第8話 さようなら二宮君
あれから風香は神社に現れることは無かった。
引っ越しの当日、どうしても気になった恭子たちは、またあの団地を訪れた。
人だかりがある。
そこには二宮君がいて、いつも遊んでいた男の子たちと、あのポニーテールの女の子の姿もあった。
一見したところ、風香の姿はない。
トラオとミースケが鼻をひくつかせ、耳を動かし始める。
「あそこだ」
トラオが肉球で指さした植込みの陰に風香はいた。
赤いワンピースを着ている。
その手には、この辺りで摘んだものか、タンポポやシロツメクサなどの花が握りしめられていた。
「良かった。諦めてなかったんだ」
安堵したものの、ここは見守ることしか出来ない。恭子は歯痒さに耐えながら、風香の行動に集中する。
お別れを言い終えたのか、二宮君を囲んでいた男子たちが退いていった。
その後に、ポニーテールの女の子が二宮君の前に出ていった。
トラオが言っていたとおりの可愛い子だった。ひいき目に見たとしても風香の方が見劣りしていた。
何やら親し気に話す二人の会話は、恭子の耳には届かない。
傍らのミースケとトラオは、耳をピンと立てて会話の内容を聞いているみたいだ。
「ねえ、あの二人なに話してるの?」
「ああ、また会いに行くからって言ってる。やはりあの二人は結構親密そうだな」
恭子の質問に答えたミースケは、再び二人の会話に集中しだす。
その時、植込みの陰にいた風香が動きだした。
「頑張って。風香ちゃん」
きっと叶わない恋だろう。それでも想いを伝えさせてあげたいと、恭子は願った。
なんだか足取りが重い。それでも風香は二宮君へ向かって歩みを進める。
そして風香の見つめる先で、ポニーテルの女の子が後ろ手に持っていた手紙を二宮君に差し出した。
二宮君が照れながら手紙を受け取っているのを見て、風香の脚が止まった。
親し気に別れを惜しむ二人を、風香は唇を噛みしめながら、その場でしばらくじっと見つめる。
トラオはもどかしいのか、尻尾をブンブンと振っていた。
さらに親し気に話し続ける二人を見つめていた風香が、突然握りしめていた花束を地面に叩きつけた。
そして桜の木の下まで走って行き、ぬかるみの中に手を突っ込むと、泥を掴んで丸めだした。
「おい! なにする気だ!」
あり得ないことをしようとしている風香に、驚嘆したトラオが思わず声を上げた。
恭子と二匹の猫の見つめる先で、風香は真っ黒な泥団子を丸めながら、ぽろぽろと涙を流している。
黒く汚れた手で、何度も顔を拭いながら、風香は泥団子を丸め続けた。
不器用で幼い恋。顔を泥で汚しながら風香は涙を流し続けた。
こんな形でしか想いを表現できないその幼さを、トラオはその黄緑色の目でただ見つめていた。
そして、真っ黒な泥団子を手に、風香は木の陰から出ていった。
躊躇いながらも風香は腕を振りかぶる。
そして泥団子は風香の手を放れていった。
バシッ。
真っ黒な泥団子が空中で四散した。
風香の手を放れた泥団子に、あり得ないスピードで追いついて叩き落としたのはトラオだった。
スッと二本足で着地したトラオに、風香は驚いたような眼を向けた。
そしてトラオはゆっくりと風香に近付いて顔を上げた。
「今ぶつけないといけないのは泥団子じゃないだろ」
トラオの言葉に、風香は汚れた顔をくしゃくしゃにして頷いた。
「うん」
「さあ、行ってこい」
トラオに送り出されて、風香はおずおずと少年の元へと向かった。
泥で汚れたその異様な風体に、そこにいた子供たちがひそひそと囁きだす。
まだ涙の乾かぬ頬のまま、風香は二宮君に向き合った。
そのまま風香は下を向いたまま、一言も話せない。
周囲の子供たちが奇異の目を向ける中で、二宮君が口を開いた。
「また汚れてるじゃないか」
頬にこびりついた乾きかけた泥を、少年はポケットから取り出したハンカチで拭った。
「風香、元気でね」
うつむいたままの風香の足元に、ポトポトと涙が落ちていく。
停車していた車の窓を開けて、母親が少年に声を掛ける。
「大地、そろそろ行くわよ」
「うん。わかった」
少年が背中を向けた時だった。
幼く不器用な女の子の唇が開いた。
「二宮君」
うつむいたままの風香を少年は振り返った。
そして風香は、まだ泥で汚れたままの顔を上げて、たった一言こう言った。
「元気でね」
その言葉に少年は笑顔を浮かべて、小さく手を振った。
「うん」
少年を乗せた車は、すぐに見えなくなった。
最後までそこに立ち尽くしていた風香を、トラオは少し離れたところから、ただじっと見つめていた。
季節の移ろいと共に、気の早い蝉の声が聴こえてきだした。
毎日のように神社に通い詰めていた女の子の姿はもうない。
静けさの戻った神社で、トラオは誰にも邪魔されること無く、また昼寝が出来るようになった。
陽射しが眩しい雨上がりの午後、日課の散歩を終えて神社へと戻って来たトラオは、手水舎で喉を潤したあと、風通しのいい、お気に入りの寝場所へと直行した。
木漏れ日に彩られた社殿の階段を、尻尾を揺らしながら上がる途中で、トラオは足を止めた。
そして、髭を揺らして、鼻を少しひくつかせた。
「おや?」
トラオはそのまま階段を上がる。
そして、賽銭箱の裏を覗いてみると、どうゆうわけかチクワが一本、無造作に置かれてあった。
「フッ」
小さく鼻で笑ったトラオは、賽銭箱の裏からひょっこりと顔を出して、黄緑色の目で周囲を窺う。
誰もいないのを確認してから、器用に両手でチクワを掴むと、また階段の所まで行って腰かけた。
そして、人間がそうするような座り方で脚をブラブラさせ、トラオは満足げに、大きな口を開けてチクワにかぶりついた。
ご読了ありがとうございました。
ループする世界における猫との少女との絆を描いた「世界最強猫と私」に登場する、彼らの良き友と言える癖のあるキジトラ猫、トラオが主役のこの物語は、繰り返すループの中で偶発的に起こった、女の子との出会いから始まりました。
トラオたちの、ちょっとした日常を切り取ったお話ですが、向かってくる怪物は登場しない代わりに、ヒロインの山田風香が曲者で、トラオは窮地に追い込まれ、何度も泣き言をいう破目になります。
ミースケの相方ともいえるトラオは、絶対者という一面を持っており、今回山田風香に演じて見せた神様というのは、実際のところ、彼の本来の姿であるのかも知れません。
そして、この身勝手な幼い少女に手を焼かされたことで、トラオはさらに人間臭い存在になっていったのでしょう。
私の作品を読んで下さっている方はもうお気付きかと思いますが、実はこのトラオは「世界最強猫と私」以外の作品にも、ちょくちょく顔を出してます。
ちょっとした私のお気に入りのトラオを、良ければ探してやって下さい。
それではまたお会いできることを期待して。
ありがとうございました。
ひなたひより