プロローグ「さようなら」
氷輪……氷のように冷たく輝く月。
音が遠ざかっていく。
凍りついた雪の粒を掻きまわす激しい風の音も、夜目をぎらつかせた四つ足の神様が、力強く雪原を駆ける足音も、今の俺にはもう届かない。
「さようなら」
そう言ったキミの泣きそうな声だけが、頭のなかで何度も何度もループする。
別れの言葉だけを置いて、キミはゆっくりと崩れ落ち、そのまま動かなくなってしまった。
降り積もった柔らかな雪の海に溺れてしまいそうで、俺は力の入らぬ腕を必死に動かして抱き起こす。
「っ、凛胡……!」
血色を失いはじめた青白い頰。
ぴくりとも動かない目蓋。
だらりと、ぶら下がった腕。
「……っ!」
ほのかに温みが残る頰を、手のひらで何度も擦った。
名前も呼んだ。
俺の耳が音を拾いはじめる。
鼓膜にぶつかる金切り音のような斬風。
肋を突き破って飛び出しそうなほど、内側から脈打つ心臓の音。
だけど……。
キミの鼓動だけは聞こえなくて、冬夜の寒さで痺れはじめた指先を、細い首の付け根に当てた。
わずかに指の腹を押し返す感触。
なんだ……良かった……。
ちゃんと生きてるじゃないか。
そう思ったけれど、腹の底の不安は溶けてくれない。
「ーー馬鹿者が! 戦いはまだ終わっておらぬぞ!!」
耳元に神様の檄が飛んでくる。
しっかりしろと、狼の鼻面で俺の頭を小突いてくる。鈍く走る痛みよりも、神様の言葉に俺は愕然とする。
「っ……、終わったんじゃ、なかったのか?」
まだ戦いが終わっていない?
……そう、俺達は戦っていた。
くたくたに枯れるまで必死で戦って、そして討ち倒したはずじゃ。
ならば、どこへいったーー
あの魑魅魍魎を従えた怨霊は……。
「楔から解き放たれた彼奴は、今が好機と、悦び狂い暴れておるわ。……凛胡は今も戦っておるぞ」
「なっ……凛胡がっ!?」
じゃあここにいる凛胡はなんなんだ。
俺の腕のなかにいる凛胡は。
「ふん、お前には視えていないだろうがな」
牙を剥いた神様が、ついと氷輪を仰ぎ見る。
……そこに……キミはいるのか?
「凛胡は俺に『さようなら』って言ったんだ……」
「憐れなり。……凛胡は肉体を捨てたのだ」
「どういうことだ」
「彼奴を退治するため、凛胡は肉体と魂を置いて、幽体のみで飛び出していった」
「それって……」
「つまり……凛胡は死ぬということだ。もう長くは保つまい。魂と肉体を繋ぐのは幽体があってこそだからな」
「!!」
そんな! それじゃあ、あの「さようなら」は……。
頭の奥が、かっと熱くなる。
靄が晴れるように思考がクリアになる。
「……神様、俺はどうすればいい?」
「凛胡を救いたいか?」
「救いたい……だけどそれ以上に、凛胡が戦ってるなら俺も戦わなくちゃいけない。だって俺は……そのために此処に帰ってきたんだ」
自由と引き換えにして、俺がこの場所にいるのは戦うためだ。
それに、もう分かってるんだ。
そもそも俺が自由だと思っていた暮らしのすべては、陰で守ってくれる人がいたから成り立っていたものだ。
凛胡が、俺に自由を与えてくれていたんだ。
「頼むよ神様。俺に凛胡を救うための力を貸してくれ!」
俺は凛胡のそばに行く。
たとえ肉体を失うことになっても、キミと一緒に戦うよ俺は……。
「ならば、目を閉じるがよい」
「ありがとう神様。俺の願いをきいてくれて」
両腕で凛胡の重みを感じながら、俺は目を閉じた。
目蓋の裏が白む。
夜明けが、やってきたのかもしれないと思った。
お読み頂きまして、ありがとうございます!
新連載です。
不定期更新なので、是非ブクマ宜しくお願いします。