[※]◯月星暦一五四三年四月〈バッドエンド〉★☆
【ネタバレを含みます。第六章読了後にお読みください。アトラス18歳〜20歳にあったかもしれないバッドエンドです。六章のアウルムの奮闘が失敗場合のIFです。酷い表現を含みます★☆】
これは、幸いにも至らなかったひとつの可能性。
日の目を見ることなく、葬られた道筋のひとつ……。
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月星暦一五三八年夏。内戦終結三年後のことである。
「タビスを聖婚させる」
大神殿を通さず、アセルス王から突然、そんな宣言が下された。
終戦直後にも王が言い出したことだが、戦いの日々に使いすぎた薬の影響で、アトラスには睡眠薬や鎮静剤の類は効かなくなっていたことを理由に、神殿側が必死に拒否してきた。
そして三年の月日が経ち、その話は立ち消えたのだと思われていた。
「アトラスが承諾したのですか?」
「タビスの言葉は女神の言葉だ。我らがタビスは、女神の一番近くで自らが断った数多の生命の為に祈っていくのだろう」
答えになっていない。
また王が、タビスの言葉を都合の良いように解釈して捻じ曲げたことが想像できた。
王を刺激しないように、なるべく王立セレス神殿に立ち入ることは避けていたアウルム王子だったが、今ばかりはそうも言っていられなかった。
王の間を辞したその足で、アウルムは王立セレス神殿に向かった。
大神殿内にある弟の居室では、蒼白になっている大神官リーデル、涙を流すテネルに挟まれて、十八歳になったアトラスが項垂れていた。
「聖婚の意味、解っているのか?」
アウルムは弟の胸ぐらを掴んで問いただした。
解っていると、呟く声は小さい。
「あの人は、私が何もしないことすら恐ろしいらしい⋯⋯」
アウルムはリーデルとテネルを下がらせ、アトラスと二人きりになった。
「何があった?」
アセルスとの会話には、細心の注意を払っていたはずだった。
「失敗しました。あまりに腹が立って、言ってしまったんです。『私のことはなんとでも言えばいい』と」
アトラスは自分のことは、何を言われても流せる。
それを、アセルスはよく解っている。
周りを貶めるようなことを言って、アトラスからその言葉を引き出したのだ。後に続いたであろう「ですが」は故意に無視されたのは想像に難くなかった。
「タビスの言葉で覆せ」
「もう、何を言っても無駄です。この先は、『タビスも女神との婚姻を前に緊張しているのだ』とでも言って、言い伏せられるだけです」
アトラスはもう諦めてしまっていた。アウルムは唇を噛み締める。
「私が三年前、アセルス陛下を討てていれば⋯⋯」
クーデターは失敗し、アウルム自身も警戒されてしまった。
もう、迂闊には動くことは出来なかった。
「あと一歩だったんだ。あと一片、ピースが足らなかった」
「アウルム⋯⋯兄上。あなたが尽力してくださっていたのは知っています」
「アトラス。お前をそんな目にあわせたくはなかった」
アセルスという男は、タビスの使い方をよく熟知していたと言える。
手段を選ばず、タビスが言ったという言質をとり、拡大解釈で都合の良いように事を進めることに関しては天才的だったと言えるだろう。
聖婚——それは、女神との結婚を意味する。
女神の代弁者たるタビスの行動は女神の意思として理解される。
内情を知らない人間は、敬虔なタビスだと称えた。
おめでたいことだと、慶ばれた。
当事者の心中など、知る由もない。
まず、名が返還された。
アトラス・ウル・ボレアデス・アンブルと名乗っていた者は、今後はただ、『タビス』とだけ呼ばれることになる。
それは、王族からの追放も意味していた。
次に、髪が落とされた。
剃髪が俗世からの隔離を意味する宗教もあるが、この国における聖婚には必要の無い過程だった。
術後、暫く入浴出来ない為、衛生面を慮ってという理由だったが、王の意向なのが透けて見えた。
王族でなくなった者が、王家の始祖ネートルと同じ髪を持つのが我慢ならなかったのだろう。
最後に『タビス』は、性別を喪った。
もう、還俗も叶わない。
アセルス王の執拗な悪意に満ちた仕打ちだった。
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月星暦一五四十年。
五年前に終結した内戦には、『終結にはタビスが鍵』という予言があった。
その予言の通り、戦場を血に塗れて戦ったタビスとして生まれた少年は勝利し、長きに渡った内戦は終結に導かれた。
当時、予言をしたのは竜護星の王女——現竜護星国主セルヴァ。
その息子イルベス王子夫妻と、妹のレイナ王女が、アセルス王によって月星に招待された。
イルベス王子は亜麻色の髪に萌葱色の瞳の好青年。妙に人好きのする笑顔が眩しい。二十四歳になるアウルムの、一つ歳下である。
十六歳になる妹のレイナは、大きな海色の瞳に、兄と似た亜麻色の、長い髪を一本に編み込んで片側に垂らしている、可愛らしい女性だった。
王の、『タビス』に対する嫌がらせなのが、アウルムには察せられた。
王は自ら、三人を大神殿への案内すると、大神官に『タビス』を連れてくるように言った。
聖婚済みの『タビス』は、大聖堂内でも滅多に姿を現さない。
そう仕向けた当の本人《王》が呼べと言う理不尽に顔を顰めながらも、大神官は『タビス』を連れてきた。
「紹介しよう。我が国の女神の代弁者たる『タビス』だ。貴殿の母君の予言のお陰で、良い働きをしてくれた戦士だったが、今は女神の元で鎮魂に努めている」
「『タビス』でございます」
抑揚の無い声で挨拶をする『タビス』。
話題の予言が、自身の運命を捻じ曲げたものだと気づいていても、目を伏せたまま表情は変えない。
イルベス王子妃ペルラは、胡散臭げに『タビス』を見詰めた。
キメが細かくなった肌に、線が細くなった体つきは、見る者にどこか中性的な印象を与えた。
剃髪を覆う頭巾が、『タビス』という神職をより特別なものに見せていた。
アウルムとしては、救えなかった弟への罪悪感を抉る証でしかない。
「あなたが『タビス』さま? 戦場を駆けて終結に導いた方だと聞いていたわ。もっと猛々しい方を想像していたけれど、優しそうな方なのね」
屈託のないレイナの眼差しに、見開いた目を『タビス』は慌てて反らした。
「⋯⋯昔の話です」
若干高くなった声で、『タビス』は否定する。
「『タビス』さま。私はレイナ・ヴォレ・アシェレスタと申します。アウルム殿下の婚約者になりました。月星に住むことになりますので、いろいろ教えてくださいましね」
「レイナ殿下。申し訳ありませんが、『タビス』様は女神のもの故、女性の相手は出来ないのです。その際は、別の神官を紹介します」
大神官が間に入って言い繕った。
レイナが驚いた顔をする。
「レイナ殿下。アウルム殿下。竜護星の方々。ご婚約、おめでとうございます。両国の長いお付き合いと繁栄をお祈り致します」
『タビス』は淡々と略式の祝福の礼を捧げると、踵を返した。
その後ろ姿を、ペルラ妃が氷青の瞳でじっと見詰めていた。
「本当にレイナ様を置いていくのですか、イルベス様?」
そっとペルラが夫に尋ねていた。
彼女の懸念は正しい。
ここは魔窟。
アセルスが居る限り変わらない。
アウルムは、力を持ち得ない自分が歯がゆかった。
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その夜、人の気配を感じて『タビス』は目を覚ました。
「ん⋯⋯テネル⋯⋯? じゃ、ない。まさか⋯⋯」
枕元に、覗き込むように見下ろす顔があった。
その人物が誰であるかを見定めた『タビス』は、息を詰めて飛び起きた。
「陛下……」
長年従者であり護衛として仕えていたテネルは、先日配置換えが言い渡されていた。代わりに配属された神官は、王の息のかかった者だったのを『タビス』は思い出す。
「こんな夜更けに、何の御用でしょうか?」
「昼間、竜護星の王女に色目を使っていたな」
「御冗談を。あなたに全てを奪われた私に、今更、何が出来ましょう」
「減らず口を⋯⋯」
腕を掴まれた。
逃げようと足掻いても、容易く取り押さえつけられる。
五年間、籠もりきりでろくに訓練をさせてもらえなかった身体は、面白い程に筋肉が落ちていた。
それさえも、この男によって計算されていたのかと、『タビス』は歯噛みする。
両腕を縛られ、ベッドに固定された。
解こうと抵抗しても、擦れた皮膚から血が滲むだけ。
「何をなさるっ!」
「ふん。その減らない口をきけないようにしてやろうかと思ってな」
「やめてください。これ以上何をっ⋯⋯」
王はかつての英雄を、慰み事の道具とした。
名前を奪い、牙を抜き、過去の栄光に泥を塗り、戦士としての矜持を折り、男としての自尊心を潰し、人間としての尊厳を踏みにじってなお、安心出来ない男による執拗な責め苦。
「殺してくれ」
涙ながらに懇願した『タビス』の心が崩壊するのに、時間は要らなかった。
※ ※ ※ ※ ※
月星暦一五四三年四月。
慶事に沸き立つ月星アンバルを、城の尖塔から一羽の白い大きな鳥が紫水晶の瞳で見下ろしていた。
彼は安堵していた。
この現在に辿り着く迄に、どれほどの数の途切れた道を見定め、回避する為の道筋を示してきたか。
大聖堂で式を挙げたばかりの新郎新婦の名はアトラス・ウル・ボレアデスとレイナ・ヴォレ・アシェレスタ。
月星王の弟であり、タビスであるアトラスと、竜護星国主のレイナの乗る馬車を、城の露台から感無量で見詰めるまなざしがあった。
蜂蜜色の髪に碧い瞳の青年の名はアウルム・ロア・ボレアデス。
巫覡体質の彼が、兄となったこの青年が行動を起こさなければ、アトラスは内戦の終結まで生き延びても、現在には至らなかった。
前王アセルスが君臨する限り、たどり着かなかった現在。
アセルスが引き起こす最悪の事態を打ち砕いた、まさにその現在。
尖塔を飛び立った一羽の白い大きな鳥は、アンバルの空を旋回した。
鳥すらもタビスを祝福している。
見かけた人は、祝い事に結びつけて、嬉しそうに囁いた。
〈バッドエンド〉完




