[※]□月星暦一五四八年〈空色〉【メラン】
□メラン
夏の暑さが、影を潜め始めていた。
見上げた空はどこまでも高く、深く青い。
その空の青は、私の心に深く残る後悔の色である。
かつて私の傍には、この空の色をそのまま映したような青い瞳を持つ少女が二人いた。
一人は仕える主人イディール・ジェイド・ボレアデス——王の娘だった。
私は長年面倒を見てきた彼女を見捨てた。
もう一人はサラ・ファイファー——同僚であり、友人だった。
私は長年共に働いた彼女を見殺しにした。
※※※
十数年前。
私の父は、王に仕える文官だった。
かなりの高官であった父は、通常なら私の様な侍女には知り得ない情報をもたらしてくれた。
『そろそろです。準備をしておきなさい』
城の廊下ですれ違う時、渡されたメモにはそう書かれていた。
やはりと思った。
先日、王の甥、仕える王女の従兄弟が亡くなった。
その父親である王の弟も亡くなったばかりだった。
それにより、唯一の王位継承権を持つのが、私の仕えるイディール王女だけになった。
人当たりは良くとも、甘ったれで何もできない世間知らずの彼女に、女王など務まるはずがなかった。
万が一の時は、私はその王女に付き添い、一緒に神殿に入る手筈になっていた。
王が討たれ、『万が一』が現実となった時。
当初の予定通り城を共に出たものの、混乱の中で馬車に乗れなかったことをいいことに、私はその場から逃げ出した。
状況は混乱を極めていた。
ここで私が離脱しても、誰にも咎められまい。
私に仕えよと命じた王は死んだ。
もう、この無力な王女の面倒を私が見る必要がどこにある?
私はもう充分尽くした。
そう思ったのだ。
——魔がさした。
「次の馬車を拾います」
そう告げたくせに、王女がどこに連れて行かれるのかを知ったくせに、私は別の方向へと足を踏み出した。
あの後、王女はどうなったのか。
ずっと棘のように引っかかってはいたが、私は確認することからも逃げていた。
※※※
私はその日、リメールの軽食屋で遅めの昼食を摂っていた。
その女性は木箱を抱えて入ってきた。
やけに姿勢がいいと思った。
何かが引っかかったが、さして気にすることもなく私は食事を続けた。
「おや。ハルスの奥さん、こんにちは」
店の女将が女性に声をかけた。
「女将さん、こんにちは。どんな感じ?」
女将に応じる女性の声を聞いて、どくんと心臓が鳴った。
私はその声を知っていた。
「なかなか好調だよ。来月は十本増やして貰ってもよいかも」
「嬉しい。助かるわ」
「お宅の塩、評判が良いよ。パッケージも可愛いからさ、ちょっとしたお土産ににもいいんだってよ」
「そういう需要もあるのね?」
「塩はあっても困らないからね」
私は顔を上げて女性を確認した。
やはりまず、姿勢の良さに目が引かれた。
私はその背中を知っている気がした。
「とりあえず今月分に三十本置いていくわ。空き瓶あったら回収するけど?」
「空瓶はそこの横においてあるよ」
ハルスの奥さんと呼ばれた女性は、持ってきた木箱と空瓶の入った木箱を交換した。
女性の青みがかった砂色の髪に心がざわついた。
化粧っ気はなくとも美しい横顔に確信を持った。
間違いなかった。
私が見捨てた王女——イディール様だった。
「はい。これ代金」
「頂戴いします」
イディールは、実用一辺倒の綿のスカートに清潔な生成りのブラウスと革の胴着。使い込んで色の褪せた丈の短い外套を羽織っていた。
逃げる時に着せた衣装を、こんなの着られないと捏ねた姿が思い出された。
代金受け取りながら、一緒に渡された包みにイディールは首をかしげる。
「これは?」
「新作メニューさ。セルさんとお食べよ。お宅の塩を使って作ったんだ。後で感想聞かせとくれ」
「わぁ! ありがとう。嬉しい。いただきます」
取り繕い、澄ましたお手本の様な笑みではなく、素直に喜ぶ顔に私は目が離せなかった。
あのイディールが、こんなにも感情豊かに笑える女性だったのかと驚いた。
硝子瓶の入った木箱に、受け取った包みも加えて抱えるイディールは、屈んだ時に落ちてきた髪を無造作に耳にかけた。
腰下まであった髪は、今や背中の真ん中ほどしかない。それをスカーフで一つに括っているだけだった。
時間をかけて櫛梳り、丁寧に結い上げ、ちょっとでも崩れると結い直させていた城での姿が、まるで嘘のようだ。
城にいた頃よりも、明らかに生き生きと会話をし、店を出て行くかつての主の背を、私は呆然と見送った。
「女将さん、いまの人は?」
「ハルス商会の奥さんだよ。知らないかい? 『月の雫』って塩」
「最近、よく見るようになりましたよね」
不純物が少なく、質が良いのでメランも買って使っている。
「若いのに偉いよね。旦那さんと始めた事業なんだって」
「旦那さん⋯⋯。そっか、ご結婚されたのね」
「そう。セルさん。元々塩の行商人だったそうだけど、岩塩の採掘権を買って始めた事業を、こうも安定させたのは奥さんの手腕らしいよ」
かつて仕えた王女様と、話題の人物が、実際に本人を見たというのにどうしても結びつかなかった。
私は礼を言い、食事代を支払って店を出た。
店の前には、幌の無い一頭だての小さな荷馬車があった。
荷台にはいくつもの木箱が積まれている。
御者席には、垂れ目の金茶の髪の男性が乗っていた。
「サラ、それは?」
「女将さんから新作メニューのお弁当貰っちゃった」
「いいね。そろそろお腹が減ってきたところだ」
サラ——イディールが呼ばれた名は、もう一人の空色の瞳の少女の名前だった。
『自分』の全てをイディールに与え、王女の影として死を選んだ少女。
城から逃げたあの日、サラは王女の服を着て、時間稼ぎをすると私達を送り出した。
私は彼女が何をするつもりなのかを察していながら、触れなかった。
イディールにも伝えなかった。
サラの叔母のミラは、イディールの弟の乳母だった。
ミラは生後数日で弟王子を死なせた咎で処断された。
王の直系の王子を死なせた罪は一族にも及ぶのが慣例だが、当時、産まれたばかりだったサラにはお咎めは無く、イディールと一緒に育てられることになった。
ずっと一緒にいたサラは、おそらくイディールの影となることが役目だった。
それが罰——サラが生かされていた意味。
私達が逃げた後、程なくして王女イディールは自室で自害の報が流れたのだ。
しかし実際は、本物の王女はサラの名でサラの戸籍で生き延びている。
同僚のサラは文字通りその身の全てをイディールに捧げたが、私はただただ逃げた。
私のあけすけな視線に気づいたのか、今は『サラ』と名乗る女性がこちらを向いた。
青灰色の瞳と、目があった。
形の良い唇が、笑みの形をとったのが判った。
取り繕った笑みではない。そこには怒りも蔑みもない。
純粋に、私の生存を喜ぶ笑顔だった。
そうだった。
イディールは悲嘆に暮れることはあっても、他人を恨む人では無かった。
なぜこんな大事なことを忘れていられたのだろう。
「どうした、サラ?」
「⋯⋯知り合いが居た気がしたのだけど。気の所為だったみたい」
サラと呼ばれた元王女は、馬車の御者席に乗り込んだ。
私はゆっくりと踵を返した。
声をかける資格も、必要もない。
イディールはもう『仕えるべき王女様』ではなかった。
ただ一人の、強く生きる女性だった。
空は青く澄み渡っていた。
私の内で淀んでいた影も、いつのまにか薄らいでいた。




