犯人の尻尾を、掴めるかもしれない。そんな期待が脳裏を横切る。

碧斗が手を挙げ、全員の意識を引き戻す。

「全員、落ち着け。音の発生源を特定する。犯人の手掛かりをつかめるかもしれない。……だが、その前に―――一つだけ確認したい」

その声が、僅かに揺れた気がした。

「…森川さんが倒れていたところ、あそこにあったはずの”あるもの”が消えている」

全員が疑問符を浮かべ、数人が驚いたような表情を浮かべる。凛が、不安に震えた声で囁いた。

「まさか、その”消えたもの”が、…また、動いてる…?」

冗談を言うような空気ではない。しかし、ただの冗談だとも思えない。案の定、否定する人はいなかった。否定することで、犯人であると疑われることを、避けているようだった。

水槽の青白い光が、輪になった俺たちの顔を淡く照らす。それは希望とも、絶望とも感じ取れた。

俺は先ほどの金属音を思い返す。

―――あれは偶然ではない。

誰かが、何かを落とした音。

誰かが、そこへ“触れた”音。

そして今、この水族館のどこかで、まだ“動いている”音。


水音が、ひどく遠く聞こえる。

いや、違う。

静かすぎるのだ――さっきまで確かにあった循環ポンプの低い唸りが、ほとんど消えている。


玲が小さく息を呑んだ。

紬の肩が震え、凛は唇を噛みしめる。

田中先生と佐藤先生は、互いの影を探るように視線を合わせた。

何かが変わった。

水族館そのものが、誰かの意図に合わせて姿を変えていくような、そんな不快な直感が背中を走る。


碧斗が低く言った。

「……急ぐぞ。真珠は、まだ沈んでいない。」

その言葉に、俺たちは顔を上げる。

“真珠”――手がかり。場が水族館であるからか、少しでも、空気を和ませたいのか。けれど、今はそんな冗談がありがたかった。

けれど本当に沈んでいるのは、手がかりではなく、俺たち自身のほうではないか。


そして次の瞬間、

照明が一つ、パチンと音を立てて消えた。

魚たちが影に沈む。

水槽の奥で光る真珠のような白が、ふっと揺らめいた。

迷宮は、まだ俺たちを離してくれそうにない。


**


【第三章 潜む羅鱶(ラブカ)の罠】


深海生物エリアへ続く通路は、まるで海底へ沈む梯子のようだった。

照明は消えかけた赤黒い光が断続的に点滅し、壁のタイルに濁った影を落とす。

水槽の中では、深海魚が弱々しい光を放ち、ただ浮遊する。

その淡い青白さが、逆に周囲の暗さを際立たせていた。


「……ここ、やっぱり怖いな」

玲が呟く。小さく、けれど確かに緊張を含んでいた。


俺は足元に意識を向ける。水槽の下を流れる水脈が、微かな振動を床に伝えていた。

規則的ではない。ときおり脈のように跳ねる。

この不規則さは、生き物のものじゃない。機械の動きでもない。ただの“違和感”だ。そう、自分に言い聞かせる。


「さっきの金属音、この方向じゃないか?」

玲が前を見据える。紬は俺の袖を掴み、かすかに震えていた。


「とりあえず確認してみるしかない」

俺はそう言い、二人を促した。

深海コーナーの入口をくぐると、空気が冷たい膜のように肌を覆った。

音が消える。

世界から切り離されるような静寂。

赤黒いライトが、時折ぱちりと瞬き――次の瞬間には、誰の影なのか判別できないほど輪郭を歪ませる。


玲は懐中電灯を取り出し、狭い足元だけを照らした。

細い光が、通路に落ちた一つの“跡”を浮かび上がらせる。

「……足跡?」

玲が身を屈める。

水槽の結露が落ちてできた水滴ではない。

もっと細く、線のように引きずった“痕”。

人間の靴がこすれたものか。

あるいは――引きずられた何か。

紬が小声で言う。

「ねぇ……これ、森川さんの倒れてた場所にも、似た跡が……」

その瞬間、通路の奥で“コツン”と音が跳ねた。

金属が、硬いものに触れた音。

玲が顔を上げる。

「来た。絶対に誰かいる」

俺は呼吸を静かに整え――

“そちら”をじっと見据えた。


闇の奥で、赤黒いライトが一度だけ強く明滅した。


水槽のガラスに、一瞬だけ映る影。

その影は、俺たちではない“もう一人”の形をしていた。

だが、次の光では――消えていた。

「……見間違いか?」

玲の声が硬い。

違う。

あれは“誰かがいた”光だ。

紬の手の震えが強くなる。

「行こう。あと少しで辿り着けるはずだ」

俺は先に歩き出す。玲が静かに後を追い、紬は俺の背に隠れるように続く。床から立ち昇るような低い音が、海の底のように響いた。

ラブカが潜む深海だが、この館は、深海よりもなお“深い”。

そして、影は確かにそこにいた。


**


赤黒い光は、いつの間にか“均一”ではなくなっていた。

点灯と消灯の間に、僅かなズレが生じている。誰かが意図的に調整したかのような、不自然な間隔。

深海生物エリアの奥で、空気が沈黙を孕んで重く垂れ下がっていた。

水槽のガラス越しに揺れる影は、魚なのか、人なのか、もう判別がつかない。

「……妙だな」

玲がそう言ったとき、俺は初めて気づいた。

――音が、ない。

水の流れる音も、機械の唸りも、俺たちの呼吸さえ、どこか遠い。まるでこの場所だけが、現実から切り離されているようだった。

それでも、確かに”視線”だけはあった。闇の奥から、翡翠にも似た鈍い光が、俺らを覗いているような気がした。

そして、その瞬間、玲が一歩だけ前に出た。

「”この先”までは読めるんだけど… そこからが読めないな」

振るえる足で向かった先は、テープの貼られた扉だった。恐る恐る、部屋へと立ち入る。そこは、深海生物エリアよりも深い静寂に包まれていた。明かりはなく、緊張が響く。鼓動が聞こえる。

玲は独り言をつぶやきながら、闇へと歩いていき、十秒もしないうちにその姿は見えなくなった。

「どうする?あの状態になると、あいつ、周りが見えなくなるぞ」

「…いや、大丈夫だ。玲ならきっと、帰ってくる」

そうだ。玲は、この中で一番冷静に判断できる人だ。大丈夫。 鳴り響く鼓動を押さえつけるように言い聞かせる。

――しかし、いくらたっても玲は帰ってこなかった。翡翠が嘲笑ったような気がした。

闇は、何も語らなかった。ただ、俺の中の確信だけが、ゆっくりと形を失っていった。


**


腕時計を見る。3分が経過していたが、既に1時間近く待っているような気がした。

「ねぇ…玲君、呼んでみる?」

「……いや、やめておこう。誰がいるのかもわからない。俺も、紬も安全が確保されてるわけじゃない」

冷静を装う。が、その声は自分でもわかる程に震えていた。

一歩、玲が消えた方向に歩を進める。わずかに見える世界の足元には、例の引きずり跡が残っていた。どこまであるのか、いつからあるのか、闇は答えてはくれない。

懐中電灯で照らしてみる。しかし、光は虚無へ消えた。ただ一つ、立ち入り禁止区域であったことだけが分かった。

「戻ろう」

紬の表情は不安に塗れていた。一瞬の躊躇いの後、静かに頷く。二人で来た道を引き返す。気づけば、他のメンバーは皆、深海生物エリアにはいなかった。扉を振り返る。音は無い。

儚く崩れ去る確信を、水の音が無言のまま洗い流していく。その音が、俺たちを安堵に導いた。

――だが、まだ終わりではない。俺たちの中に、殺人犯がいるのだ。そいつだけは、迷宮から出してはいけない。

俺たちが碧斗たちに合流してもなお、玲の姿はなかった。玲が帰ってくることを、願わずにはいられなかった。


**


深海生物エリアの外では、いつも通りの水音がしていた。

それが、ひどく現実的で、胸を締めつける。

碧斗は静かに告げた。

「……事故だろう。足を滑らせて、立ち入り禁止区域に入った。構造的にも不自然じゃない」

誰も反論しなかった。否定する材料が、どこにもない。

玲は冷静だった。慎重だった。だが、それでも――落ちるときは落ちる。

「……玲くんが、そんなミスするかな」

紬の声は弱かった。願いに近い。

俺は答えなかった。

答えられなかった、のかもしれない。

深海生物エリアに戻ることは許されなかった。危険区域として封鎖され、赤いテープが何重にも張られる。あのとき見えなかった文字が、今ははっきり読める。


――この先、立ち入り禁止。


赤黒い照明の下で、その文字だけが浮いていた。

事故処理は淡々と進んだ。

場所、状況。時刻は不明。

すべてが「仕方のない出来事」として整理されていく。


それでも、俺の脳裏から消えないものがある。闇の奥で感じた視線。

翡翠色に濁った、あの光。


水槽を見つめていると、ふと、反射した自分の顔が映る。

その奥に、一瞬だけ――誰かの影が重なった気がした。

「……考えすぎだな」

そう口にしたのは、自己暗示だった。

穏やかな声。安心させるような調子。

碧斗が言う。

「深海は、人の想像を狂わせる。怖いのは、生き物じゃない。環境だ」

あまりにも、正しい言葉だった。

誰もが頷き、話題は終わる。

玲の死は、そこで区切られた。


だが、夜。

静まり返った館内で、俺は夢を見る。

底が見えない闇。落ちているのか、浮いているのかも分からない。

そして、深海の奥で――

翡翠色の“目”が、静かに開く。

助けは来ない。叫びも意味を持たない。

そこは、最初から救われることを想定されていない場所だった。

目が覚めたとき、ひとつだけ、確信していた。

――玲は、殺されたのではない。

――“落ちる場所”に、誘導されただけだ。

そして、それを知っていた者がいる。

深海は、何も語らない。

ただ、知っている者だけを、生かしたまま沈めていく。


まだ羅鱶(トラップ)は潜っている。

俺たちは、その背を見失っただけだ。

館内の光は滲み、壁は液体のように揺れる。耳鳴りが、鼓動が、すべてが底なしの深海のように広がっていく。

声も、名前も、救済も、何一つとして届かない。

ただ、沈むだけ。

そして、俺は理解する。

この深海には、戻る場所も、出口も、存在しないのだ。

――それでも。

俺は確信する。

この迷宮からは、何があっても脱出しなければならないことを。

何があっても、生き延びなければならないと。


**


【第四章 凍える大地の飛べぬ鳥】


南極圏生物エリアは、深海生物エリアとは違う静けさを持っていた。

音がないわけじゃない。音が、凍っている。

吐く息が白くなり、それがゆっくりと拡散していく様子を見て、俺はようやくここが現実だと理解する。

冷たい。肌が痛いほどだ。それなのに、どこか夢の中みたいでもあった。

ペンギンたちは水中を滑るように泳ぎ、氷山の上では身じろぎ一つしない。


水槽越しに見ていたときよりも、実際の氷はずっと明るく、ずっと硬質に見えた。

照明を反射して、白というよりも、金属身を帯びた光を放っている。

「……こんなところに、本当に刃物が?」

誰かの声がした。

だが、その声が誰のものだったのか、すぐには分からなかった。

空気が冷えすぎて、音の輪郭が溶けてしまっている。

ペンギン水槽の縁、氷の近く。金属の鈍い反射が、確かに見えた。

それは、あまりにも無造作に置かれていて、逆に不自然だった。

「念のため、全員で確認しよう」

田中先生がそう言った。いつも通りの声だった。

落ち着いていて、判断が早くて、信頼できる声。

だから、誰も異を唱えなかった。

防寒具を身に着け、水槽内へと入る。


床は少し濡れていたが、ここでは珍しいことじゃない。

低温と水、生き物。

滑りやすい場所だという認識は、最初から共有されていた。

「足元、気をつけて」

先生はそう言いながら、一歩前に出た。

氷山模型の近くへ。

水槽の中の氷は、水面下の方が大きく見えた。

――氷山は、海の中の方が大きい。

そんな知識が、なぜかこのタイミングで頭をよぎる。


次の瞬間だった。

先生の足が、わずかに滑った。


本当に、一瞬のことだった。声が上がった気がする。

だが、その音は、届く前に砕けた。

氷山模型が、ぎしりと音を立てる。

水面が揺れ、床に水が広がる。

その動きだけが、やけに鮮明だった。


田中先生は、倒れた。

――落ちた、というより、吸い込まれた。


頭が床に当たる音。短く、鈍く、取り返しのつかない音。

時間が、そこで止まった気がした。

「……離れて」

その声で、時間が再び動き出した。

碧斗だった。

誰かが先生に駆け寄ろうとして、誰かが名前を呼んで、誰かが泣きそうな声を漏らす。

そのすべてを、碧斗は短い一言で制した。

「床が滑る。二次被害を防ぐ」

正論だった。

冷静で、適切で、誰も反論できない判断。


数秒後、先生のもとに近づいたのは碧斗一人だけだった。

脈を確かめ、呼吸を確認し、首を横に振る。

「……だめだ」

それだけで、十分だった。

誰もが察し、誰もが視線を逸らした。

見てしまった現実から、目を背けるために。

事故だ。

氷と水と、足元の不注意。

ここはそういう場所だし、そういう環境だった。


「刃物は?」


誰かが震える声で聞いた。

「餌処理用のものだろう」

碧斗は氷のそばに落ちていたそれを指差す。

「水槽管理の記録と一致する。危険性はない」

事実だった。

確認すれば、すぐに裏が取れる程度の話。


床の水、氷山模型の位置、照明の反射角度。

すべてが、偶然として成立していた。むしろ、成立しすぎていた。

「事故としては……自然すぎるくらいだな」

誰かが呟いた。

それに、誰も異を唱えなかった。


南極圏生物エリアは封鎖された。

安全確認が終わるまで、立ち入り禁止。

赤いテープが張られ、床は拭き取られ、

氷山模型は固定される。


説明は、すべて整えられた。

誰も悪くない。

誰のせいでもない。

不運が、重なっただけ。


その言葉に、俺たちは縋った。

そうでなければ、この場所に立っていられなかったから。

俺も、頷いた。

事故だと、思った。

――思うことにした。

夜は、異様なほど静かだった。


南極圏生物エリアが封鎖された影響で、館内の動線が変わった。

それだけで、こんなにも空気は澄み切ってしまうのかと、妙な居心地の悪さを覚える。

音が消えたわけじゃない。

むしろ、微細な音だけが残っている。


遠くで鳴る循環装置の低音。

壁の内側を流れる水の気配。

冷却装置が一定のリズムで吐き出す、凍った呼吸。


それらが、はっきりと聞こえてしまう。

「今日は……解散しよう」

碧斗がそう言ったとき、誰も反論しなかった。

その声には疲労が滲んでいたが、判断は正しかった。

これ以上ここに留まっても、何かが変わるわけじゃない。


事故は事故として処理された。

田中先生の死は、俺たち7人しか知らない。

部屋に戻り、照明を落としても、眠気は訪れなかった。

ベッドに横になったまま、目を閉じる。


浮かぶのは、やはりあの光景だ

水槽越しに見ていた氷よりも、

現実の氷は、あまりにも白く、眩しかった。


照明の反射。

水膜による屈折。

湿度と温度差。


理由はいくらでも説明できる。

説明できてしまうこと自体が、厄介だった。

「……環境、か」

昼間、碧斗が口にしていた言葉を思い出す。

深海も、極地も、人間の感覚を容易く狂わせる。

恐ろしいのは、生き物じゃない。

場所そのものだ、と。

正論だった。

誰もが納得できる、完璧な結論。


氷山模型は、元からそこにあった。

床が濡れているのも、日常の範囲内。

先生が足を滑らせたことに、無理はない。


すべてが「起こり得る」条件で揃っている。

偶然として、あまりにも整いすぎている。

――整いすぎている、という感覚。

その言葉が浮かんだ瞬間、思考を止めた。

これ以上踏み込むのは、ただの自己満足だ。

亡くなった人を材料にした、最低な想像遊び。


事故だ。

そういう場所で、そういうことが起きただけ。

それ以上でも、それ以下でもない。


夜中、ふと目が覚めた。

夢を見ていたわけじゃない。

ただ、眠りが浅かっただけだ。


廊下の向こうから、水の音がする。

深海生物エリアの循環装置だろう。

昼間よりも、やけに近く感じられた。


暗闇の中で、思考が勝手に動き出す。


もし――

もし、あの場に立つ理由が最初から用意されていたら。

もし、全員が同時に、同じ方向を見ていたとしたら。

もし、足元よりも先に、「輝き」が視線を奪っていたのだとしたら。


考えは、そこで途切れる。

証拠はない。

確証もない。

あるのは、違和感だけだ。


翌朝、田中先生の名前は、誰の口からも出なかった。

避けられているわけじゃない。

触れないことが、暗黙の了解になっている。


碧斗は、変わらず全体をまとめていた。

安全確認。

立ち入り制限。

再発防止のための説明。

どれも合理的で、非の打ちどころがない。

「昨日の件は……完全に不運だった」

その一言で、話は締めくくられる。


俺は、その横顔を見ていた。

信頼できるリーダーの顔。

この状況下で、最も冷静な存在。


だから誰も疑わない。

疑う理由が、どこにもない。


俺も、疑わない。疑わないふりを、選んでいる。

移動の途中、南極圏生物エリアの入口を通り過ぎる。

封鎖テープの向こうに、白い氷が見えた。


昨日より、少しだけ鈍く感じた。

光が変わったのか、それとも、見る側が変わったのか。

その違いを、俺は判断できない。できないままでいい。

そう思った。


真実は、深海よりも冷たく、南極よりも静かな場所に沈んでいる。

掬い上げれば、凍傷を負うだけだ。

だから俺たちは、見ない。見えなかったことにする。

それでいい。

今は、それでいい。

――南極圏の静寂は、確実に俺たちの中に、「名付けられない何か」を残したまま、凍りついていた。


**


【第五章 積もる珊瑚の灰】


田中先生の死から、一日が過ぎた。


館内は、妙に整えられていた。

封鎖されたエリアには新しいテープが貼られ、床は何度も拭き直され、事故の痕跡は丁寧に消されている。

まるで、最初から何も起きなかったかのように。

それでも、消えなかったものがある。

「……これ、まだ残ってるな」

碧斗の声に、全員の視線が集まった。

指さされた先、通路の隅。照明の陰に、うっすらと濡れた跡が続いている。


乾ききらない、水の筋。

引きずられたように、不自然に長い。


森川さんの死のあとにも、同じような跡を見た。

深海生物エリアからも、どこかへ続いていた、あの濡れた線。

「清掃は……されたんだよな?」

「したよ。でも、全部は消えなかった」

朱里がしゃがみ込み、指先で距離を測るように眺める。

その視線の先で、跡は途切れ、また現れ、やがて方向を変えていた。


向かっているのは――


「大水槽、か」


誰かが、そう呟いた。

館の中心。

水族館の象徴ともいえる巨大な水槽。

無数の魚が回遊し、天井近くまで水が満ちている場所。

「でも、あそこって…」

「スタッフ用の通路がある。餌やり用の」

佐藤先生が答えた。

初めて聞く、その声は落ち着いていたが、どこか距離があった。

「玲は分からんが、森川さんのときも、田中先生のときも……水に関係してる」

碧斗は、そう整理するように言った。

「偶然にしては、出来すぎてる」

誰も否定しなかった。

否定できる材料が、なかった。


大水槽の上部通路は、一般客の視線から完全に隠されている。

金属製の足場。手すり。餌用のバケツ。

下を覗けば、暗い水の中を魚影が、ゆっくりと横切っていく。

ここに来た理由は、単純だった。


濡れた跡が、ここへ続いていたから。


「……嵐のあとみたいだな」


紬が、ぽつりと言った。

足元に、細かな水滴が散っている。

潮の匂いと、機械油の匂いが混ざり合い、胸の奥に重く沈んだ。


珊瑚礁は、華やかだと誰もが思っている。

だが、嵐のあとは違う。

砕け、削られ、色を失った灰が、静かに積もる。

今の俺たちは、きっとそれに似ていた。

信頼は、まだ形を保っている。

だが、その下で、足場が確実に削られている。

「……3チームに分かれよう。全員で固まっても、効率が落ちるだけだ」

正論だった。だが、その裏に眠る「早く帰りたい」という意思も感じ取れた。

佐藤先生の提案に、皆が頷いた。

蒼と紬。

碧斗と一花。

そして、朱里、凛、佐藤先生。


誰もが、合理的だと思った。

誰もが、疑わなかった。

大水槽の水面が、かすかに揺れる。

その上で、見えない灰が、また一粒、積もった。


**


大水槽の上部通路は、思っていたよりも狭かった。

人がすれ違うには肩を寄せ合う必要があり、金属の床は低く唸るような音を立てている。

下では魚たちが回遊しているはずなのに、水の気配は遠く、ここは奇妙に“陸”だった。


俺と紬は、手すり沿いにゆっくりと進んだ。

足元には、ところどころ乾ききらない水跡が残っている。

昨日見たものより薄く、曖昧で、それでも確かに“続いている”線。

「……ここ、滑りやすいね」

紬が言う。

忠告というより、確認に近い声音だった。

「うん。気をつけよう」

俺は頷く。

それ以上の言葉は交わさなかった。


この通路に来てから、会話は減っていた。

話せば、余計な感情が混ざる気がした。

不安、疑念、あるいは――期待。


手すりの根元に、白い粉のようなものが溜まっている。

塩か、乾いた水滴の名残か。

俺はしゃがみ込み、指先でそれをなぞった。

「……珊瑚じゃないよね」

「違うと思う。ここ、珊瑚水槽じゃないし」

合理的な答え。

それで終わるはずだった。

だが、視線を上げ、気づく。

通路の奥、照明の死角。

床に、わずかに盛り上がった“何か”。


近づくにつれ、それが単なる水溜まりではないと分かる。

濡れて、削れて、粉状になったもの。

灰のように、踏み固められている。

「……嵐の中心、みたいだね」

紬が、さっきと似た言葉を繰り返した。

俺は返事をしなかった。

代わりに、無線を取る。

「俺だ。何か見つかったか?」

少しの沈黙のあと、碧斗の声が返る。

『目立ったものはない。水槽の縁に古い傷はあるけど、前からあった可能性が高い』

一花の声も重なる。

『工具も、異物も見当たらないよ』

「了解」


短く返し、無線を切る。


――何も、見つからない。

それが、妙に不自然だった。


この場所は、痕跡の“終点”であるはずなのに。

濡れた跡はここで途切れ、空白が続く。

「ねえ、蒼」

紬が、少し声を落とす。

「もし……ここで、何も起きてなかったとしたらさ」

俺は、顔を上げる。

「……どういう意味?」

「誰かが、“起きたように見せただけ”だったら?」

言葉は、軽い。

だが、通路の空気が、わずかに重くなる。


「事故でも、事件でもなくて―――」

   ―――――ただ、そう思わせるための場所だったら。


俺は答えなかった。

答えられなかった、のかもしれない。

そのとき。

金属が、軋む音がした。

遠く。

俺と紬がいる通路とは反対側。

佐藤先生たちのチームが向かった方向。


一瞬遅れて、何かが落ちる音。

水ではない。

硬いものが、硬い場所にぶつかる音。

「……今の、何?」

紬が、息を詰める。

俺は、もう無線を取っていた。

だが、呼びかけるより先に、声が割り込む。

『……っ、来るな!』

佐藤先生の声だった。

切羽詰まっていて、命令口調で、理由がない。

その声が、鼓膜に刺さる。


次の瞬間、

足元から低い振動が伝わってきた。

大水槽の設備が反応したのだと、遅れて分かる。

水位調整用のポンプが、自動で起動した音。

それに合わせて、水面が大きく揺れた。

魚影が乱れ、照明が反射し、

まるで水そのものが息を呑んだように。

――そして、不意に静かになる。

常に鳴っていた機械音が、遠のく。

空調も、人の気配も、ひどく薄く感じられた。


水族館そのものが、一瞬だけ、呼吸を止めたようだった。

俺は、その場から動けなかった。

動くべき理由は、いくらでもあった。動かない理由は、それ以上にあった。

事故か。それとも――。


答えが出る前に、

足元の冷たさだけが、妙に鮮明になる。

また一つ。見えない灰が、靴底の感覚を鈍らせた。


大水槽の揺れはすぐに収まった。

だが、残された静寂は、息をつく間もなく重かった。

天井の照明が水面に反射し、暗い影を通路に落とす。

俺は無意識に、手すりを握りしめた。

その手のひらには、微かに湿った感触。昨日の濡れた跡の記憶が、微妙に蘇る。


「蒼……大丈夫?」

紬の声が、背後からかすかに響く。

だが、俺の頭の中はすでに、次の動き、次の一手の計算でいっぱいだった。

誰も気づいていない灰の粒が、靴底で微かに砕かれる。

下の水槽で魚が泳ぐ音は、先ほどよりさらに小さく聞こえる。

館全体が、息を止めて待っているようだ。

「……気をつけろ」

無線が割り込む。碧斗だ。

『大丈夫、異常はない。だが、通路の床には注意しろ』

冷静で正確な警告。俺は無言で頷く。

『見えるものだけじゃ判断できない、何かあるかもしれない』


通路の終わりに、金属製の梯子。

上る先には、さらに狭い通路と小さな扉。

扉の向こうは、餌用の貯蔵室。

少し息を整える。胸の奥に潜む緊張は、確実に強くなってきている。

突然、通路の先で小さな物音。

「……誰?」

紬の声が息を詰める。

答えはなかった。

梯子を上り、狭い通路を抜け、扉の前で立ち止まる。

金属の取っ手は冷たく、微かな振動が指先に伝わる。

俺は、ほんのわずかに手を触れ、灰の配置を確かめる。

―犯人の証拠が、微かに残っているかもしれない。


扉を押すと、内部には乾いた空気と、古い機械の匂い。

水の匂いは消え、代わりに静けさが支配していた。

視界の端で、微かに揺れる灰。

そのとき、梯子の方から金属の軋む音が再び聞こえた。

呼吸を止め、振り向くと、通路の奥に佐藤先生の影。

彼は手を伸ばし、床を指さす。

言葉はなかった。

だが、その視線が意味するものを、俺は理解していた。警告。


通路の静寂に微かな振動が重なり、館内全体に広がる。

見えない灰が、また一粒、靴底に積もった。

俺たちは、踏み固められた灰の上を歩き続けるしかなかった。

答えはまだどこにもない。


**


【第六章 群れるアリバイの宮殿】


大水槽周辺の通路は、相変わらず湿っていた。

機械音が止まってからも、余韻だけが耳の奥に残っている。水族館は動いているのに、生きている感じがしない。まるで巨大な装置の中に、俺たちが閉じ込められているみたいだった。


『配置、もう一度確認しよう』

無線越しに碧斗の声が響く。冷静で、いつも通りの調子だ。それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。


蒼と紬。

碧斗と一花。

そして――佐藤先生、凛、朱里。


三つのグループに分かれてから、時間はそれほど経っていない。けれど、体感は妙に長かった。通路の狭さや、光の届きにくさが、時間感覚を歪めている。

『こっちは異常なし』

一花の報告。

続いて、凛の声。

『佐藤先生と朱里、私で一緒に動いてます。今はスタッフ通路の分岐付近』

『了解。無理に動かなくていい。三人で固まって』

碧斗の指示は、もっともだった。

この状況で“群れる”ことは、安全そのものだ。誰かが一人になる余地を、できるだけ減らす。それが、今できる最善策。


俺は手すりにもたれ、下の水槽を見下ろした。

魚たちは何事もなかったように泳いでいる。人の死も、恐怖も、疑念も、関係ない世界。透明なガラス一枚で、こんなにも隔てられている。

「……静かすぎるね」

紬が言った。

独り言に近い声だった。

「嵐の前、みたいだ」

そう返すと、紬は小さく笑った。でも、その笑顔はすぐに消える。


無線が、短くノイズを噛んだ。

『朱里が――』

凛の声が途中で切れ、すぐに戻る。

『ごめん、今大丈夫。朱里が手を洗いに行きたいって』

「一人で?」

思わず口を挟む。

『すぐそこだから。通路の奥、トイレの表示があった』

佐藤先生の声が続いた。落ち着いていて、感情の揺れがない。

『問題ない。数分だ。凛、ここで待とう』


合理的な判断。

誰も、それを疑わなかった。

『……了解』

碧斗がそう返し、無線は一旦静かになる。


群れている。だから大丈夫だ。

そう、全員が無意識に思っていた。

俺は視線を通路の奥へ向けた。朱里の姿は見えない。だが、距離的にはすぐそこだ。呼べば声が届く。迷う理由もない。


なのに――

胸の奥で、何かが小さく引っかかった。

理由は分からない。ただ、配置が整いすぎている。

まるで、最初からそうなるように決められていたみたいに。


そのとき、無線が再び入る。

『――蒼』

佐藤先生の声だった。

『念のため、だが……この先の通路は、床が滑りやすい。誰か来るなら、注意するよう伝えてくれ』

念のため。親切な忠告。

教師として、自然な言葉。

「……分かりました」

そう答えながら、俺はなぜか、その一言を頭の中で何度も反芻していた。

床が、滑りやすい。

それは、今まで何度も聞いてきた注意だったはずなのに――

そのときだけ、妙に重く響いた。


無線の向こうで、水の音がした。

それが誰の立てた音なのか、俺にはまだ分からなかった。

だが確かに、

宮殿の扉は、静かに閉まり始めていた。


**


無線が、再び鳴った。


『……蒼、聞こえる?』

凛の声だった。

さっきよりも、わずかに息が乱れている。

「聞こえる。どうした?」

『朱里が……戻ってこない』


その一言で、通路の空気が変わった気がした。

紬が俺を見る。言葉はない。

『トイレの前まで行ったけど、いない。呼んでも返事がない』

「どれくらい経った?」

『五分くらい。でも……』


言い淀む気配。

代わりに、佐藤先生の声が入る。

『念のため、周囲を確認する。凛、そこを動くな』

冷静すぎる声。

それが、このときは頼もしく聞こえた。

『碧斗、聞いてるか』

『聞いてる』

無線越しでも分かる、碧斗の集中した声。

『三人は分岐点付近だな。蒼たちは動くな。俺と一花で、そっちに向かう』

「俺たちも――」

『待て』

碧斗の声が、被せるように止めた。


『全員が動くと、位置関係が崩れる。今は情報が優先だ』


正しい判断だった。

正しすぎて、反論できなかった。

数十秒。

無線には、足音と、布が擦れる音だけが混じる。


『……あ』

凛の短い声。

『朱里……』

それきり、言葉が続かなかった。

「どうした!」

『……来て』

声が、震えていた。

俺と紬は、同時に走り出していた。

止める理由は、もうなかった。


通路を曲がった先。

照明の下、朱里は倒れていた。

仰向け。

後頭部に、はっきりとした傷。

血が床に広がり、水と混じって、暗い色になっている。


誰が見ても、分かる。

――殺された。


事故の線は、最初から存在しなかった。


凛は、数歩離れた場所で立ち尽くしていた。顔色は真っ白で、手が小刻みに震えている。

「……そんな」

紬の声が、かすれる。

遅れて、碧斗と一花が駆けつけた。

碧斗は一目見るなり、視線を伏せた。

「……これは」

「事故じゃない」

無線越しではなく、直接聞いた碧斗の声は、低く、重かった。


「凶器は分からないが、致命傷だ。倒れ方も不自然。そして――――」


 ――――森川さんと同じ死に方だ。


佐藤先生は、朱里のそばにしゃがみ込むことはしなかった。

少し距離を保ち、静かに言う。


「……間違いない。殺害だ」


その言葉で、場の空気が完全に凍りついた。

群れていたはずだった。

一人になる時間は、ほんの数分。それでも、人は殺せる。

俺の視線は、無意識に通路の奥を追っていた。

朱里が“トイレに行く”と言った方向。


――そこは、案内表示とは逆だった。


だが、その違和感を、口に出す者はいなかった。

今はただ、

この宮殿が、完成してしまったことだけが、

はっきりと分かっていた。


**


朱里の遺体は、その場から動かされなかった。

動かす理由も、動かせる空気もなかった。


床に広がった血は、ゆっくりと水に溶け、輪郭を失っていく。

それを見つめながら、俺は奇妙な感覚に囚われていた。

――沈んでいく。

何か大事なものが、確実に。

「まず、整理しよう」

碧斗が言った。

声は震えていなかった。無理に抑え込んでいるわけでもない。ただ、切り替えているだけだ。

「時系列と、位置関係」


一花が頷く。

凛はまだ、朱里から目を逸らせずにいた。

「三人は一緒だったんだよな」

碧斗の視線が、佐藤先生と凛に向く。

「え……うん。分岐点までは」

凛の声は、掠れていた。

「朱里がトイレに行くって言って……数分だけ」

「その間、凛は?」

「私は、佐藤先生と……ここで待ってた」


指差す先は、通路の分岐。

確かに、そこから朱里が倒れている場所までは、目視できない。

「先生は?」

「凛と一緒だ。無線で報告もしている」

佐藤先生は、淡々と答えた。

言葉に、余計な感情が混ざらない。

「……蒼たちは?」

碧斗がこちらを見る。

「無線で状況を聞いてただけだ。ここには来ていない」

紬も頷く。

「私たちが走り出したのは、凛の『来て』のあと」

碧斗は、一度目を閉じた。

頭の中で、何かを組み立てている。

「……全員、アリバイは成立してる」

その言葉が落ちた瞬間、

空気が、目に見えない形で固まった。


誰も否定できなかった。

誰も、納得もしていなかった。

群れていた。

無線もつながっていた。

位置も、時間も、把握していた。


それなのに、朱里は死んだ。

「おかしいよ……」

凛が、絞り出すように言った。

「一瞬だった。目を離したの、ほんとに少しだけで……」

「だからこそ、だ」

碧斗が静かに返す。


「一人になる“隙”が、そこにあった」

隙。

たった数分。

それを、誰かが“使った”。

俺は、もう一度、朱里のいた場所を見る。

倒れ方。

血の広がり方。

そして――通路の向き。


トイレの案内表示とは、逆。

偶然と呼ぶには、少しだけ、角度が違う。


けれど、その違和感は、まだ“(証拠)”にはならない。

今はただ、沈んでいるだけだ。

「今日は、これ以上動かない方がいい」

佐藤先生が言った。

「これ以上、犠牲を出すわけにはいかない」

正しい言葉。

誰も反論しなかった。


こうして、宮殿は完成した。


整った配置。群れた人間。

崩れないアリバイ。

その中心で、朱里という存在だけが、深く、静かに、沈められている。


俺は、胸の奥に残った違和感から、目を逸らした。

まだ掴めない。

まだ形にならない。


だが確かに、この水族館の底には、“財宝(手がかり)”が眠っている。

それだけは、はっきりと分かっていた。


**


【第七章 深く沈みし生命の財宝】


――――海は、思っていたよりも静かだった。荒れてもいなければ、誘うようでもない。ただ、そこに在る。――――


大水槽の水面を見下ろしていると、境界が曖昧になる。

ここが床なのか、縁なのか、それとも――すでに落ちかけているのか。


誰も口を開かない。

無線は沈黙し、足音も遠い。

安全を保証するものは何一つないのに、今のところ、まだ何も起きていない。

その事実だけが、逆に不安を増幅させていた。


もし、ここで身を投げたら、どうなるんだろう。

そんな考えが浮かんだこと自体に、理由はない。

逃げたいわけでも、終わらせたいわけでもない。

ただ、落ちたあとの世界を、想像してしまっただけだ。


手すりに触れる。

冷たく、確かな感触。

まだ、立っている。

それだけが、今の俺たちを繋ぎ止めていた。


**


静けさは、均等ではなかった。

音がないわけじゃない。ただ、意味を持つ音が、どこにもなかった。


誰かの足音が、少し遅れて止まる。

衣擦れ。呼吸。無線機が発する、微かなノイズ。

それらはすべて、ここに人が生きている証拠のはずなのに、

今はただ、空間を埋めるだけの背景に過ぎなかった。


朱里の死から、まだ時間は経っていない。

それなのに、館内はもう“次”を待っているように感じられた。

何かが起きるのを、ではない。

――何も信じられなくなる、その瞬間を。


「……全員、無線は常時オンにして」

佐藤先生の声が、低く響いた。

指示としては正しい。

だが、その言葉に、誰もすぐには応えなかった。


沈黙が、ほんの一拍だけ遅れてから、

『了解』

『聞こえてる』

と、短い返事が散発的に返る。


返事の内容は同じなのに、

声の温度が、揃っていない。


誰が、どこにいるのか。

誰が、誰を見ているのか。

それを確認する行為自体が、どこか危うく感じられた。


「……今後は、単独行動は禁止だ」

佐藤先生が続ける。

「必ず、二人以上で動く。できれば三人だ」


正論だった。

朱里の死を受けて、それ以外の選択肢はない。


それでも、

“群れる”という言葉が、

これほど重く聞こえたのは、初めてだった。


俺は、大水槽の縁から一歩下がる。

水面に映っていた照明の反射が、歪んで揺れた。

魚の影が、ゆっくりと横切る。

生きているものは、何も変わらない顔で泳いでいる。


「……蒼」

紬が、声を落として呼ぶ。

「さっきのこと、考えてる?」


さっき、とは、きっと“海”のことだ。

ここで身を投げたら、どうなるか。

そんな考えが浮かんだ、あの瞬間。


「少しだけ」

そう答えると、紬はそれ以上、踏み込まなかった。

優しさなのか、遠慮なのか。

あるいは、聞いてしまうのが怖かったのか。


遠くで、碧斗と一花が、低い声で話している。

内容は聞こえない。

だが、碧斗の仕草だけは、はっきりと見えた。


床。

壁。

通路の向き。

無線のログ。


彼は、何も感情を交えずに、

ただ、事実を並べ替えている。


それは、正しい行為だ。

正しく、誠実で、冷静で。

――そして、どこまでも無慈悲だ。


「全員、位置を共有しよう」

碧斗が言った。

声は落ち着いている。

だが、その言葉は、静かに空気を裂いた。


『蒼と紬、大水槽上部通路』

『碧斗と一花、管理通路側』

『佐藤先生と凛、分岐点付近』


情報は、正確だった。

無線も、正常だ。

誰も、嘘をついていない。


それなのに、

その配置図を頭の中で描いた瞬間、

俺は、はっきりと理解してしまった。


――この船は、もう出航している。


誰かが舵を切ったわけじゃない。

誰かが命令したわけでもない。

ただ、正しさが積み重なった結果、

戻れない位置まで、流されてきただけだ。

「……このまま、休憩室に集まろう」

佐藤先生が言う。

「一度、落ち着く必要がある」

その言葉に、異論は出なかった。

だが、誰も“安心した”顔はしていない。


歩き出す前、俺はもう一度、水槽を見る。

深い青。

光の届かない場所。

沈んだものは、簡単には浮かばない。

財宝も、きっと、同じだ。

まだ、形にはならない。

まだ、手には取れない。

けれど確かに、

この水族館の底で、何かが眠っている。


それが救いか、破滅かは、分からない。

ただ一つだけ、確かなことがある。


――もう、誰も、

「自分は安全だ」とは思っていない。



――――水は、音を立てずに広がっていく。誰かが叫ぶことも、走り出すこともない。それでも、確実に“下”から満ちていた。――――


最初に異変が現れたのは、無線だった。


『……聞こえるか?』

碧斗の声。いつも通り、落ち着いている。

けれど、その後ろに、微かなノイズが混じっていた。

「聞こえる」

俺は答える。

『位置を固定しろ。全員、単独行動は避ける』


正しい指示。

否定する理由は、どこにもなかった。


『……大丈夫だ。今は、混乱しないことが一番重要だ』


その言葉を最後に、無線は一瞬だけ、沈黙した。

完全に切れたわけじゃない。

呼吸を挟むような、曖昧な空白。


それが、やけに不安を煽った。


「ねえ、蒼」

紬が、小さく言う。

「……今、全員の位置、把握できてる?」


できている。

はずだった。


蒼と紬。

碧斗と一花。

佐藤先生と凛。


配置は、整っている。

群れている。

孤立している者はいない。


それなのに、

胸の奥で、何かが崩れる音がした。


まるで、船底のどこかで、

見えない亀裂が、静かに広がっているみたいに。


『蒼、聞こえるか』

再び、碧斗の声。

今度は、少しだけ硬い。

『……水位計に、誤作動が出てる』


「誤作動?」

『ああ。数値が合わない。だが、設備トラブルの可能性が高い』


設備トラブル。

よくある話だ。

この水族館は古い。

完全ではない。


『念のため、下層エリアには近づくな』


また、正しい判断。


誰も反論しない。

誰も疑問を口にしない。


疑う理由が、まだ“形”になっていなかった。


だが、

その“形になる前”の違和感こそが、

一番、厄介だった。


「……下層、って」

紬が呟く。

「朱里が、見つかった場所……だよね」


俺は答えなかった。

――答えることができなかった。


無線の向こうで、誰かが息を呑む音がした。

佐藤先生だ。


『念のためだ。必要以上に考えるな』


その声は、優しかった。

教師の声だった。

生徒を落ち着かせるための、慣れたトーン。


――それが、逆に怖かった。


考えるな。

疑うな。

今は、正しさに従え。


それは、何かの映画で聞いた言葉だった。

通路を進む。

照明は点いている。

足元も、まだ乾いている。


それなのに、

空気が重い。


水族館の中心、大水槽。

そのガラス越しに、魚たちが泳いでいる。

色とりどりの珊瑚礁。

光を反射して、きらきらと美しい。


観光パンフレットに載る景色。

安全で、平和で、完璧な世界。


その下で。


岩陰に、細長い影が潜んでいる。ウツボだ。

誰も注目しない。

説明パネルにも、小さくしか書かれていない。


だが、

彼らは知っている。

水がどう流れ、

どこに溜まり、

どこが先に沈むかを。


俺は、ふと、思った。

――今、誰が“ウツボの位置”にいる?

――誰が、”最下層”にいる?

無線が鳴る。


『……おかしい』

一花の声。

『さっき通ったはずの通路、封鎖テープが張られてる』


「誰が?」

『分からない。さっきまでは、なかった』


封鎖。安全確保。事故防止。

そのすべてが、

正しいはずの措置。


だが、その瞬間、

船の中で、誰かが出口を一つ、閉じた気がした。


『蒼、紬、動くな』

碧斗の声が、即座に飛ぶ。

『状況が整理できるまで、待機だ』


待機。

それは、安全な選択だ。…少なくとも、理論上は。


俺は、無線を握りしめた。

掌が、少し湿っている。

「……もし」

紬が言いかけて、言葉を止める。

「もし?」

「……ううん。なんでもない」

なんでもないはずが、なかった。


視線の先で、

大水槽の照明が、一瞬だけ揺らぐ。

魚影が、ざわめく。

その下で、

見えない水位が、確実に上がっている。


無線は、まだ繋がっている。声も、届く。指示も、ある。

それでも、

誰も“全体”を見ていない。


正しさが、群れている。

アリバイが、宮殿を成している。

その中心で、

何かが、静かに、沈み続けている。


俺は思う。

この船は、もう――

氷山に、ぶつかっている。

脳裏に映画で見た豪華客船がよみがえる。

ただ、まだ誰も、その音を聞いていないだけだ。


静かだった。あまりにも。


無線は、まだ生きている。ノイズも、声も、届く。それなのに、そこにはもう“温度”がなかった。


『……全員、確認する』

碧斗の声。落ち着いている。いつも通りだ。

『現在地を報告してくれ』

一人ずつ、応答が返る。名前。位置。状態。淡々とした言葉の列。それは、点呼だった。生存確認であり、同時に――選別でもあった。

俺も、紬も、答える。問題はない。少なくとも、そう報告する。


『……異常なし、だな』

碧斗が言う。

異常は、ある。ただ、誰もそれを“異常”と呼ばないだけだ。

足元に、冷気が溜まっている。水ではない。空気の温度が、確実に下がっていた。

水族館は、巨大な箱だ。水を管理するために作られている。つまり――水が“制御できなくなったとき”、一番先に沈む構造でもある。

照明が、一つ消えた。ぱちり、という音すらない。ただ、光が、なかったことになる。


「……停電?」

紬が囁く。声を出すこと自体が、何かを壊しそうで。

『非常電源に切り替わっただけだ』

佐藤先生の声。即答。準備されていたかのような速さ。

正しい。正しすぎる。

非常灯が点く。白でも赤でもない、どこまでも薄い、無色の光。影だけが、くっきりと浮かび上がる。俺たちの影。手すりの影。通路の継ぎ目。そして――水位ライン。


「……なあ」

俺は、思わず言っていた。

「これ、ほんとに誤作動か?」

無線が、止まる。一瞬。ほんの一瞬。

『蒼』

碧斗の声が、低くなる。

『不安を煽るな』

煽ってなんかいない。ただ、見えているものを、そのまま言っただけだ。

『今は、全員が冷静でいることが最優先だ』

正論。反論は、できない。できないからこそ、喉の奥が、詰まる。

水音がした。どこか遠く。だが、確実に“近づいている”音。


水族館は、呼吸をしない。代わりに、飲み込む。

『……下層エリア、浸水を確認』

一花の声。震えている。それを隠そうともしていない。

『隔壁が、閉まらない』

隔壁。閉じれば、誰かが、閉じ込められる。

『……指示を』

一花が言う。

無線の向こうで、誰かが息を吸う音。

『――閉じろ』

碧斗の声だった。短く。迷いがない。その瞬間、何かが、決定的に壊れた。

誰も、名前を呼ばれなかった。誰も、選ばれたと告げられなかった。ただ、“正しさ”だけが、そこにあった。


通路の先で、低い金属音。隔壁が、ゆっくりと、閉じていく音。

「待て!」

誰かの声。凛か、一花か。判別できない。

無線が、激しくノイズを吐く。言葉は、もう意味をなさない。

隔壁が、完全に閉じる。音が、消える。水音だけが、残る。

「……蒼」

紬が、俺の袖を掴んでいる。力が、強い。爪が、食い込む。


俺は、前を見ていた。閉じられた隔壁。その向こう側。誰がいるのか。誰が、沈んだのか。――確認する術は、ない。


正しかった。碧斗は、正しかった。最善だった。合理的だった。それでも。

胸の奥で、何かが、完全に、息をしなくなった。

水位は、そこで止まった。少なくとも、今は。

館内は、静寂に包まれる。生き残った者たちの、荒い呼吸だけが、響く。


誰も泣かない。誰も叫ばない。声を出すと、自分が“こちら側”にいることを、実感してしまうから。


俺は思う。――友情?――信頼?――上下関係?

そんなものは、船が沈むときには、何の浮力にもならない。

正しさだけが、一番重く、一番早く、誰かを沈める。

大水槽のガラスに、自分の顔が映る。青白く、生きていて、それだけで、罪みたいな顔。

その背後で、ウツボが、ゆっくりと、岩陰から顔を出す。誰にも見られず。誰にも気づかれず。――沈んだ場所を、知っている生き物。


俺は、無線を切らなかった。切れなかった。まだ、繋がっているから。まだ、声が、届くかもしれないから。

でも、もう、信じてはいなかった。

この船は、確実に、沈んでいる。

美しく。無色で。息をする余地すら、与えずに。


**


【第八章 掛ける箕作鮫(ミツクリザメ)の鎌】


**

――沈む、という感覚は、案外うるさくない。


音は遠ざかり、輪郭は溶け、世界は静かに重くなる。大水槽のガラス越しに揺れる青は、もはや海ではなく、底だ。逃げ場ではなく、行き着く先。俺はその縁に立って、血の色を思い出していた。赤じゃない。紅でもない。光を拒み、静かに沈殿する色。黒を抱いた深紅。

それは流れない。ただ、そこに在る。

床に落ちた一滴が、水に溶けることはないと、なぜか分かっていた。ここでは、すべてが沈む。言葉も、正しさも、命さえも。

息を吸う。まだ、苦しくはない。

沈み始める前の世界は、いつだって、こんなにも美しい。

**

――空気は、確かにあったはずだった。


肺に入ってくるはずのそれは、形だけを保ったまま、どこかへ抜け落ちている。吸っているのに、満たされない。吐いているのに、軽くならない。まるで、穴の開いた浮き輪に必死にしがみついているみたいだ。水面には浮いている。だが、中身は、もう空洞だった。

船は、まだ沈んでいない。

少なくとも、見た目上は。

床は乾いている。照明も点いている。非常灯の無色な光が、通路の輪郭を正確になぞっている。理屈だけを見れば、俺たちは“安全圏”にいる。沈没のサイレンも鳴っていないし、誰かが溺れているわけでもない。


それでも、分かってしまう。

――もう、底に穴が開いている。

見えないだけだ。

水が流れ込む音も、きしむ音も、まだ小さすぎるだけで、確実に、船底は削られている。水圧は、準備を待ってくれない。静かに、平等に、逃げ場を潰していく。

「……動こうか」

誰の声だったか、すぐには分からなかった。

無線越しではない。すぐ隣。距離のある声だ。近いのに、遠い。

俺たちは、歩き出す。

隊列を組むわけでもなく、かといって、完全にばらけるわけでもない。互いの背中を、視界の端に入れたまま。信頼ではなく、監視に近い距離感だった。


足音が、やけに大きく響く。

水族館は、本来こんな音の反響をしない。展示の水槽が音を吸い、観客のざわめきがすべてを曖昧にする場所だ。だが今は、違う。音を吸うはずの水が、沈黙している。代わりに、人間の存在だけが、浮き彫りになる。

正しさが、ここにある。

規則がある。

判断がある。

順序立てられた行動が、まだ保たれている。

それなのに、呼吸だけが、追いつかない。


俺は、自分の胸に手を当てる。心臓は動いている。速くもない。乱れてもいない。理想的なくらい、落ち着いている。

――それが、気持ち悪かった。

恐怖は、もっと騒がしいものだと思っていた。叫び、逃げ、混乱するものだと。だが、今のこれは違う。冷たい。静かだ。骨の内側から、じわじわと締め付けてくる。

まるで、水圧だ。


深くなるほど、人は自分の重さを思い知る。

水は、責めない。怒らない。ただ、押す。存在しているだけで、人を潰す。

「……大丈夫?」

紬が、俺を見る。

その目は、まだ人の色をしている。温度がある。揺れている。救いを探す目だ。


俺は、頷いた。

嘘ではない。少なくとも、今この瞬間は。

「大丈夫だよ」

言葉にすると、空気が少し戻った気がした。

だが、それは錯覚だ。空気は、もう漏れている。船底のどこか、見えない場所から。塞ぎようのない、小さな穴から。

無線が、短くノイズを吐く。

誰かが、何かを言いかけて、やめた音。


沈黙が、また一段、深くなる。

ここは、まだ水面に近い。

光も届く。声も通る。判断もできる。

――だからこそ、苦しい。


深海なら、最初から諦められる。

だが、この深さは違う。

まだ助かると思わせる。まだ息ができると錯覚させる。

穴の開いた船は、いつだって、

沈む直前が、一番静かだ。


俺は、知っている。

このまま進めば、もう戻れない。

それでも、歩く。

なぜなら、止まった瞬間に――

肺が灰となり廃すると分かっているからだ。


光は、思っていたよりもしぶとい。

完全に消えるまでには、段階がある。最初は色が抜け、次に輪郭が崩れ、最後に“意味”が失われる。大水槽を見下ろしていたはずなのに、いつの間にか、俺たちのほうが覗き込まれている気がしていた。


魚の背が青い理由を、誰かが言っていた。

上にいる捕食者に、見つかりにくくするため。

魚の腹が白い理由も。

下にいる捕食者に、太陽光と錯覚させるため。


――つまり、彼らは常に、上下を意識して生きている。


今の俺たちと、何が違う。


誰が上にいるのか。

誰が下にいるのか。

誰が見る側で、誰が見られる側なのか。


無線は繋がっている。声も届く。

それなのに、位置関係だけが、妙に曖昧だった。

「ここにいる」と言えば嘘になる。

「動いていない」と言えば、それも違う。


俺たちは、沈んでいる。

だが、水に触れてはいない。


照明の色が変わる。白が、青に寄る。

非常灯の無色な光は、もはや安心を示さない。影を強調し、距離を誇張し、互いの存在を“形”として切り出すだけだ。


紬の背中が、少し遠く見える。

手を伸ばせば届く距離なのに、なぜか、深度が違う気がした。


魚たちは、群れて泳ぐ。

それは協力ではない。信頼でもない。

ただ、孤立しないための形だ。

一匹になるより、見分けがつかなくなるほうが、生き残る確率が高い。


俺たちは、どうだ。


群れている。

正しさで固めた配置。

合理的な距離。

役割分担。

監視と共有。


それでも、朱里は沈んだ。

誰にも見えない場所へ。

誰にも助けられない角度で。


魚の背が青いのは、上を警戒しているからだ。

腹が白いのは、下を欺くためだ。


じゃあ――

今、俺たちは、どちらを向いている?


上か。

下か。


あるいは、

すでに“横”を失っているのか。


大水槽の奥。

光の届かない場所で、影だけが動く。

ウツボの細長い体が、岩の隙間に溶け込んでいる。

彼らは、追わない。

ただ、待つ。


獲物が、勝手に沈んでくるのを。


俺は、無線を握り直す。

掌の温度が、少し低い。

呼吸はできている。

だが、胸の奥で、圧が増している。


この水深では、

正しさは浮力にならない。

声も、光も、仲間も、

すべてが等しく、重くなる。


――もう、色は残っていない。

背も、腹も、同じ”蒼”だ。


**

光が、完全に意味を失ったころ。

世界は、音と温度だけで構成される。

**


水槽の青は、もはや色ではない。深度の指標だ。

浅い場所は騒がしく、深い場所は静かで、そして――正確だ。

誤差がない。揺らぎもない。

あるのは、上下と、圧だけ。


碧斗は、正し()()()

判断は早く、配置は合理的で、無線の使い方も適切だった。

誰よりも「浮かぶ」ための条件を理解していた。

だからこそ、彼は疑わなかった。

沈まない前提を。


ラブカは、獲物を追わない。

深海に潜み、時間を使い、環境そのものを罠にする。

逃げ道を塞ぐのではない。

「ここにいても大丈夫だ」と思わせる。


非常灯は点いていた。

無線も生きていた。

床は乾いていて、警報は鳴っていない。


――完璧な、安全。


だから、誰も気づかなかった。

配置が、ほんの少しだけズレていたことに。

順序が、正しさのまま、致命的に噛み合っていたことに。


碧斗は、一人ではなかった。

だが、孤立していた。

合理性の中で、役割として、切り出されていた。


誰が決めた?

誰が誘導した?

誰が、そこに「罠」を置いた?


答えは、水族館のどこにも書いていない。

ただ、環境だけが、静かに機能した。


金属が、短く鳴った。

それは衝突音ではない。


無線が、一度だけノイズを吐いた。

言葉になる前の、圧縮された空気。

それきり、何も続かなかった。


配置も、人数も、理屈の上では正しいままだった。


遅れて訪れるのは、欠落だ。

声が一つ足りない。

視界の端に、背中がない。

それだけ。


誰も叫ばない。

誰も走らない。

沈没のサイレンは、最後まで鳴らない。


――美しい。

そう思ってしまったことを、俺は否定しなかった。


血の色は、見ていない。

倒れた姿も、確認していない。

それでも分かる。

ここでは、結果はいつも、沈殿してから理解される。

碧斗は、消えた。

壊れたのではない。

排除されたのでもない。

ただ、深度が合わなくなった。

今はただ、この船が、確実に軽くなったことだけが、分かる。


深度が増すほど、光は色を失い、音は薄れていく。

だが、秩序はまだ形を保つ。

誰も気づかないまま、配置は微かに変化し、船は軽く、そして沈みやすくなった。


碧斗は、もういない。

その事実は、波紋のようにゆっくり広がるだけで、誰の胸も騒がせない。

沈黙が、ただ、深さを増す。


俺は、息を整える。

まだ、肺は潰れていない。

でも、これ以上の沈みは、誰にも止められない――。


――深海は、美しいものから順に、沈めていく。


**


【第九章 冷えた大地の泳ぐ熊】


水族館の空気は、いつもより重く、湿っていた。

クラゲ展示エリアの青白い光が、静かに壁と床に反射する。浮遊する生き物たちは、光の中でゆらゆらと形を変え、誰も手を伸ばせない宙に漂っている。


「……ここで話そうか」

先生の声は、低く落ち着いていた。緊張を押さえ込むような、包み込むような音。生徒たちは無意識に彼の周りに集まり、視線を彼に寄せる。


朱里のことは、まだ皆の胸に重くのしかかっている。だが、声に出す者はいなかった。

「死者が出た場所で話すのは、気が滅入るだろう?」

先生は柔らかく微笑んだ。冷静な声は、逆に不安を隠す力を持っていた。


クラゲの光が揺れる。手を伸ばせば届きそうで、届かない。生徒たちは、自分の影が床に淡く落ちるのを見つめた。

「まず、今までの流れを整理しよう。誰がどこで何をしていたか、順番に」

先生の言葉に、生徒たちは頷く。頼れる大人の指示に、身体が自然と反応してしまう。


目の端で、先生の影が伸び、クラゲの光と混ざる。

その影は、今のところ恐怖ではない。安心でもある。

だが、光の揺らぎに混じって、かすかに何かが違うような気配を、ほんの一瞬、生徒たちは感じた。


まだ、誰も気づかない。

まだ、この空間は、見かけ上の安全で満たされている。


**


クラゲ展示エリアは、思っていたよりも明るかった。

深海性の発光海月が、水槽の奥でゆっくりと明滅している。一定のリズム。呼吸の代わりみたいな光。青でも白でもない、境界のない色が、床と天井を曖昧に溶かしていく。

「……きれいだな」

先生が、そう言った。

独り言に近い声だった。誰に向けたわけでもない。ただ、空間に落とされた音。


生徒たちは、つられて水槽を見る。

一瞬だけ、思考が浮く。朱里のことも、碧斗のことも、胸の奥に沈めたまま、それでも光に目を奪われる。ここでは、光ること自体が罪ではない。生きている証拠でも、危険信号でもない。ただ、そこに在る。

隣の水槽に移動すると、同じクラゲなのに、空気が変わった。

見た目は似ている。透明で、柔らかくて、静かに漂っている。それでも、展示プレートの注意書きだけが、はっきりと違いを主張していた。


――《刺激を与えると刺胞が反応します》


「同じクラゲなのに、全然違うんだね」

凛が言う。

先生は、少し考えるような間を置いてから、首を横に振った。

「違わないよ」

視線は、水槽から離れない。

「どちらも、生きるために必要な形だ」

正しい言葉だった。

教師らしい。理屈も通っている。


なのに、胸の奥で、圧が増す。

必要、という言葉が、やけに重い。誰にとって必要なのか、その主語が抜け落ちている気がした。

先生は続ける。


「人はね、守るものを失いそうになると、思ってもいない行動を取ることがある」


講義口調。

でも、誰もそんな話を求めていない。

紬が、不安そうに眉を寄せる。

「……それって」

言いかけた言葉は、先生の小さな動きで止まった。

ほんの一瞬、息を詰めるような間。次の瞬間、先生は柔らかく笑った。

「いや、一般論だ」

その修正が、遅かった。

過去形にするには、まだ近すぎる距離。


展示エリアの床は、微妙に段差がある。

意識しなければ気づかないほどの、高さの違い。生徒たちは自然と同じ場所に並ぶ。誰に言われたわけでもないのに、群れる。

先生だけが、一段低い位置に立っていた。

偶然だ。展示の都合だ。

誰も、気にしない。

それでも、先生の声は、下から響いていた。

見下ろされているわけじゃない。見上げているわけでもない。ただ、角度が違う。


「ここは、見通しがいい」


確かにそうだ。

クラゲは透明で、遮るものがない。

なのに、思ってしまう。

この人には、俺たちが“守る対象”じゃなく、“管理する存在”に見えていないか。


刺さない海月は、近づいても何も起きない。

刺す海月は、触れる前から距離を決められている。

危険なのは、刺すことじゃない。

触れる前に、線を引かれることだ。


「もし」


先生が、静かに言う。


「誰かを一人、遠ざけることで、他が安全になるなら」


問いかけの形。

教育的で、穏やかで、正しい。

でも、それは仮定じゃない。

誰も答えない。

クラゲだけが、光る。


答えを知っている人間だけが、こんな質問をする。

そのことを、俺はもう、理解してしまっていた。


刺す海月は、悪ではない。

ただ、防衛として反応するだけだ。


そして、人は時々、

守るという理由で、

自分が刺したことに気づかなくなる。


**


クラゲの光は、一定だった。

明滅の周期も、色の温度も、何一つ変わらない。

それなのに、空気だけが、確実に重くなっていく。


水族館は、動いていない。

沈没の警報も鳴らない。

床は乾いていて、非常灯も生きている。


――完璧な、安全。


だからこそ、誰も動けなかった。


先生は、水槽から視線を外さないまま、続ける。

「守る、というのはね」

その声は、低く、静かだった。

感情は抑えられている。

だが、完全には封じ切れていない。


「選ぶ、ということだ」


選ぶ。

その言葉が、ゆっくり沈む。

「全員を救える状況なんて、ほとんどない。現実は、もっと不公平で……冷たい」

クラゲが、光る。

水槽の奥で、何度も、何度も。


「だから、大人が決めなきゃいけない時がある」


紬が、息を吸う音が聞こえた。

凛は、何も言わない。

一花は、視線を落としたままだ。

誰も、先生を止めない。

「守るための判断は、時々――」

一拍。

「取り返しがつかない」


その言葉は、警告の形をしていなかった。

懺悔でもない。

ただの、事実報告だった。


俺は、理解する。


自分の生徒が死んだ。

その瞬間に、先生の中で、何かが壊れたのだ。


教師としての距離。

大人としての理性。

「ここまで」という線。


全部、同時に。


パニックは、すぐには殺さない。

時間をかけて、選択肢を削る。

正しさだけを残す。


――守るためなら、何をしてもいい。


その一行だけが、深く、深く、沈殿する。


先生は、ようやくこちらを向いた。


視線が合う。


逃げ場がない。

この深度では、言葉も、嘘も、浮力にならない。


「君たちは、生き残る」


断定だった。

願いでも、希望でもない。


命令に近い。


「……それでいい」


誰に向けた言葉か、分からない。

俺たちか。

それとも、自分自身か。


クラゲの光が、先生の影を歪める。

白いはずの身体が、黒く見える。

透明なはずのものが、重く沈む。


シロクマは、白くない。

体毛は透明で、皮膚は黒い。

光を受けて初めて、“白”に見える。


光がなければ、ただの影だ。


俺は、言葉を選ばない。

問い詰めない。

暴かない。


ただ、息をする。


この人は、刺した。

守るために。

選ぶために。


それは、悪ではない。

でも、許されることでもない。


「……先生」


声を出したのは、俺だった。


先生は、答えない。

否定もしない。

肯定もしない。


沈黙が、すべてを認めていた。


海溝の底。

光の届かない場所。

圧だけが、正確な世界。


ここでは、正しさも、善意も、等しく潰れる。

それでも、先生は立っている。

刺胞を持つ海月のように。悪意なく、逃げ場を奪う存在として。


俺たちは、生き残る。

その事実だけが、残る。

――解決は、した。

それなのに、

胸の奥には、何一つ、浮いてこなかった。


深海は、美しい。だからこそ、

――人は簡単に、沈む。


**


【第十章 流れる魚の残骸】


水族館は、朝を迎えた。

区切りとしての朝だ。光が切り替わり、照明が変わり、時計が進む。それだけで、世界は再開の形を取る。


水は循環している。

ポンプは一定の速度を保ち、濾過装置は休みなく稼働する。汚れがあれば流れ、沈殿すれば回収される。感情は必要ない。工程があるだけだ。


床は濡れている。

清掃後の水に消毒液が混じり、金属の匂いが薄く残る。意識しなければ、ただの湿り気だ。


排水溝の格子に、白いものが引っかかっている。

骨だ。細く、軽く、形だけを保った構造物。名前はない。種類も判別されない。指で触れれば、簡単に折れるだろう。


魚は、解体されるとき、

まず「個体」であることを失う。

頭と胴が分かれ、内臓が取り除かれ、最後に残るのは、骨格という設計図の抜け殻だけだ。

それは生きていた証拠ではない。

ただ、そこに生き物が適合していた形だ。


血の色が、床に薄く伸びている。

滴ったのか、引きずられたのか、判断できない線。水で希釈され、すでに色は薄い。時間が経てば、透明になる。


血は、流れれば、水になる。


残骸は集められる。

まとめられ、運ばれ、処理される。

手順はあっても、躊躇はない。

腐敗は失敗ではない。予定された変化だ。分解され、還元され、環境に戻るための工程。


魚は、それを拒まない。


点検表にチェックが入る。

清掃が終わる。

異常は報告されない。


魚は泳いでいる。

数は合っている。展示用のリストと照合し、欠損はないと判断された。名前のない個体が数匹入れ替わっても、全体としての正しさは崩れない。


俺は通路を歩く。

足音が反響する。以前より小さい。人の数が減ったからか、慣れただけか。理由は要らない。


ガラスの向こうで、群れが流れる。

一匹が向きを変えれば、遅れて全体が従う。意思ではない。衝動でもない。流れに対する反応だ。逆らうより、溶け込むほうが消費が少ない。


踏みしめる。

靴底に、わずかな感触が残る。滑りやすい。だが、立ち止まる理由にはならない。

骨は砕け、音もなく、形を失う。


展示水槽の中では、光が反射し、鱗が揺れ、影が壁に走る。美しい、と呼ばれる現象だ。説明もできる。角度と屈折率の問題。


美しさは、条件が揃えば再現できる。


「……もうすぐ、再開だね」


誰かが言った。

声は特定できるが、重要ではない。言葉の内容も意味を持たない。

再開する、という前提は、止まっていたという仮定に依存する。だが、ここは止まっていなかった。少しだけ、軽くなっただけだ。


魚の数が合っているように、

人の数も、合っている。


足りない声があることは分かる。

だが、それを欠損と呼ぶ工程は、すでに終わっていた。


俺は水槽の前で立ち止まる。

流れる光が影を作る。影は意味を持たない。

歩き出す。出口に向かっている。外に出れば、圧は下がり、深度はゼロに戻る。計算だ。


――最初のときも、そうだった。

判断は早く、迷いはなかった。息苦しさより先に、計算が来た。減れば、軽くなる。それだけだった。


思い出す必要はない。

消えるわけでもない。


水は、覚えていない。

魚も、覚えていない。

水族館も、覚えていない。


覚えているのは、

生き残ったものだけだ。


残骸は、語らない。

恨まない。

問いかけない。

ただ、踏まれる位置にある。


残骸は、世界の前提条件だ。

それがなければ、流れは成立しない。


ガラス扉の向こうに、無色の光がある。

意味を持たない光。


俺は、足を止めない。

俺は、生きている。

それ以上の意味はない。


水族館は、今日も開館する。


**


【終章 生きる神秘の死骸】


呼吸は続いている。

意識しなくても、空気は肺に入り、出ていく。胸郭は動き、心臓は規則正しく拍動する。生きている、という状態だ。

世界は整っていた。音は音として届き、光は光として反射する。秩序は戻り、時間は進む。壊れたものは処理され、残ったものだけが配置される。


水槽の写真がある。群れる魚、揺れる影、再現可能な美しさ。死骸は写らない。写す必要がないからだ。残骸は背景に溶け、素材として扱われる。

俺は椅子に座っている。姿勢は自然で、視線は前を向く。名を呼ばれれば反応するだろう。それで十分だった。


最初のときも、同じだった。音は小さく、抵抗は短く、赤は流れた。理解より先に体が動いた。選択ではなく、適合だった。

守るためか、軽くするためか。問いは成立するが、答えは要らない。世界は続いている。


言葉は更新され、事件は過去形になる。原因は整理され、納得できる形が配られる。受け取らないものもいる。ただ、届かないだけだ。

神秘は理解されなくても機能する。役目を終えた神秘は、構造になる。魚の骨のように。


俺は立ち上がり、歩く。床は安定している。残骸は見えない。見えないものは数えられない。

それでも、道は何かの上に築かれている。生きている。それだけで、世界は成立する。意味は、もう必要とされていなかった。


**


机の上に、使用済みの手袋が置かれている。薄いビニールは体温を失い、指の形だけが残る。用途は終わった。廃棄の箱は近い。誰もそれを惜しまない。役目を果たした物は、静かに次の工程へ送られる。蒼はそれを見る。触れない。拾わない。記憶に留めない。ただ、視界を横切った事実だけが残る。外の天候は知らない。知らせは来ない。来る必要がないからだ。ここで起きたことは、ここで閉じる。扉が閉まり、鍵が回り、確認の音が鳴る。完了の合図。誰も拍手しない。終わったからだ。


**


照明は落とされ、ガラスは闇を映す。魚の影はもう揺れない。循環音だけが続く。蒼はその場を離れる。振り返らない。残された水は、まだ温度を保っている。時間は進み、意味だけが置き去りになる。生存は証明され、理由は消える。それでも世界は正常だ。それが異常だと、誰も呼ばない。記録は保存され、感情は更新されない。沈黙だけが続く。それで十分だった。終わりは来ない。今も。

30000字丁度(空白・改行を含むと32141ですって)。美しいですね。やっぱり、””美しさ””って大切だと思うんです。

それではまた、どこかで会いましょう。

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