テーラー月のうさぎ
あの金曜日の夜は、月がとっても大きくて赤かった――。
私は仕事から帰る道すがら、今晩は何を食べようかなと、ずっと考えていました。今日は私の当番の日なんです。スーパー丸崎に入って、お惣菜コーナーを回り、半額シールが貼られたパックを手に取った途端に、今度は明日の休みは何をしようかと考え始めました。これはわたしの考え方の癖です。つねに何かを考えていないといられない性分なんです。暇な1日を作って、ぼうっとできる人がうらやましいと思っていました。たぶんその方がずっといいのかもしれません。
月の明かりが夜道を明るく照らしていました。普段この道は電灯がなく、夜は真っ暗で怖いくらいなんですが、今夜は道の隅々まで見渡せそうなくらい明るかったんです。多少誇張はしていますが、そう思うくらいに、その日はいつもと違っていました。
私は実家ぐらしです。生まれた時からずっと暮らしてきた愛着のある家は、2階建ての戸建てで、ちょとした野菜などを育てている小さな庭つきです。両親と3人で暮らしています。若い頃は一人暮らしに憧れていたこともあったけれど、でもなんだかんだ、やっぱり実家暮らしが一番だと思います。お金のことも、年を取った両親のこともあるけれど、なにより住み慣れて安心できる家で生活できることが一番だと思ったんです。
私は家事もろくろくしないし、裁縫などもっての他の人間でした。お母さんが良くできる人だと、子どもはできなくなるのは仕方がないなどと、都合のよい言い訳をして来た私には、今ではもう、なんの恥ずかしさもありませんでした。別にできなくて困ったことはないし、これから科学技術も進化して、もっと便利で楽な生活になっていくのだから問題ないだろう、と考えていたくらいです。そんな私は、夜道をそろそろと歩いて家に向かっていました。
しかし、今夜はおかしなことにいくら歩けど、家は見えませんでした。毎日歩いている道なのに、なぜかたどり着かないのです。
あれ? おかしいな……。公園、さっきも通ったはずなのに……。
同じところをぐるぐるしているような気もします。
私、疲れてるのかな……?
そう思いながら歩いていくと、鬱蒼とした森に通じる砂利道が現れました。
こんなところ、あったっけ?
私の住んでいるところは、住宅街の中心地で、林や森などあるはずがないのです。私は昔、読んだ童話に似ているような気がして、怖さ半分わくわくしてきました。砂利道をローファーでジャリジャリいわせながら歩いて、森の入り口のところまで来ました。入り口は、暗くて先が見えません。それでもなぜか、怖いというより、森に何があるのか知りたいという気持ちの方が強かったんです。今夜の月があんなに大きくて、赤いことを考えてみれば、なぜ私が恐ろしそうな森になど入ろうとしたかくらいは想像がつきそうなものですが、その時の私はまだ、それに気付いていませんでした。
ふとした時には、私の足はもうすでに、ぱっくりと口を開けた森の入り口を踏み越えていました。あれほど真っ暗に思えた森も、異常な月明かりに照らされ、きらきらと輝いて見えました。だから全く怖くはありませんでした。落ち葉が重なり、ふわふわとした道を踏み歩いていきます。広葉樹の木々は赤や黄色に紅葉しているものもあれば、もう葉のない裸の木もあるし、緑の葉をまだ繁らせているのもありました。所々に生えている白樺の木の艶かしい白さが、ひときわ強く月光を反射していました。森が "生きている" と感じた瞬間でした。
ふと、落ち葉の間にきらきらと光るものが落ちているのが見えました。拾い上げると、それは針でした。こんなに小さなものをよく見つけられたと思いましたが、それも今夜が特別な夜であったことを思い出せば納得がいきます。
地面から付き出した根っこに気をつけながら、さらに歩いていくと、今度は石ころの上に50号の白いミシン糸が置いてありました。
わくわくする気持ちは止まりません。さらに進んでいくと、今度は布切れが点々と向こうの方まで続いているではありませんか。私は面白くなって、端切れを拾っては歩きを繰り返しました。
最後の黄色い端切れを拾い、ふと顔を上げると、目の前に煙突つきの可愛らしいロッジ風の家が建っていました。窓から灯りが漏れていて、中からこんな楽しそうな歌声が聴こえてきました。
「さあさ、今夜は月夜の晩。なんでも好きなものを作りましょ。手袋、マフラー、帽子にガウン。ドレスにズボンにセーターに。なんでも作れる不思議な手。テーラーウサギにお任せあれ」
私は背伸びをして窓を覗きました。そこには一匹のウサギが洒落たエプロンをかけ、カタコトとミシンを踏んでいました。部屋はオレンジっぽい暖かそうな光に包まれていて、なんとも居心地の良さそうなところです。私は思わず、窓をとんとん叩いてみました。
「こんにちは、私にも何か作ってくださいな」
ウサギは耳をぴくっとさせて、こちらを振り返りました。そして、「ああ、びっくりした」といったような顔をしました。ウサギは玄関に回って下さいと言うと、ドアを開けてくれました。
しげしげと私の洋服を見回した後、コートを受け取ると、まるで貴重な美術品でも扱うかのように裏表、丁寧に観察し始めました。
「なるほど、なるほど。これはいい、これはいい」と呟きながら、ようやく私に向き直ると、「それで、何がほしいんですか?」と尋ねました。
私は「柔らかい素材でできた、あったかいプルオーバーがほしいんですが」と答えました。
木枯らしが吹く季節になりましたから、一枚欲しいなと思っていたところだったんです。ウサギはふむふむ唸ると、首にかけていたメジャーで私の体のあちこちを測り始めました。小さいウサギは耳をぴょこぴょこさせながら、椅子やテーブルの上に乗って私の全身をきちっと測ったんです。
「これでよし。それでどんなデザインがお好みですか? 」
デザインは正直なんでもよかったので曖昧に答えると、ウサギは少し怒った顔をして、
「だめです。それでは、だめなんです。デザインをしっかり決めないと、ちゃんとした仕上がりにはならないんですよ。そうですね……。杉綾模様はいかがですか? それとも煙草縞がいいですか? ……う~ん、それならツイードやジャケットが合うんだけどな……」と呟きました。
私には、デザインのことなど全く分かりません。ウサギはもう一度、私の顔や体をじっくり見て、またうんうん唸った後、急に顔をぱあっと輝かせました。
「分かりました! とても素敵で、かわいらしいデザインが浮かびました! 私としたことが、つい、うっかりしていました。あなたなら、あれがぴったりだということがね。出来上がるのを楽しみにしていてくださいね」
「いつ、できますか?」
「そうですね。一週間後にまた来て下さい。……さあて、布はどんなのにしようかな」
ウサギは私のことなど、そっちのけで、鼻歌を歌いながら奥の部屋に行ってしまいました。私は一人、部屋の中の家具や小物などを見て回りました。ウサギが手作りした洋服たち――。ツイードやジャケット、スカートやズボン、シャツなどが部屋のあちこちにかけられていました。どれも立派な出来です。
私はなにより、部屋の趣味の良さに目を奪われました。ヴィンテージの椅子や蓄音機、作り込まれた机やガラス戸棚など、洗練を極めた品々は、その配置にいたるまで完璧に計算し尽くされていました。まるでこの部屋全体が、一つの芸術作品のようでした。
モスリン地の緑のカーテンが、奥の部屋との境にかかっていて、ウサギはその先の部屋にいるのです。私は恐る恐るカーテンを開けて、中をこっそり覗いてみました。するとそこには、たくさんの布や裁縫道具が棚に並んでいました。同じ赤色でも、夕焼け空の色や暖炉の灯火の色や、ワインの色だったり、同じ青でも、快晴の空の色や海の色、涙色など雰囲気の異なる色がたくさんあります。ウサギはタンスから次々と布を引っ張り出すと、あれでもない、これでもないと悩んでいるようでした。
「テーラーさん、このおうち、とっても素敵ですね」と、私は声をかけずにはいられませんでした。ウサギは振り返ると、「あれ、まだいらっしゃったんですか」と言いました。
お客さんに少し失礼なウサギです。でもこのウサギは、目の前にいるのがお客さんだと、はっと気づいた様子で、「いえいえ。すみません。お客様にお茶も出さずに、これはとんだご無礼を」と言って、そそくさと出てくると、温かい紅茶をいれてくれました。紅茶は、ほのかに林檎の香りがしました。
「あの部屋にはたくさん布があるんですね」と私は、ほわりと湯気の立つティーカップを見つめながら言いました。
「ええ、ええ。私の店にはありとあらゆる布が置いてあります。サテンにタフタ、ポプリン地にボイル地、シャーリー地にモスリンもありますよ。どうですか? ネルのブラウスは? サージのスカートは? 薄い青緑色のシフォンのドレスは? パフスリーブに帯もつけましょうか。きっとあなたにお似合いでしょう。これから寒くなりますからね、それよりマフや長手袋がよろしいですか? 紫がかった灰色がお似合いでしょう」
ウサギは誇らしげに語りました。
「なんでも知ってるのですね」
「もちろん。私は腕もぴか一の有名なテーラー屋ですからね。世界中から注文が来るんですよ」
「有名なテーラーさんに頼めるなんてうれしいです。出来上がりを楽しみにしていますね」
私はそろそろ帰ろうと席を立ちました。
「もうお帰りですか? もっとゆっくりしていってもいいのに」
今度はそんな風に言いました。
口も達者なテーラーさんだことと、私は微笑みながらコートを羽織りました。
「お気をつけて」
そこで私は思い出しました。来る途中、道で拾った針と糸と布切れのことを。ウサギに話すと、「それはあなたにあげます。持っておいてください、きっと役立ちますよ」と言いました。
見えなくなるまでウサギは見送ってくれました。森の入り口を出ると、そこは私の家の前でした――。
一週間がこれほど長く感じられたことは今までありませんでした。あの素敵なテーラーさんが作ってくれるプルオーバーが待ち遠しかったんです。
いよいよ金曜日の夜がやってきました。その夜も、月が大きくて赤かったのを覚えています。私は仕事帰りに、また森の入り口を抜けて、落ち葉をシャラシャラいわせて歩いていました。道にはまた、落とし物がありました。かぎ針や棒針を拾い、点々と落ちているさまざまな種類の毛糸を拾い上げます。もうすぐ、あのテーラー屋が見えてくるはずです。私はわくわくしながらお店のドアをノックしました。
「待っていましたよ」
ウサギのテーラーさんが、にこにこしながら出てきました。上手く仕上がったのでしょう。
「おかけになってお待ちください」
ウサギはもったいぶった調子で言うと、また奥の部屋へ消えていきました。部屋はオレンジマーマレードの香りがしました。
しばらくすると、白い布にくるんで丁寧に赤いリボンで結んだ品物を手にしてきました。
「さあ、開けてみて下さい」
手にすると、重さもないくらいふわっと軽いのに驚きました。ゆっくりとリボンをといて、布を広げてみると、きちんとたたまれたニットのプルオーバーがありました。
茶色に薄い灰色のまざった繊細で不思議な色合いです。胸のところから切り替えになっていて、青灰色とダークグレーとの縞模様になっていました。胸のところには針葉樹のモチーフが一列に並んでいて、金色の糸で三日月とウサギの形が刺繍されています。月の回りには、きらきらと輝く小さな星々が散りばめられていました。私はしばらくの間、うっとりと見つめてしまいました。
「ああ……なんて素敵な模様なんでしょう。私、とっても気に入りました」
「それは良かった! きっとお気に召されると思いましたよ。さあ、はやく着てみて下さい」
テーラーさんは、さあさあと私を着替えるための部屋へと急き立てました。
私はカーテンごしに、
「どうですか?」
「まだ着ていません」
「着心地はいかが?」
「今首を通したところです」
などと問答を繰り返し、ようやく着終わると、それは温かくて柔らかくて、しかも着ていないくらいの軽さに驚きました。
「着心地は最高です」
テーラーさんはカーテンを開けて私の姿を見ると、目を真ん丸にしました。
「なんと……お似合いだこと!」
私たちはその後、おしゃべりをしたり、おいしいケーキを食べたりして楽しい時間を過ごしました。そろそろ帰らなくてはいけない時間です。するとテーラーさんは、お土産だと言って私に一つの木箱をくれました。
「家に帰るまで決して開けてはなりませんよ。帰り道が分からなくなりますからね」と、付け加えて。私はお礼を言いました。
「テーラーさん、またここに来てもいいですか? 私、またあなたに作ってもらいたいんです」
「ぜひ遊びにきて下さい。注文じゃなくても構いませんから」
ウサギのテーラーさんは、にっこりしました。私の胸は灯りがついたように、ぽっと温かくなりました。
「そうだ、次に来た時に、簡単な服の作り方でも教えましょう」
「私にもできますか?」
「もちろんですとも。私は腕のなるテーラーですからね」
私はまた新しい楽しみができました。森の出口を抜けると、灯りのともる私の家が見えました。
私はその晩、もらった木箱を開けました。それは裁縫箱でした。中にはミシン糸やハサミ、針や糸通し、そして色んな色の余り布が入っていました。あんなに裁縫が嫌いだった私が、子どものように目を輝かせて布を選んでいるということ自体が、一番のびっくりでした。箱を開けた瞬間、部屋にオレンジマーマレードの甘酸っぱい香りがふわりと漂いました。あの、お洒落な仕事部屋が目に浮かびます。
私も、テーラーさんみたいに素敵なジャケットやスカートが作れたらいいなぁと憧れる思いがますます強くなりました。私はその日から裁縫を始めました。
最初は簡単なスカートを作って、次にブラウスを作って、ズボンも作れるようになりました。私は両親のために、暖かいセーターや帽子や手袋を編みました。不思議なことに、テーラーさんからもらった余り布は、作り始めると、ぐんぐんと延びて、いつもちょうど必要な分が取れました。なによりすごいのは、着ると不思議な体験ができることです。
海の色の余り布で作ったシャツを着た私は、目の前に開けた真っ青な海にざざーんと打ち寄せる白波を見ました。暖炉の炎のような色のセーターを着ると、私は暖炉の前の揺り椅子に座っていて、ちろちろと燃える赤い炎が時々、ぱちぱちとはぜる音さえ聞こえてきたんです。本当に不思議ですね。
私はあのウサギのテーラーさんのために、一着洋服を作ってみたくなりました。子供用の型紙をとって、どの布地がいいかなとか、どんなデザインがいいかなと悩みながら、ようやく一着のタキシードを作りあげました。雪の粉がさらさらと舞い降りたような白い布に包み、若葉についた雫みたいな水色のリボンをつけました。これですべてが完璧です。
私は金曜日の晩に、あの森の入り口に立っていました。テーラーさんは、どんな顔をするでしょうか? 喜ぶ顔が目に浮かびます。
しかし私は歩きながら、すっかり森の様子が変わってしまったことに気が付きました。木々は葉がすべて落ちきってしまい、地面に落ちた葉も土に返ってしまっていたのです。どこか森は寂しげでした。私は地面に目を凝らしました。ウサギの落とし物を探していました。けれども見つかりません。それに行けども、家が見つかりません。
「テーラーさーん。どこですかー。来ましたよー」
私はちょっとばかし、恐くなって小さな声でそっと言いました。
すると森がざわざわして、森の奥から、
「はあい。テーラーウサギ屋は引っ越しました。新しい住所は○○○です」と声が返ってきたのです。
私は驚きました。だって、それは私の住所だったんですから。
私は来た道を急いで戻りました。森の入り口を抜けたとき、目の前に立っていたのは、あのウサギのテーラー屋でした。しかもそれは、私の家でもあったんです。ちゃんと表札には、私の名字が刻まれていました。
家の窓から暖かい黄色い光が漏れていました。そして、お母さんが上機嫌に鼻歌を歌っています。人参にじゃがいも、トマトにたまねぎ、チキンがグツグツ煮えた、おいしい匂いが外にまで漂ってきます。
今日はカレーだな。
私はうきうきしてドアを開けました。
「お帰りなさい」
目の前にいたのは、にっこり笑ったお母さんでした。少し目線を落とすと、私はさらにびっくりしました。お母さんの足元の赤い絨毯の上に、小さなウサギがちょこんと私を見上げていたんです。
「そのウサギ……」
「今日ね、糸がなくて手芸屋さんにいったら、ウサギが一匹迷い込んでいたの。かわいそうに飼い主が見つからなくてね、連れてきちゃった。とってもかわいいウサギでしょ?」
お母さんはまた笑いました。こんなに楽しげなお母さんを見たのは久しぶりでした。
片耳が垂れたウサギは、洋服を着ていないだけで、あのテーラーさんにそっくりでした。
「テーラーさん?」
私はウサギにだけ聞こえるように小声でささやきました。でもウサギは耳をちょこっと、かいただけでした。
私は今、両親と、一匹のウサギの四人暮らしです。そして、"好きこそものの上手なれ"で、ずいぶん裁縫が上手くなって、自分のお店を開けるほどになりました。お店の名前は『テーラー月のうさぎ』です。我ながらいいネーミングだと思っています。
今ではたくさんのお客さんが来てくれます。タキシードを着た、かわいいウサギを見たくて遠くから来る人もいるほどです。人気の店ですし、すべて一点もののオーダーメイドですから、お届けまでには何ヵ月もかかってしまいます。でも、あのウサギのテーラーさんと同様、決して妥協しない素敵な一着を作ることをモットーにしています。
さて、今夜も月明かりが綺麗です。
あなたに冒険を楽しむ子ども心がある限り、『テーラー月のうさぎ』の門戸はいつも開いています。
【おわり】
最後までお読みいただきありがとうございます。




