火事場の馬鹿力
「はは…、えらいアホみたいな面やなあ。この歯抜け…」
薄れゆく意思の中で、思いつく限りの悪態をついてやろうとしたが、最後まで言わせてもらえなかった。クロエルは口元を手で隠しながら、ななみの頭をヒールで踏みつけた。正面から顔がライブハウスの床にめり込み、もう声も出せなくなる。
「よく喋る子ね。ようやく大人しくなったかしら。梓ちゃんもいつまで騒いでるの。指くらいまたすぐに生えてくるんだから、いちいち大げさに喚かないで」
「痛いっていうか、悲しい。せっかく可愛いネイルしてもらったのに」
梓は落ちた指を拾い上げた。
「ネイルなんて今までしてたっけ?」
「橘さんと出かけるってなって、さすがにオシャレもせずに横を歩くのは憚られたんですよ。服も新しく買ったし、ネイルもしてみようかなって」
「まるでデートね。それにしてもよくやってくれたわ。予定通りここに誘い出してくれたおかげで、こうして因縁の魔法少女を倒すことが出来たんだから」
床にめり込んだまま動かないななみの頭を、クロエルが子供をあやすようにぽんぽんと叩いた。
「し、死んでないですよね?今回は2人の決着をつけてリベンジを果たしたいって話だでしたけど、橘さんの安全は保障するって。あくまで因縁を晴らすだけだって、そういう約束だったから協力したんですけど」
「死んでないわよ。多分」
クロエルがななみの髪を掴んで引っ張り上げ、仰向けにした。
視界はまるで水の中にいるみたいに、はっきりしない。ななみを心配そうに覗き込んでいる梓の顔が、かろうじて認識できるくらいだ。
「橘さん、大丈夫?大丈夫そうではないけど、生きてる?生きてたら返事して」
生きてるので返事をしようとしたが、力なく開いた口からは声が出ない。このまま意識を完全に失えば、死ぬ。命の危機に直面したのは初めてなのに、ななみはそう直感した。
「さー、撤収撤収。あれ、ベノムは?」
一仕事終えたとばかりに、伸びをしてリラックスしていたクロエルが、ステージを見まわして首を傾げた。ロックンロールと叫んでいたベノムの姿が消えている。
いや、消えたのではない。生きている人間であれば感じるはずの気配や息遣いが、ゾンビとなったベノムからは感じない。ゆえにクロエルは気付かなかった。ベノムが音もなく、梓の背後に移動していたことに。
「ロックンロール!」
ベノムがギターを梓めがけて振り下ろした。
「え…?」
ななみを肩を揺さぶっていた梓が振り向いた時には、もうギターが顔の前まで迫っていた。
「危ない!」
火事場の馬鹿力とはよく言うが、ななみは自分がそれを発揮する日が来るとは思っていなかった。気絶寸前の状態から脳が覚醒し、放出されたアドレナリンが全身を駆け巡る。まるで痛みも感じない。ななみは跳ね起きて、梓とベノムの前に立ちふさがって、自らの体を盾にした。
ギターは楽器だが、凶器にもなると知った。それだけ全力で振りかぶったギターによる打撃は強烈で、背中でそれをもろに受けたななみは、再び膝から崩れ落ちた。
「だ、大丈夫?いやもうどう見ても大丈夫じゃない!クロエルさん、こいつ止めて!」
床に膝をつき、四つん這いの姿勢になったななみ。まだアドレナリンの放出は止まっていないようで、足腰の感覚はないが、痛くて立てないということもなさそうだ。だがいくら痛覚が麻痺していようとも、体は限界を迎えているらしい。どうにも四つん這いの状態から動けなくなっている。
「ベノム、あんたの出番は終わりよ」
クロエルがベノムからギターを取り上げた。おもちゃを取られた子供のように喚き、ベノムはクロエルに向かって両手を伸ばしている。意味のない声ばかり発しているが、返せとでも言っているつもりだろうか。
クロエルがベノムの首を絞めて、気絶させた。
「まだ動けるとは、しぶといわね。さすが魔法少女。じゃあ、第2ラウンドいきましょうか?」




