第4話 すごいな、ニホン(真顔)
幸いにもというべきか、彼の靴の底は綺麗だったらしい。
少なくとも床に足跡が付いているような事はなかった。
なら掃除するにしても後でいいよね、と思い、板間のリビングの椅子を勧めて、とりあえず座って脱いでもらう。
ついさっきまで瞼も上がらないくらいの眠気だったのに、あんなに至近距離で芸術品とも言えるような顔を見ちゃったら、目なんてパッチリと覚めてしまった。
「起こされ方の中では、かなりいい方か」
最初こそ「何、突然……」と思ったけど、眼福で目が冴えるなんてむしろ幸運かもしれない。
――黒髪赤目の麗人って、かなり硬派でクールな感じになるんだなぁ。
チラリと彼の顔を盗み見ながら、そんな感想を抱いた。
美形の顔は飽きるというけど、ここまでの美形は少なくとも私の近くにはおらず、今のところその片鱗は感じない。
多分、見ていようと思えばいつまでも見れる。
それこそ芸術作品とかみたいに。
でも、ジロジロ見られるのが嫌いな人もいるだろう。
そもそも初対面の人を相手に、あまりジロジロと見る事自体、少し失礼寄りである。
テーブルを挟んだ彼の向かい側に、私は腰を掛けていた。
ここにずっと座っていると、こんな事を思いながらも結局バレるまでジッと見てしまうような気がする。
――とりあえず、コーヒーでも淹れようかな。
そう思い立ち、席を立って壁際の食器置き場に向かう。
私が元々持っていたものだけではなく、祖父母が持っていた食器の中でも可愛い奴や好みのやつは、整理した時に売ったり捨てたりするのを止めた。
そういうのが結構な数並んでいるので、食器は毎日選び放題である。
どのカップにしようかなぁ。
そんなふうに思いながら棚を見ていると、ふいに後ろから声をかけられた。
「それで、ここはどこで君は誰だ」
「いや、後者はこっちのセリフだけど」
私のテリトリー、もとい家に入ってきておいて「君は誰だ」はないでしょう。
思わずそうツッコミを入れた後で、「初対面相手に今のはちょっと失礼だったか……?」と彼の様子をチラリと伺い見る。
牙なんてあるから勝手にワイルドでちょっと傲慢なところもありそうかと思っていたけど、意外とそんな事はなかったらしい。
彼は顎に手を当て、真顔で頷き「たしかに、それもそうだな」と小さく漏らした。
そしてまっすぐこちらに顔を向けてくる。
「俺は、プラナール王国第二騎士団所属、ウェイン・シルバード。――そして、吸血鬼だ」
「私は、幸野 ゆかり。出身は、ここ。日本人」
「にほ……?」
「貴方側から言うと、異世界人かな」
“日本”はよく分からなくても、どうやら“異世界人”で分かってくれたらしい。
「あぁ、上層部が最近盛んにやってる儀式の」
彼はそんな納得を見せた。
私は片を軽くすくめながら応じる。
「さっき正にそれに呼ばれて、行って、『要らぬ』って言われて帰ってきて、今は昼寝してたところよ」
「帰ってきた、という事は、ここはお前の家なのか。異世界の」
「そうだけど、とりあえず『お前』って言うの止めてくれない? 何かちょっと偉そう」
男尊女卑なのか、誰にでもそうなのか、それとも王族がいる異世界なら貴族とかの尊い生まれである事が態度として染み付いてしまっているのか。
私が気にしすぎなのかもしれないけど、初対面の人相手に言うには少し『お前』は音の響きが強い気がして、今のうちに釘を刺しておく。
どうやら他意はなかったらしい。
彼は素直に「すまん」と謝って、言い直してくれる。
「ここはゆかりの家で、異世界なのか」
「そうよ。まぁ、私にとってはあっち側が異世界だったけど」
いきなり名前呼びされた事に、ほんの少しだけ驚いた。
社会人になってからは殆どが苗字呼びだったから名前呼びなんて学生の時以来だけど、大人になると作ろうと思っても友達なんて作れない。
「そうか、たしかにな。じゃあ、『ゆかりの世界』か」
「何かそれじゃあ、私が作った世界みたいに聞こえない? こっち側は『日本』、そっち側は……何だっけ」
「プラナール王国」
「そうだ、プラナール。そう呼ぶ事にしよう」
そんな事を言いながら、二人分のカップを選んでキッチンに戻ってきて、今度は二十もある種類の中から、どれを淹れようか「えーっと」と選ぶ。
「で、さっきの質問に答えると、この家は日本。で、貴方がさっき通ってきたその納戸の外はプラナール」
「異世界っていうのは、こんな近い場所にあったのか」
「実際はどうだろうね、スキルで繋いだから」
「スキルで?」
「うん。『収納』スキル」
「しゅう、のう……?」
あれ、ものすごい怪訝な目で見られてしまった。
「あのスキルは、物を仕舞ったり出したりするだけのスキルの筈だが」
「でもできたよ? 元々収納スキルって、別次元に空間を作って物をそこに保管する原理なんじゃないかなぁ。別の空間にアクセスできるなら、それが日本だっていいわけで」
「ゆかりは、スキル研究の第一人者か何かなのか」
「え」
思いもよらない事を言われ、思わずキョトンとしてしまう。
どうやらそんな私の反応を見て「違いそうだ」と思ったらしい。
「だったら思考が柔軟なのか、それともニホン人のスキルはできる事の幅が広いのか」
独り言のようにそう呟いた。
そんな淡々と表情少なに納得されると、なんだか私が『収納』スキルの活用法を新しく編み出したみたいに思われていそうで、座りが悪い。
「私が『収納』スキルから空間云々って考えたのは、小説や漫画、アニメ――日本に流通している娯楽にある発想まんまっていうか。思いついたのは私じゃないよ? 結構誰でも知ってるし」
「娯楽から得た知識? 誰でも知ってる? ……すごいな、ニホン」
真顔で何だかスケールのデカい称賛をくれたものだから、思わず可笑しくて笑ってしまった。
まぁでも私個人が別にすごくないのに「すごい」と思われるよりは、日本全体を巻き込んで「すごい」と思われた方が私の気は楽である。
さて、淹れるコーヒーも選んだし、後はコーヒーメーカーに水を入れて、選んだカプセルを入れて、スイッチオン。
駆動音と共に、コーヒーメーカーが動き出した。
「……ん? それは何だ」
すかさずウェインが聞いてくる。
「ん? コーヒーを淹れる機械」
「キカイ?」
首を傾げた彼の様子を見るに、どうやらプラナールには機械は存在しないらしい。
まぁ、人は自分が楽をするために発明をし、発展を遂げてきたって言うしね。
スキルがある世界なら、発明なんてしなくてもスキルで済ませられちゃうのかも。
なんとなくそんな事を考えながら、私はカップをコーヒーの出口の下に置く。
「コーヒーは、マメを砕いて紙の上に乗せ、その上から回すようにお湯を注いで淹れるものだろう。こんなよく分からない物体で、一体何ができると――」
どうやらコーヒーを飲む習慣はあるらしい。
疑いの眼差しでコーヒーメーカーを見ている彼の話を聞きながら、そんな情報を拾ったところで、何故か彼の言葉が切れてしまった。
静かになった室内に、出来上がったコーヒーがショボショボと注がれていく音だけが響く。
苦みのある香ばしい香りが鼻孔を掠め、半ば反射的にホッとする。
落ち着く香りだ。
肩の力が抜けるというか、深呼吸ができるというか。
私にとってコーヒーは休憩時間の象徴のようなものだから、もしかしたらこんなふうに思うだけなのかもしれないけど。
先程から静かになってしまっているウェインを、チラリと横目で盗み見た。
仕事をしているコーヒーメーカーを、彼はまっすぐに見つめていて――。
「何だこの芳醇な香りは!」
突然声を上げたものだから、思わずビクッとなってしまった。
だってそうでしょう?
さっきまで、結構淡々とした感じだった。
それこそ感情が動いたのなんて、勘違いで私を抱き上げたあの時くらいだったのではないだろうか。
でもあれは、少なくとも彼は人命がかかっている事態だと勘違いしていた訳で。
もっと言えば、そのくらいにならないと感情を露わにしない大人なリアクションをする人だと思っていた。
それが、どうだろう。
ガタリと席を立ちあがった彼は、ズンズンとこちら――より厳密に言うならコーヒーメーカー目掛けてまっすぐに早足で詰めてきて。
「え、どうなってんだコレ。……え?」
メーカーを、あらゆる角度から覗き込み、観察し始めている。
彼の赤い目がキラキラと輝いていた。
先程までの大人の男性的な落ち着きはどこへやら、今はまるで少年のようだ。
子どもが新しいおもちゃを貰った時とか、何かに興味津々な時のワクワクが目の輝きに如実に出ている。