第五話 光の彼方
裂け目の向こう側。
空気はひんやりと冷たく、灰色の靄が薄く漂っている。
タナは慎重に足を踏み出す。地面は硬く滑らかで、まるで磨かれた黒い石のようだった。
一歩進むごとに、空気の密度が変わる気がした。
耳鳴りのような低い音が、時折、地の底から響いてくる。
「ルト……ここは、どこなの?」
声はかすかに震えていた。返事は、ない。
ただ、靄の向こうでかすかに揺らめく影――見覚えのある細身の人影が、彼女の足を止めた。
「……ルト?」
そこにいたのは、間違いなく彼だった。
痩せ細った体、風に揺れる長めの前髪、そして――首元には滲んだ五本の線。炭で描かれた、いつものあれだ。
でも、彼はいつもより遠くを見ている気がした。焦点が合っていない。どこか――記憶の底を眺めているような目。
「ここは……たぶん、輪廻の外側だ」
その言葉に、タナは小さく息を呑んだ。
「……なに、それ。なんで……そんなこと、知ってるの?」
ルトはしばらく答えなかった。
けれど、口元が少しだけ動いた。
「……わからない。けど……知ってる気がするんだ」
それは確信ではなく、断片だった。
まるで、自分がかつてここにいたような――あるいは、ここから“見ていた”ような感覚。ルト自身も戸惑っているのがわかった。
タナは思わず、一歩後ずさった。
この感覚が怖かった。
彼が“知らない誰か”に見えてしまうことが。
(どうして……そんな顔をするの? 私が知らないルトみたい)
目の前にいるのは、たったひとりの友達――のはずなのに。
けれど、ルトの背後には靄に沈んだ巨大な柱、崩れかけた神殿のような建造物が広がっていた。
まるで彼が“そこから来た者”であるかのように、馴染んでいた。
「ごめん……」
タナは小さくつぶやいた。
この場所に来てしまったことも、彼を一度置いてきたことも、説明のつかない不安に対しても。
「私たち、何か大きなものに巻き込まれてる……そんな気がする」
彼女の声に、ルトは答えず、ただ目を伏せた。
代わりに、彼の首元の線が風に揺れて滲んだ。
それは――自分で描いた偽物。
けれど、そこにしか“居場所”を作れなかった少年の、せいいっぱいの輪郭だった。