[※]●月星暦一五六五年十月〈前髪〉●アトラス独白
●アトラス独白
レイナが逝ってから五年。
喪失の痛みに気を取られていた間に、私の身体は時間の流れから切り離されていた。
否。
レイナが病み衰えていくよりも前から、既に始まっていたのだろう。
でなければ、年齢が合わない。
あの頃は自分のことが疎かになっていた。
「随分散髪していない気がしますね」
従者のサンクに指摘されて、初めて気づいた。
私は、髪どころか、爪さえもいつ整えたのか思い出せなかった。
※※※
七、八年切っていない前髪は目元を隠す位にしか伸びていない。
月の大祭に出席するにあたって、流石に見苦しいと後ろは整えてもらったが、鋏を入れたのは五年ぶり位だろうか。
レイナが逝ってから初めてだったと思う。
大聖堂での神事を終え、城で行われる宴に滞りなく進行は移った。
参加はするものの、始まって早々に人目を避けるように露台に出た私は、窓越しに会場を伺った。
五十歳間近のアウルムの顔を見ながら、毎朝鏡に写る自分の顔を思い浮かべる。
限界だと思った。
かつて、色は違えど双子のようにと形容された自分たちだったが、隔たりがあり過ぎる。
客観的に三十歳前後にしか見られない見た目で、四十五歳は言い張れない。
身体の刻を止められたという実感が、私の心に暗い影を落とす。
こんなことが出来る者は、一人しか思い浮かばない。
月明かりの青白い光は、否が応でもあの、人を超越した男の青銀の髪を思い起こさせた。
この城を、私は一度は逃げ出した。
もう、戻れない場所だと思っていた。
だが兄は、いつでも戻って来られる場所にしてくれた。
次は婚姻という形で去りはしても、ここは故郷だった。
ちゃんと、自分の居場所になっていた。
その筈だった。
胸の中に渦巻くのは、恐らく怒り。
やり場の無い感情を抱えて、私は満月を睨むように見つめながら、葡萄酒ちびちびと口に含んだ。
「こんな、ところでどうした?」
突然、背中にかけられる声。
振り返らずとも誰だかなんて判る。
どこにいても、アウルムは私を見つけ出す。
昔からそうだった。
「月を見ていただけですよ」
月を背に、観念して私は兄を振り返った。
部屋の灯りに背にしたアウルム。
お互い逆光の中、向かい合う。
柔らかくアウルムが微笑むのが判った。
「お疲れ、アトラス。今年も良い舞だった」
良いわけが無い。
指先まで神経が行き届いていなかった。
キレも無かった。
奏上した祝詞も上の空。
我ながら無様極まりないなものだった。
「次も楽しみにしている」
「⋯⋯」
その言葉が、胸に刺さった。
私は「はい」と言う事ができなかった。
いつもの笑みでやり過ごせばいい。
頭では判っていても、表情を作ることが出来なかった。
何を言っても、アウルムの深い眼差しを前に、見透かされそうな気がして怖かった。
もう、私はもう此処には来られない。
「ありがとう、兄上。⋯⋯私は、もう戻りますね」
「ん? そうか。お休み」
「おやすみなさい⋯⋯」
語尾が震えないようにするのが精一杯だった。
気遣う視線に気づかなかった振りで、私は兄の横をすり抜ける。
(兄上。私の金色の王。さよなら)
背中に視線を感じた。
振り切るように会場を足早に抜け、廊下に出たところで、走って来た誰かとぶつかりそうになる。
「あ、ごめんなさい!」
「⋯⋯レクス殿下」
蜂蜜色の少年が私を見上げていた。
「殿下。廊下は走っちゃいけません」
「ごめんなさい、叔父上」
しまった、という顔をする少年を、私はじっと見つけた。
「殿下、月星を、陛下を頼みますよ」
「叔父上⋯⋯?」
「おやすみなさい、殿下」
その後は誰ともすれ違うことはなかった。
私は足早に大神殿の自室に戻った。
※
翌朝——もう昼に近いが、私は食事の準備をしてくれる従者のサンクに声をかけた。
「サンク、あとで前髪を整えてくれないか?」
サンクが息を飲んだ。
「よろしいのですか?」
私が十年以上ほぼ歳をとっていないことも、伴い髪が伸びにくいことも、従者のサンクは知っている。
変わらない顔を隠そうと、私が前髪を伸ばしていたのを、サンクは察している。
「うん。もういい」
私は断言した。
「わた——俺はもう、ここには来ない」
俺の決意にサンクは痛ましそうな顔を浮かべつつ、頷いてくれた。
※
サンクが前髪を整えてくれている間、俺はずっと目を瞑っていた。
一段と慎重に鋏を操っているのが伝わってくる。
「終わりました」
やがて、かけられた声に目を開いた。
サンクが手鏡を差し出してくれる。
信用していたが、確認をする。
勿論、長さに問題はない。
客観的に見ても、三十歳前後にしか見えない顔が皮肉に満たされる。
レイナは気づいていたのだろうか。
ふと気になった。
気づいていたのなら、それはなんて残酷な仕打ちだろうか。
散った髪を窓辺で叩いてきたサンクに礼を言うと、俺は身支度を始めた。
「すぐに出られますか?」
「ああ。兄にも大神官にも会わない。そのまま行く」
「わかりました」
俺は大神殿の中庭に直接竜を呼び、サンクを乗せて浮上した。
旋回する竜の背から、王城を、アンバルの街を見下ろした。
遮るもののなくなった視界に映るのは、祭りの余韻と活気に溢れる故郷の街並み。
今の俺には、まるで手の届かない幻のように遠い。
「さよなら、兄上」
サンクに聞こえないようにそっと呟いた声に反応するように、竜はアンバルに背を向けた。
※※※
それから、十年間。
俺はこの街に足を踏み入れなかった。




