面倒見の鬼、再び
いつの間にかイリスの正面にあった紫色の瞳が、意味ありげに細められる。
何だろうと思った瞬間、ヘンリーはイリスの手を持ち上げた。
「――いっ!」
腕から肩にかけて走った痛みに、思わず声が漏れる。
「……やっぱり痛めているのか。反対の手は」
そう言って、もう片方の手を持ち上げる。
「や、やめ――いっ、たい」
予想できたとはいえ、痛いものは痛い。
目に涙が浮かびそうになるのを見て、ヘンリーがため息をついた。
「怪我はないか、聞いたはずだぞ」
「だ、大丈夫よ。腕を上げなければ良いだけだから」
「おまえは、これから下手投げで生きていく気か。……それで、怪我はこれだけなのか?」
咄嗟に否定も肯定もできずに固まってしまったイリスを見て、ヘンリーはもう一度ため息をつく。
「……まだあるんだな」
「だ、大体同じだから、大丈夫よ」
「大体同じなら、肩か、背中か、首か……」
「う」
言葉に合わせて触れる手が背中に達すると、耐えきれずに声が漏れる。
「――背中か。だから妙に姿勢が良かったのか。背もたれに触れると痛いんだろう?」
「……もうやだ。何なの、この面倒見の鬼……」
本当に、どこまでイリスの面倒を見れば気が済むのだろう。
痛みに加えて疲労がどっと押し寄せてくる。
涙を浮かべながら呟くイリスを見て、カロリーナが席を立った。
「聞きしに勝る面倒見ね。あんたのそんなところ、なかなか見られないから、面白いけれど」
そう言って、ビクトルの隣に移動する。
空いたイリスの隣に、当然のようにヘンリーが座った。
「カロリーナ?」
「……イリス、諦めて面倒を見られなさい。モレノの人間は、しつこいのよ」
馬車が走り出せば、当然車内も揺れる。
背もたれを使えず、腕で支えることもできないイリスは、面白いほどゆらゆらと揺れた。
当然、疲れるし倒れそうになるので、どうにか対策を考える必要があった。
そうして行き着いた答えが『座らずに立っている』だった。
「……イリス、いつまでそうしているつもりだ?」
「いつまでって、到着するまでよ」
足を開いて立ち、揺れに合わせて体重移動をする。
日本でもバスや電車に揺られていたのだろう。
少し立っているだけで何となく感覚がつかめたイリスは、意外と上手に立ち続けていた。
筋力勝負なら一瞬で終わっただろうが、令嬢ボディでもバランス感覚は問題ないらしい。
「これも、昔取った杵柄って言うのかしら」
「何がだ?」
「何でもない」
ヘンリーの疑問に、慌てて答える。
いけない。
うっかり口に出してしまった。
イリスの考えがわかったらしいカロリーナは、笑いをこらえている。
ビクトルは渋い表情だが、あれは「令嬢が馬車の中で立つなんて、はしたない」と言いたいのだろうか。
だが、こちらは残念で名を馳せた人間だ。
今更、はしたないくらいのことで動揺するイリスではない。
復活した羞恥心も、強い意志の前ではなりを潜めている。
何故かこちらも渋い表情のヘンリーを横目に、イリスは意気揚々とバランスを取り続けた。
――盲点だ。
たしかに、バランス感覚は問題ない。
そこまでの筋力も必要としない。
だが、令嬢ボディに体力がないことに、変わりはないのだ。
しばらく立っていたイリスは、絶妙な揺れと疲労から段々と眠くなっていた。
何度か足の力が抜けてバランスを崩しては慌てて持ち直すイリスに、ヘンリーがため息をついた。
「……いつまでそうしているつもりだ? 座って眠れば良いだろう」
「平気。眠いだけ」
「だから。眠いなら、眠れよ」
会話をしていても、一瞬意識が飛んでしまう。
危うく壁にぶつかりそうになり、咄嗟に手を出そうとして痛みに呻く。
そのまま頭を壁にぶつけながら手の痛みに耐える姿に、ヘンリーが立ち上がった。
「……もう、いいから、眠れ」
イリスを引きずるように座席に座らせると、自身の胸にイリスの頭を抱える。
これは、なかなか恥ずかしい恰好ではなかろうか。
そうは思ったものの、眠気と疲労にまったく歯が立たない。
返事をする間もなく、イリスは深い眠りについた。
結局、モレノの宿まで眠ったイリスは、そのまま部屋に運ばれたらしい。
気が付くと朝で、腕に巻かれた包帯からは薬草の臭いがした。
そうしてまた馬車に乗ったわけだが、疲労は回復に至らなかったらしく、すぐに眠気が襲って来る。
立って我慢する気力もなく、イリスの頭を抱えるヘンリーにされるがままになっていた。
残念ブーストは切れているのにそれほどのダメージがないのは、もう克服したからなのか。
それとも、眠気が全てに勝っているだけなのだろうか。
そんなことを考える間もなく、イリスは眠りに落ちた。
夜にアラーナ邸に到着すると、半分眠った状態でヘンリー達に挨拶をし、そのまま自室で眠りについた。
ダリアが色々言っていた気がするが、何も耳に入ってこない
イリスの体は、疲労回復のためにひたすら睡眠を欲していた。