第41話 キャンバスにいるのはハリボテの自分
スズメのさえずりが聞こえてくる。
うつ伏せになって寝ていた颯真は、むっくりと体を起こした。ごみ袋が乱雑に散らかっている。飲み残しの空き缶に、カップ麺のつゆが入ったままテーブルに置かれている。窓から差し込む太陽の光でホコリが舞い上がるのが見えた。
白いTシャツに、グレーのスエットを履いている。地獄の審判の間で閻魔大王と天照大御神の戦いを間近で見ていたはずが、現代の自宅に戻ってきていた。いつも通りの風景にホッと胸をなでおろす。ベランダの窓を開けると、交差点でクラクションの音が響いていた。街中は相変わらず、人混みでごった返している。空にはまだら模様の雲が広がっている。平和な景色だ。このままの日常で過ごせたらどんなに幸せかとため息をつく。
ガチャリと玄関の開く音がした。
両手にたくさんの食材が入ったビニール袋を持った颯真の母親の中島 碧郁だ。オレンジ色のポロシャツに下は黒のジャージでしっかりとした身なりをしていた。
「ただいまぁ。あれー、颯真。帰ってたの? バイトは間に合うの? お母さんね。今、早番で終わって帰ってきたのよ。今日は奮発して鍋でも作ろうかなって思っていたんだ。お給料日だし、少しくらい贅沢したって良いわよね!」
楽しそうにビニール袋から、入った野菜や肉の食材を次々に冷蔵庫に入れていく。颯真は自分の目を疑った。あんなに仕事をするのが嫌、人間関係にほとほと疲れたとぼやいていた母親の姿には到底見えなかった。キッチンに向かい、綺麗に手を洗うと大きな鍋を戸棚から取り出した。
「鍋って言っても土鍋じゃなくて普通の鍋なんだけどね。まぁ、美味しければなんでもいいわね。颯真、とんこつ味好きだよね。これ、鍋の素買ってみたからさぁ」
にこにことそれは楽しそうに作る母親の姿がなぜかイラっとしてきた。今までどんだけ苦労してこっちが食材を買って作ったり、家事全般をやってきたか、バイトだって掛け持ちして高校も時々休まざる得ないことだってあった。どうして、元気にご飯を作れているんだろうと胸が苦しくなる。涙が出そうになった。
「……ねぇ。颯真。私ね、今度お見合いすることにしたんだ。やっぱりさ、お父さんいないのって寂しいじゃない。お見合いって言っても、相手は職場の人でさ。デートするんだけど……もしかしたら、あんたのお父さんになるかもしれないよぉ。そしたらさ、ここの生活も楽になるよねぇ。やっぱり、私一人では颯真を大学に通わせられないからさ。経済的にも楽になれると思うんだよね」
聞いているうちに颯真が生きていた時とはまるで別人の誰かが話しているのではないかと思い始めてきた。怒りがこみあげてきたが、空気が抜けたように静まった。自分のために必死で未来を改善しようとする母親の姿を見て、絶望から救われたような気がした。もう、涙を隠しきれなかった。
「か、母さん……よかったね。その人、どんな人なの?」
「あ、あんた。絶対今の顔と言ってること間違ってると思うよ。なんで泣きながら言ってるのよ」
心と体のバランスが不安定だった。きっと、今までの闇の仕事をしていたせいなのか、悪を正義と勘違いして過ごし、母親はずっと病んでいるものだと決めつけていた。自分が必死でこの状況を維持させていかなければならない意識が強かったんだと思えた。闇のような空間を作りだしていたのは自分自身だったかもしれない。
「……うん。ちょっとね。目にゴミが入ったかもしれないな」
「全く、仕方ないわね。最近、お母さんも目がかゆくて薬局で目薬買ってたよ。確か封を開けてないのもあったわね。使う?」
「う、うん」
何かをしてもらうのが違和感を覚えるくらいだ。いつも颯真が母の碧郁にしてあげることが多かった。不自然なくらいだ。
「ほら、これ。職場の人にもすすめられたの。かゆみに効くんだって」
「へぇ……母さん。仕事って何の仕事だっけ?」
「はぁ?! 何言ってるの。昔からずっと同じところよ。今更、聞くって颯真はどれだけ私に興味ないの?」
「え?」
「だから、あんたが生まれて一年後から今までずっと同じ職場。そりゃぁ、嫌なこといっぱいあるけど、福利厚生もしっかりしてるし、辞められないわよ。体力的に大変な年になってきたけどね」
「へぇ、そう……」
話の流れで何の仕事か聞けずにいたが、本棚の上に並べられている写真立てを覗く。地獄の審判の間に行く前には無かった15年勤続を祝う花束と賞状を持った母が笑顔で映っていた。ここは、違う世界の現代なのかと理解する。次元のゆがみに交じり、颯真は別なパラレルワールドに移動した。
鬱病で苦しむ母の中島 碧郁はどこにもいない。パワフルに仕事をこなし、手抜き家事をしながらも親子で炊事などの家事をこなしながら、毎日を過ごしている。颯真はバイトと高校生活を両立しながら、好きな部活にも参加していた。バスケに奮闘する写真が飾られている。
ここにいる自分は、社会にも家族にも恨みを持たない。平和な世界にいる。病むことなんて考えていない。そんな自分であることが信じられなくなった。
「なぁ、母さん。俺って、学校でどんな感じなのかな」
「な、何を急に。さっきから変なこと聞くわね。みんなと楽しくやっているって自分で何度も言ってるじゃない。母さんも羨ましいくらいだわ」
コップに麦茶を注ぎながら母が常に、にこやかだった。それでも颯真は過去を思い出す。苦しくて辛い。八方塞がりだった現実を。持っていたコップを倒して、お茶をぶちまけた。声が震える。顔を手で覆う。ガラスが割れたように世界が歪んだ。
「……俺は!! こんな生活をしていない!!」
「颯真? どうしたの?」
母の声がスローモーションで男性のように低くなる。声が遠くなる。自分の声が出ない。不幸を望みたいわけじゃない。天井に体が吸い込まれていった。異次元空間に浮かぶ自分の姿があった。空間がぐねぐねと歪む。キーンと高音が耳に響き渡る。
歪んだ顔が白いキャンバスにべったりと張り付けられた。
体を動かすことができなくなる。




