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人間卒業

 

 クロエルが掴んでいた手を放し、私の体を放り投げた。それも、結構な勢いで。

 

 視界が上下逆さまになる。下には青空、上には見慣れた校舎が。

 

 悲鳴を上げるまもなく、私は校舎の壁に激突…、しなかった。

 

 クロエルは廊下の窓が開いているところへ、抜群のコントロールをもって私を投げ入れたのだ。しかもちょうど私の教室の目の前である。

 

 しかし廊下の窓から校内に入ったとはいえ、投げられた勢いが衰えるわけではないのだが、私はこれといった怪我を負わずに済んでいた。自分でも驚くことに、背中が床に衝突する寸前に、無意識に体が宙返りをしていた。反転していた視界が元通りになり、私は無事に廊下に着地した。

 

 そんなアクロバティックな動きを、これまでの人生で決めたことなど一度もない。練習すらしたことがなく、ましてや横方向に滑空しているような状況から、手も足も一切使わずに体をひねるなど、人間に出来る動きではないし、物理の法則を無視している。

 

 それが指し示すことは一つ。私は徐々に人間から遠ざかっている。

 

 ノクターンロゼに加入してからというもの、手から触手が出るようになったり、念動力のような能力が発現したりと、特殊なスキルの面では成長を続けていた。それでも自分はまだ普通の人間として生きているという自覚がどこかにあった。ほかの人と同じように学校に通い、ご飯を食べ、夜にはベッドで眠る。親がいて、友達がいて、熱中できる趣味もある。悪の組織の一員であることを除けば、どこにでもいる普通の人間。そう思っていた。

 

 「おはよー、梓。今日ギリギリじゃん。いつも早いのに珍しいね」

 

 恵が教室の窓から顔を出した。朝礼前だというのに、すでに何か食べているらしく、口をもごもごとさせている。早弁にしては早すぎるのではないか。

 

 私は今しがた行った自分のアクロバティックな動きを、脳内で反芻した。クロエルは私があのような行動をとることを分かっていて、無造作に放り投げたのだろう。あんな反応がとっさに出来る人間はまず存在しない。体操のオリンピック選手であろうとも、空中に投げ出された状態から体勢を立て直し、勢いを殺して無償で着地するなど不可能だ。

 

 「私、人間辞めちゃったかも」

 

 「へ?また変な漫画でも読んだの?」

 

 「変な漫画は読んでるけど、それとこれとは関係ない。そうじゃなくてさ」

 

 私は首を左右に動かし、周囲に視線を走らせた。

 

 「誰も見てないよね、さっきの」

 

 「さっきのってなんのこと?それより早く席着きなよ。もうチャイム鳴ってるよ」

 

 幸運なことに、ダイナミックな着地を決めた瞬間は誰にも目撃されていないようだった。朝礼が始まる直前のタイミングということもあり、全員が教室内にいたことで、人間離れした動きを見られずに済んだのだ。もしもばれていたら、エロ漫画を読んでいるのを見つかった時以上に、言い訳に苦しむことだろう。

 

 ほっと胸をなでおろし、教室に入る。自席へと向かう途中に、真堂と目があった。相変わらずの敵意が、その目には浮かんでいる。正体がばれてからというもの、教室でも生きた心地がしない。

 

 ふと、今朝のノクターンロゼ本部で見た、あの少年ヒーローの姿を思い出した。

 

 快楽と苦痛の板挟みに合い、その後エネルギーを吸いつくされ、ミイラのようになってしまった少年。ノクターンロゼは少年ヒーローをエサとして狙っている。つまり、真堂もその対象である。

 

 あの少年ヒーローのように、真堂が下半身にチューブを繋がれてもだえる姿を想像した。見たいような、見たくないような。

 

 私は授業が始まると、ノートの端っこに想像のイラストを描いた。真堂の横顔をチラチラと観察しながら、頬を紅潮させて白目を剥く真堂を、数年かけて上達した画力をもってノートの上に描き出す。普通に数学の授業を受けるよりも、有意義な一時間になったと、授業終了のチャイムを聞きながら思った。



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