癒えない傷
普段ならアラームが鳴る前に目が覚めるのだが、今朝のななみはまだ夢の中だった。
午前6時ちょうど。久しぶりに、耳障りなアラームに起こされた。冬だというのに、シーツには汗がびっしょりと滲んでいる。よほど悪い夢を見たらしい。夢というのはたいていの場合、起きた瞬間は覚えていても、すぐに忘却してしまうものだ。幸いなことに、ななみが今日見た悪夢も、早くも記憶から薄れ始めていた。
抱き枕には深いシワが寄っている。力強くななみが掴んでいたせいだろう。人は追い詰められた時に、藁にも縋りたくなるというが、藁ではあまりに心もとない。せめて抱き枕くらいの強度がないと。
家を出て駅に向かう途中も、まだ頭がぼんやりとしていた。それもそのはず、魔法少女として初めての敗北を喫し、そのうえ女としての尊厳を踏みにじられたのが昨日の事だ。まさかクロエルに敗北し、完膚なきまでに蹂躙されるとは思いもしなかった。相手にとって有利な状況がお膳立てされていたとはいえ、あそこまで一方的にやられるなんて、クロエルの臓物を引っ搔き回していた時には考えもしなかった。高飛車な女幹部が、立場を逆転されてボコボコにされる展開こそ、ななみが幼少期から夢見ていたものであったが、これでは自分が受けではないか。そんな逆転劇は望んでいない。いや、いなかった。
少なくともクロエルによって尻をむち打ちされている時、ななみの脳と体を支配していたのは、屈辱ではなく快楽だった。認めたくはないが、それは紛れもない事実。自分の中のマゾヒズムが開花する瞬間を、宿敵のクロエルと親友の梓に見られるという、最悪の展開だった。
学校の最寄り駅に向かう電車は、通勤ラッシュの時間帯と重なり、座れることはほとんどない。だが今日は偶然空席を見つけたので、スカートの裾を押さえながら腰を降ろした瞬間…
「いっ…!」尻に激痛が走った。
弾かれた様に立ち上がったななみを、周囲の乗客が不思議そうに眺めている。魔法少女に変身している間は、並の人間より耐久性は高くなる。昨日クロエルにボロボロにされた後、梓が病院に行こうと言ってくれたのを断って、自分の魔法で出来る限りの治癒を施した。それである程度は回復したと思っていたが、局所的に攻撃を受けた臀部は治りが遅い。電車のシートに触れただけで、刺すような痛みが襲ってきた。到底座る気にはなれず、せっかくの空席を近くのサラリーマンに譲り、最寄り駅まで立って過ごした。
「おはよー!マジで今日寒いね。カイロ持ってない?ちょうど切らしちゃっててさあ」
教室の前で、陸上部の朝練を終えた栗栖とばったり会った。朝から元気なものである。彼女のテンションが低い日など、まだ一度も見たことがない。
「この前駅で配ってたやつがあるわ。はいあげる」
「さっすがななみ、出来る女は違う!」
栗栖は他人との距離感の詰め方が上手だ。人によってはプライベートゾーンにずけずけと入ってこられることを嫌うだろうが、親しみを込めた彼女の接し方には不快感がない。ななみも栗栖には心を許していた。しかし一つだけ気になることといえば、距離が近すぎるがゆえにボディタッチが過剰なこと。その日の気分によって、頭だったり背中だったりを、結構な勢いで叩いてくる。体育会系の嫌なところだ。
最悪なことに、この日の栗栖はななみの尻を、バシンと叩いてきた。普段ならコミュニケーションの一つとして受け流すところだ。しかし今日ばかりはそうもいかない。
「うぎゃあ!」
「えっ、ちょっと大丈夫?ごめん、痛かった?」
「痛いわボケ!」
思わず語気が荒くなる。自然体の関西弁を使いながらも、お淑やかなキャラでやっているつもりだったが、咄嗟に出る言葉は荒っぽい。
関東育ちの栗栖からすれば、聞きなれない罵倒の言葉だったのだろう。一瞬なにを言われたか分からないという顔になったのち、怒られたのだと理解して、しゅんとした。
慌ててななみは笑顔を取り繕う。
「違う違う、怒ってへんよ。今ちょっとこの辺怪我しててな。あんまり触らんといてほしいねん」
捨てられた子犬のように縮こまっていた栗栖の顔が、ぱっと明るくなった。
「なあんだ、そうだったんだ。思い切り叩いてごめんね!…でも、どうやったらお尻なんて怪我するの?」
「聞かんといて」
仮に正直に答えたとして、栗栖が納得するわけがない。実は正体が魔法少女で、敵の女にむち打ちされた、などと言って、誰がはいそうですかとなるのだろうか。
授業開始のチャイムが鳴り、席に座る。出来るだけ患部へのダメージを抑えられるように、ゆっくり、ゆっくりと腰を下ろした。それでもやっぱり痛かった。




