海からの使者
夏休みは時間の流れが早い。カレンダーは既に8月。まだまだ先は長いと思っていたが、早くも折り返し地点に来ていた。
机の上には課題が山と積まれている。本来であれば7月中に終わらせる予定だったのだが、まだ一切手が付けられていない。その原因は私の怠慢ではなく…。
「海に行くわよ!とっとと水着準備しなさい」
今日もクロエルが窓から入ってきた。夏休みになってから毎日こうだ。ノクターン・ロゼの幹部になれるように修行をつけてくれるのはありがたいのだが、こうも連日となると体がもたない。
「海ですかあ…?」
「もっと楽しそうにしなさいよ。せっかく連れていってあげるって言ってるんだから」
「海ではしゃいでいいのは私みたいなのじゃなくて、もっとキラキラした若者だけですよ」
そもそも私は海に入るのが嫌いだ。今年の夏、恵に海でバーベキューをしようと誘われたが、適当な理由をつけて断っている。なにが楽しくて暑い中、煙と潮風を浴びながら肉を食べないといけないんだ。それならクーラーの効いた部屋で焼肉を食べるほうが幸せというものである。
「海には行きません。修行なら他でも出来るじゃないですか」
「海じゃないとダメな理由があるの。下にバイクを停めてあるわ。海水浴場までひとっ走りよ」
人目が気になる昼間には、交通機関やバイクなどを利用するのがクロエル流らしい。彼女のバイクはとても悪趣味で、平成初期の暴走族のようなデザインだ。ビビッドカラーの紫を基調としており、キーには小さいドクロのキーホルダーがぶら下がっている。
嫌がる私を無理やり後ろに座らせて、自分の腰を掴むように言うと、クロエルは爆音とともに海へ向かって走り出した。
朝早い時間帯にも関わらず、海には多くの先客がいた。その多くは学生の集団や、家族連れである。ボンテージの女と女子中学生の組み合わせは、見渡す限り私たちだけのようだ。
「やっぱ帰りましょうよ。私たち明らかに浮いてますって」
「まあまあそう言わずに。海に来たのはちゃんとワケがあるんだから。ここでしか出来ない修行があるのよ」
クロエルが指をパチンと鳴らすと、彼女の服装がボンテージから一瞬で露出度の高いビキニへと早変わりした。ずいぶんとグラマラスな体形をお持ちのようで。
「さあて、ターゲットはどれにしようかしら」
豊満な乳房をわざとらしく揺らしながら、値踏みをするような目で海水浴客の間を練り歩く。その後ろをTシャツとショートパンツ姿の私がひょこひょこと付いていく。周りから見れば、謎の関係の2人にしか見えないだろう。まさか悪の組織の師弟だとは思うまい。
「あの子にしましょう!」
クロエルが指さす先には、大学生らしきカップルがいた。
「一体なにをするつもりなんですか」
「まあ見てなさい。梓ちゃんの好きな、アレよ」
「アレ…?」
私の好きなアレとは一体なんだ。
クロエルは学生カップルの男性のほうに後ろから近づいたかと思うと、突然男に抱きついた。
「えっ、なに!?誰?」
バレーボールほどある大きさの胸を背中に押し付けられた男は、狼狽しながらも少し顔を赤らめている。クロエルがさらに体を密着させると、男の抵抗がみるみる弱くなっていく。あれは魔法の力を使っているのではない。単に男性が本能に忠実なだけなのだろう。
しかしもちろんカップルの女性が黙っているはずもなかった。
「まーくんから離れてよ!人の彼氏に手を出す気!?」
クロエルと男を引き離そうとするが、女性の細い腕ではまるで歯が立たなない。クロエルが男の顎をつまんで自分のほうへ向かせて、キスを迫るような構図になった。後ろから足を絡ませて、ふくらはぎを男の股間あたりに密着させる。男のほうがまんざらでもない顔をしており、それが女の怒りのボルテージをさらに上げた。
「知らない女に抱きつかれて喜ぶなんて最低!もういい別れる!」
これが街中での喧嘩話なら、タクシーなり電車なりですぐにその場を離れることが出来ただろう。だがここは海で、おまけに水着だ。別れると言ったはいいものの、行き場を失った女はひとまず海の方へと駆け出していった。
「まあ待ちなって。からかって悪かったわ、お嬢さん。彼氏さんは私よりもあなたの体がいいってさ」
「嘘。さっきからあんたに胸当てられてヘラヘラしてるじゃん。どうせでっかいのが好きなんでしょ!」
「そんなことないって。証拠を見せてあげるわ」
海面に黒い稲妻が落ちた。晴れ渡った空には不似合いな現象だ。泳ぎを楽しんでいた海水浴客たちはパニックになり、我先にと陸へ逃げ出す。
ちょうど稲妻が落ちたあたりから、吸盤のついた巨大なタコの足が1本、そしてまた1本と次々伸びてきた。そしてそれは合計8本となり、最後に気球ほどの大きさのタコの顔が海面からのぞいてきた。ロケーションは海。ビーチには水着の女性だらけ。そしてぬるぬると蠢くタコの足。
全てがお膳立てされた状況である。私の予想通り、足は先程のカップルの女性をまっすぐに狙った。足に巻き付かれ、女性は身動きが取れなくなる。
「いやっ、なにこれ気持ち悪い!助けてまーくん!」
数秒前に別れを切り出しておいて、ピンチになれば彼氏に助けを求めるとは、なんと虫の良い女性だろう。まーくんと呼ばれた当の本人は、あまりに非現実的な光景を眼の前にして完全にフリーズ。彼女を助けに行くことは到底叶いそうにない。
「こういうのが見たかったんでしょ?ほらまーくん。思う存分堪能しなさい」
クロエルがタコの動きを操っているらしい。吸盤が女性のビキニに張り付き、情け容赦なくそれを剥ぎ取った。ああ、なんと哀れな。これ以上の辱めなど果たして存在するのだろうか。見てはいけないと思いつつも、私は恥部をさらけ出された女性を凝視せずにはいられなかった。これがアニメなら謎の光による規制が入るところだが、これは現実だ。自然光は味方してくれない。
「ほうら、まーくんも喜んでるわよ」クロエルがまーくんの股下に手を入れてまさぐる。
「やっぱり彼が求めてるのはあなたの体なのよ。お似合いのカップルじゃない?」
「早く降ろしてぇ!」
一生分の恥辱を味合わされている女性にする質問ではないだろう。これが悪の所業というやつか。
周りの海水浴客に混じってドン引きしていた私に、クロエルは言う。
「梓ちゃんが好きなのってこういうのでしょ?ぬるぬるでねばねばで…」
「変な誤解を生むようなこと言わないでください!私は別にそういうんじゃ…」
「触手に興奮してたじゃないの。まだ触手を生み出すには力が足りないけど、こうやって自然のものを利用すれば、梓ちゃんにだって作り出せるわ。凌辱に特化した悪夢のモンスターをね」
どうやらあれは、クロエルの魔法によって巨大化しただけで元は普通のタコだったらしい。平和に海の中で暮らしていたのに、いきなり竿役にされてしまってさぞかし気の毒だ。
その日のSNSは巨大タコ暴走の話題で埋め尽くされた。しかしテレビのニュースでは一切それに触れていなかった。それはそうだろう。世界中から専門家を集めようとも、誰一人としてあの現象を説明出来る人はいない。
私はタコの話題で持ちきりのSNS画面をクロエルに見せつける。
「すっごい話題になってますけど…。これってノクターン・ロゼとしては大丈夫なんですか?」
「悪の組織は目立ってなんぼよ。けどなかなかヒーローが現れないわね。里帰りでもしてるのかしら?」




