0話 少女アオと少年トール
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「トール! 早く来ないと置いていっちゃうよー!?」
「待ってよアオーー!」
潮風が緑の草原をかける少年と少女の肌を優しく包み込んでいた。
少女、アオは純白のワンピースと澄んだ黒髪をなびかせ、華奢で弱々しい体を動かして、少年トールの前をひたすら進んでいく。
そんなアオをトールは不安定な足取りで、必死に追いかけるのがやっとだった。
「そんなんじゃまだまだ斬月の剣士にはなれないわよ! 私よりもずっと速く走らないと」
走りながら横目で言うアオ。そんなアオにトールは、
「何だとーー! 俺は絶対に斬月の剣士になってやるんだからな!」
「それなら私を抜いてみなさいよ!」
「絶対に抜かしてやる!!」
限界に近かい体力だったが、アオの言動が鼻につくトールは横腹を抑えながらも前にかがみ、足を無理やり動かす。
「うわっ! 怒ったら走るの速くなったー! それじゃあ私も本気だしちゃおっかなー!」
そう言うと、アオは放たれた弾丸のようにトールの本気を軽々と超えて加速していく。
「はぁはぁ、やっぱり……速いな……アオは」
トールは足を止め、膝に手をついてから、一呼吸おいて前方を見た。
そんな諦めかけのトールは何かを忘れているような気がした。
とても大事なことのはずだった何かを……。
「これ以上真っ直ぐ進んだら……確か……あ、そうだ! 崖があるんだ!!」
冷や汗がザワッと一瞬ででてきたトールは、アドレナリンが出たのか息が切れていたことを忘れ、再び全力で走り始める。
「アオちゃん! これ以上進んだら崖があるから危ないよー!」
「なにか言ったーー?」
全く止まろうとしないアオ。
そんなアオにトールは血管を浮き出だし、真っ赤な顔でもう一度叫ぶ。
「アオちゃん止まれぇーーーー!!!!」
その声は辺り一面にトールの声が響いた………。
が、遅かった。
「きゃぁーー!!」
そのアオの声で冷や汗が更に冷たくなるのを感じたトール。頭が真っ白になり、足を止めた。
トールの視界にはアオの姿は映っておらず、草原より先に続く海と水平線が広がっているだけだ。崖はまだトールから遠いため、地面に描かれた細い一本線にしか見えない。
「え、嘘……だよね……アオーーー!!」
アオが生きているという低い可能性に希望をかけ、つまずきながらも再び走り、崖に近寄った。
そして覗いた。
そのトールの目にはどこまで続くか分からない暗闇へが広がっているのが映った。
それに、トールは顔を青くし、後退りをする。
ショックで呼吸が不安定になり、トールが過呼吸になった時だった。
「トール!! お願い、助けて!」
「!?」
もう一度崖に顔を覗くと、断崖絶壁の側面にやっと手が乗るくらいの小さな岩があり、そこになんとかつかまっているアオがいた。
「アオちゃん!! 良かった!! 今引っ張るから待っててね!」
トールは急いで袖をまくり地面に体を伏せ、アオへと手を伸した。
が、その時。
「ガラッ」
アオのつかまっていた岩が崩れたのだ。
そしてアオの体が空中へと放たれた。
「え…………」
トールにはスローモーションになって見えた。
崩れて粉々になった岩たちは、口を開けて助けを求める右手を伸ばしたアオと共に暗闇の中へと消えていった。
「ア、アオーーーーーーーーーーーーーー!!!」
再び頭が真っ白になるトール。手を伸ばしたまま放心状態になる。
驚きと悲しみが同時に襲ってきたトールの頭の中に、もう一つの感情が降りかかる。
「…………………な、何が……何が斬月の剣士だ!! 友達の1人すら……救えないくせに!!」
自分を責めるように歯を食いしばり、地面を拳で叩く。
「何を失ってもいい……だからもう一度アオちゃんの笑顔が見たい。斬月の剣士になれたよって言いたい。
一緒にもっと鍛錬したい。こんな……こんな別れ方……アオ……」
するとトールの涙で歪む視界が、赤く濁るように染め上げた。
そんな異常事態に目をパチパチするトール。
「何?何が起きたの?」
驚ろく余裕がないトールは周りを見渡す。
すると、潮風に揺れていた草が揺れた状態で止まっているのが見えた。さらに、空を見ると鳥が翼を広げた状態で止まっている。
つまり、今この世界はトールだけが動ける世界なのだ。
そして不思議なことに崖の下には砕け散った岩とアオの姿があった。
「ア、アオちゃん!? 何が……起きたの?」
トールはアオにそう聞いたが、当然アオも静止している。
余計に何が起きたのか分からなくなったトールは顔を濡らしながら、首だけを動かして周囲を見渡していると突然、低く図太い声が聞こえた。
『お前はその女を助けたいか』
どこからとなく聞こえてくる声に動揺しつつも取り敢えず大きく頷く。
「うん! ……助けてほしい! ……けど…あんたは誰なの? どこにいるの?」
しかし、その質問の応答は返ってこないまま次の提案が聞こえてきた。
『私がその女を助けるには条件がある』
「う、うん。条件? 条件ってなに?」
『それは、この女を助けた8年後にお前のこの女との記憶を私に捧げることだ。もちろんこの女からもお前との記憶を貰う』
「そ、それって、8年後に俺たちが急に他人になるってこと?」
『そうだ』
トールはしばらく草っ原や鳥のように静止して頭を悩ませる。
確かにアオを助けたい気持ちはあるが記憶を無くすことを天秤にかけると、どの道報われない気がしたのだ。
そしてトールは、考えた末に時間が止まっているうちにアオを助けてしまおうと、早速手を伸ばしてみた。が、あと少しの所でどうしても届かない。
次に考えたのは半裸になってマントを雑草に結びつけ、それを命綱に自分も崖にぶら下がり、足首に結びつけたタオルをぶら下げ、届く距離を広げるという方法だった。
ぶら下がったトールの足首に結んだシャツがひらひらとなびいて、静止したアオの伸ばした手に、
「届いた!」
トールの顔が明るくなるも、一瞬で元の顔に戻る。アオの手に届いた途端にシャツがドロドロと溶けていったのだ。
そしてトールは、時間が止まって誰の助けも来ない世界で危険な状態にある。トールは崖の上でマント一着を命綱にぶら下がっているからだ。
ここで時をうごかされてしまえば硬く固まった雑草が柔らかくなり、雑草ごと抜けて、落ちてしまう。そうなると2とも揃って死ぬことになり、トールの努力が報われないまま終わる。
「…………」
宙ぶらりん状態になったトールは次のアイデアを絞り出そうとした。
が、中々出てこなかった。
『決心はついたか?』
再び低く図太い声が聞こえてきた。そして諦めたトールは、
「お願い、アオちゃんを助けて」
『よかろう』
と、図太い声が言うと
「バタンッ」
意識を失い、トールは倒れた。
※※※※※※※※※※
草原の中央に寝転がるトールの目が開いた。周りの景色は元の色を取り戻し、草は揺れ、鳥は羽ばたいていた。横にはアオが一緒に寝転がっている。
それを見たトールは、
「アオちゃん!」
上半身を勢いよく上げてアオを優しく、そして強く抱き上げる。
すると、アオの目がゆっくりと開いた。
「トール、私たち本当に8年後に他人になっちゃうの?」
どうやら静止していたアオにも謎の声との会話は聞こえていたようだ。
「僕たちは絶対にならいよ! だって僕は必ず今度こそちゃんと君を守れる様な斬月の剣士になるんだから!」
そう言うトールの顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。
そんなトールにアオは、スッと垂れた涙を人差し指で拭き取り、優しい眼差しと笑顔で言う。
「信じてるわよ。私たちはきっと、8年後も一緒に遊んでるよ……」
互いを抱き寄せて泣きじゃくる2人。そんな2人を励ますかのように潮風が吹いた。
※※※※※※※※※※
あの日から丁度8年後になる前夜。
既に謎の声との契約の日が15分後に迫っていた。
8年前と同じ草原に寝そべる15歳にまで成長した2人を月光が静かに照らす。
「ねぇ、トール……私たち、もうちょっとで他人になってしまうんだよね?」
「んなわけないだろ。俺たちは結婚の約束をしたくらいだし、この誓いの黒剣を俺たち2人が持っている限り大丈夫に違いない」
「そうだよね。もしものことがあってもこの剣を見たらきっと気づくよね…………。あ、そうだ! 時間になって忘れちゃう前に書いとこっと」
そう言うとアオは魔法の杖を用いて紙に何かを書き始めた。
「何を書いてるんだ?」
トールは上半身を起こしてアオの手元を覗く。
「何って、時間が来て忘れちゃう前にこの剣のことについて書いてるのよ。将来の私達に向けて。」
「そうか。流石、村1番の魔術師だな」
「当たり前でしょ? 何をいってるのよ。もう記憶が飛んでアホになってきたのかしら」
「アホってなぁー、斬月の剣士様にそんなこと言っていいのかなー?」
トールは少しムキになり、顔を寄せて言い返す。
「斬月の剣士様って、月を斬ってから言いなさいよ。まだまだ月に届くことすら出来ていない青二才が大口たたくんじゃないわよ」
「はいはい……」
言われ慣れている様子でトールは半笑いする。
その時、8年前と同じように辺りの景色が赤く濁るように染まった。その瞬間に思い出させられる恐怖。
トールはアオの手を握った。それにアオは強く握り返す。
「真っ赤だな。アオ、いよいよだな」
「そうね」
2人は互いの腰にかけられた誓いの剣を手を繋いだ反対の手で握りしめる。
『久しぶりだな少年少女よ』
相も変わらず低くて図太い声が聞こえた。
「約束通り、記憶を取りに来たんだな」
どこから聞こえて来ているかわからない声にトールはアオの目を見ながら言い返した。
『そうだ。その約束通り今からお前たちの記憶を貰う。覚悟はいいか?』
「ちょっと待って!」
そう言うとアオはトールの前に立ち、顔を真っ赤に染めて、
「いいよ……」
と言い、トールの唇にキスをした。
同時にトールの顔も真っ赤に染まる。
すると、その状態のまま、2人の胸の鼓動とともに記憶が空へともくもく飛んでいった。
「…………」
「…………」
アオが頬にキスをしてしばらく時間が経ち、辺りの景色が元の色を取り戻すとその低く図太い声はいなくなっていた。
そして唇を離し、距離を取ったアオとトールが言う。
まるで他人を見るような視線を互いにぶつけ合って
「誰?……お前」
「そちらこそどなたですか?……」
見つめ合う2人の間には大きな亀裂が入っていた。
それから2人は他人として別々に村を去っていくのであった。