ヒーローの正体
今日はアラームが鳴るよりも前に目が覚めた。機械音で無理に起こされるよりも気分がいい。カーテンを開けて朝の陽ざしを浴び、ベッドからのそのそと這い出る。
洗顔をしに洗面所に行き、鏡の前で自分の姿を見ると、片腕の溶けたパジャマが目に入った。やはりあれは夢ではなかったのだ。私は対少年ヒーロー特化型悪の組織、ノクターン・ロゼの一員にスカウトされたのだった。
親に見られる前にパジャマから制服に着替えて、リビングへ降りていく。既に朝ごはんの用意がされており、焼きたてのトーストとスクランブルエッグが皿に乗せられている。コーヒーは小学生の頃からブラック派だ。周りからは恰好をつけていると揶揄されたこともあるが、甘ったるいカフェオレなど飲めたものではない。
パンを一口齧り、ブラックコーヒーをすする。私はノクターン・ロゼの下っ端。その事実に心がかき乱されているのを親にばれないよう、平常心を装うことに集中した。幸いにして何も疑われることはなく、いつもの時間に家を出ることに成功。どうか何も妙なことが起こりませんように。
教室へ向かって廊下を歩いていると、恵が後ろから追いついてきた。
「おはよう梓。昨日はなんだか大変だったねえ」
本当に大変だったのはその後のことなのだが、ここは話を合わせるとしよう。
「まさかアトラクションで襲われるなんて思わなかった。でも助けてくれてよかったよね。あのヒーローが」
「あのヒーローさん、2回も梓をピンチから救ってくれたんだよ。これはもう運命なのでは?」
「人を助けるのがヒーローの仕事でしょ。あの人は任務を遂行してるだけだって」
朝のホームルーム開始まであと5分。私は着席して、斜め右の席に座る真堂の背中を見つめた。
やっぱり似てるんだよな。あのヒーローと。
先週真堂と話した時のリアクションも少し気になる。実験を手伝ってくれたお礼を言いに行ったとき、何か別の話と勘違いしているような素振りを見せていた。
チャイムが鳴り、担任が起立、と号令を出した。生徒たちが各々のペースで立ち上がる。その時に私は気付いた。真堂が腰を上げた際、尻を擦っている。それもひりつく痛みを和らげるように、柔らかい手つきで。
私の脳裏に、クレオパトラに尻を鞭で打たれて苦しむヒーローの姿がよぎった。恵のスマホで映像にも記録したあのシーンだ。一度はデータをクロエルに消されたが、ノクターン・ロゼへの加入に同意したことで、約束通りに映像は復元された。登校中の信号待ちでも一度再生してきた。
もしかして、ヒーローの正体って真堂君…?
着席、と号令がかかったにも関わらず、私だけが呆けたように立ち尽くしていた。
真堂の正体が例の少年ヒーローであるという疑いを持ったまま、夏休みに突入してしまった。だって本人に直接聞けるわけがない。仮に本当にそうだったとして、私はどんな顔でこれから接すればいいんだ。あなたが尻を叩かれている映像を夜な夜な再生していると白状するのか?
いいやそんな事言えるわけがない。中学生活が終わるまで、この疑念は自分の中に閉まっておくとしよう。
それにしてもクロエルからスカウトされ、ノクターン・ロゼの一員になってから数週間が経ったが、いまだに能力が発現した試しがない。それどころかヒーローと戦う機会すら与えられていない。せっかく悪魔と契約したというのに、触手も出なければ感度10倍の魔法も使えないなんて、これではあまりにもどかしい。
そんな私の悶々とした気持ちに吸い寄せられてか、自室で例の映像をスロー再生していたところへ、クロエルが舞い降りてきた。窓は施錠したはずだが、ノクターン・ロゼに人間のセキュリティ技術は通用しないらしい。
「なあにその顔。早くヒーローと戦いたいって感じね」
「全然ヒーロー現れてくれないじゃないですか。聞いてた話と違います。早く戦果を挙げて幹部に昇進したいのに、これじゃいつまで経っても未経験のヒラのままですよ」
「あのねえ、梓ちゃん。あなた根本的なことを忘れてるわよ。どうしてヒーローは戦うのか考えてみて」
「そりゃあ悪を成敗するため…ですよね?」
「その通りよ。でも成敗すべき悪も勝手に湧いてくるわけじゃない。私たちが悪そのものなのよ。だったらこっちが動かないと、向こうも暇しちゃうじゃない?」
言われてみればその通りだ。待てど暮らせどヒーローが現れないのは平和の証ではないか。
「じゃあ私が暴れればいいんですね!」
「でも梓ちゃん、悪いことのやり方もまだ分からないでしょ。だから私がレクチャーしてあげる」
クロエルは私の腕を強引に掴み、窓から部屋の外へと引っ張り出した。
「死ぬ!ここ2階!」
目を閉じてクロエルに空中で抱き着く。それから5秒、10秒経っても何の衝撃も訪れないので、恐る恐る目を開けてみると、私は家の庭に尻もちをつく形で降ろされていた。
「私が飛べないとでも思ってた?」
クロエルの背中には、ボンテージとは対照的な真っ白の翼が生えていた。
「も、もしかして私にもそれ生えるんですか!」
「修行すればいつかね」
「やります!師匠!やらせてください!」
少年の首根っこを掴み、大空を舞う私を想像する。手を離せば少年はアスファルトに真っ逆さま。落とさないで、と涙目で懇願するのを、飛びながら見つめるのはさぞかし楽しいことだろう。




