3 重要参考人
その電話が入ったのは、わたしたちがお昼を食べ終わって仕事に入ろうとしていた時のことだった。
「え? なんですって?」
先生のただならぬ声に、わたしも思わず顔を上げた。
「ええ・・・、はい・・・。分かりました・・・。」
電話を終えると、輝子先生は呆然とした表情で、椅子にぺたんと座った。
「そんなはずない・・・。」
「どうしたんです? 先生。」
輝子先生は、ひどく動揺した表情をしている。
「そんなはずないわ。・・・何かの間違いよ! 輪兎ちゃん、上でニュース見ましょう。」
御堂寺設計工房(先生の自宅)には、1階にテレビはない。2階に上がる階段を先生について登りながら、わたしはもう一度訊いてみた。
「何があったんです? 先生。」
「侑さんが警察に連れていかれた。」
「え?」
2階に上がるなり、先生はリモコンを手に取ってテレビのスイッチを入れる。目まぐるしくチャンネルを変えながら、先生は叫ぶように言った。
「ニュース、やってない! 将棋の勝敗が何だっての!」
「先生。ニュースの見逃し動画なら、スマホで見られます。」
「あ、・・・ああ、そうだったわね。」
輝子先生には珍しく、かなり動揺している。
いくつかのチャンネルの地方版に、この事件は報道されていた。
事件そのものはそれほどセンセーショナルなものではない。白昼、若い女性が人通りの少ない路上で襲われた、というものだった。
いきなりスタンガンか何かで襲われ、転倒したときに運悪く頭を強く打って意識不明になっているという。
犯人は性的暴行を目的としていたらしいが、たまたま通りかかった車があったため襲った男はそれを見て何もせずに逃げたという。
通りかかった車の男性は、女性を救護しようと119番に通報しているうちに犯人を見失ったらしい。
昨日、小森さんの家の近くの交差点にいた警察は、この事件捜査をしていたもののようだった。
ニュースに侑さんの名前は出ていなかったが、警察の話として「容疑者は近隣の土地勘がある男」と報じられていた。
車のドライブレコーダーの映像には、黒いパーカーのフードで顔を隠した人物が小森さんの家の方に逃げるところが写っていた。
テレビのニュースはこれだけだったが、この黒いパーカーの男が侑さんだと警察は疑っているということだろう。
「なんで? 犯人がそっちに逃げたってだけじゃない。どうしてそれが、小森侑さんになるの?」
わたしは思わず口に出してそう言う。
「あの子のはずがない。」
いつも、ほにゃ、としている輝子先生が、鋭い眼差しのまま両手のひらを合わせてつぶやいた。
「だって、あの子にも、あの子のまわりにも、そんなことをしなければならないような状況は何もなかったもの。」
「輪兎ちゃんも見たでしょう?」
と言われても、わたしは例によって何も見えてはいない。
「あの子の部屋は引き戸だったわ。」
た・・・たしかに、それはそうでしたが・・・。それとこれと、どういう関係が・・・?
「引き戸は内側から心張り棒をかってしまうだけで開けられなくなるわ。でもあの子はそれをしていなかった。裕美さんは開ける前にちゃんとノックもしてた。引き戸を開けた後も、あの子は気にせずゲームを続けていたわ。」
たしかに、そう言われれば・・・。嫌そうな顔をするでもなく、すぐまたゲームに熱中していた。
「それはつまり、侑さんは引きこもりではあるけど母子の関係はいいってことなのよ。距離感も適切だという証拠だわ。そういう環境の子が、スタンガンを持って白昼堂々と女性を襲うなんてことすると思う?」
「違和感、あり過ぎですよね。裕美さんは何か言ってました?」
「とりあえず、リフォーム依頼はお断りしますって。」
いや、そこじゃなくって・・・。
「泣いてたわ。引きこもりで家からずっと出てない、って言っても信じてもらえなかった——って。」
「それとあの子がやっていたゲーム。輪兎ちゃん、覚えてる?」
「ええっと・・・、ブツモリ・・・でしたよね?」
「そう。戦闘シーンもない、平和なやつよねぇ? それも、わたしでも分かるほど古いバージョンのよぉ。」
「それが、何か・・・?」
「あの子は古いバージョンのゲームをやり続けていた。わたしたちが引き戸を開けても。特に挨拶するでもなく。」
「でもそれは、引きこもりという心の病を抱えているからでは・・・?」
「あのね、輪兎ちゃん。」
輝子先生は、少しいつもの表情に戻ってわたしに言った。
「引きこもりは『病』ではないわ。脳の傾向、個性が、何かのきっかけでそういう状況に入っちゃった、というだけなのよ。抜け出すにも時間がかかるとは思うけど。」
「ある種の発達障害のある子は、1つのことに執着する傾向があるの。環境が変わることを嫌がる、というか。自閉症スペクトラムの1つよ。古いゲームをやり続けていることや、コミュニケーションが苦手なところから、わたしはあの子はどうやらそれじゃないかと思ったわけ。ならば、あの部屋はあまり大きく変えてはいけない・・・とあの時は考えていたの。」
輝子先生はそう言ってから、先生が最も恐れている懸念を口にした。
「私の見立てが合ってるなら、侑さんは捜査員に迎合して、ありもしない『事実』を自白してしまいかねないわ。あの部屋に、早く戻りたくて——。」
そこまで話すと、先生は立ち上がった。
「もう一度行こう、あそこへ。確かめたいことがあるわ。」
「これからですか?」
「心理学者でもないわたしなんかがさっきみたいなこと言ったところで、警察は耳を傾けやしないわ。何か決定的な証拠を見つけなければ。」
先生はわたしを急かして階段を下り、玄関で靴を履きながらわたしに言った。
「他の仕事は放っといても大丈夫よ。今のところ。」




