四人目の継承者
泥のように深く眠ったが、まだ疲労回復には至らない。
さすがは貧弱な体力の令嬢ボディ。
長旅だったのだから、熱を出さないだけましかもしれない。
これは、朝の鍛錬は難しいだろうか。
悩みながら起き上がったイリスのもとに、既に身支度を整えたカロリーナがやって来た。
「イリス、おはよう。早速だけど、二つお知らせがあるわ」
「おはよう、カロリーナ。お知らせって、何? ――まさか、ヘンリーが来たとか言わないわよね」
ヘンリー回避のためにここまで来たのに、それでもやって来たとしたら。
……イリスからすればちょっとしたホラーだ。
「大丈夫だから、そんなに怯えないの。……どれだけ怖いのよ」
びくびくするイリスを見て、呆れたといわんばかりに肩をすくめる。
「よくわからないから、怖いのよ。もしかしたら、平気かもしれないけど。……ともかく、少し時間を置きたいの」
「とりあえずは大丈夫だから落ち着きなさい。来たのはヘンリーじゃなくて、ニコラス」
そうか、良かった。
ヘンリーではなく、ニコラスか。
ニコラス……。
「……誰?」
「『モレノの毒』の継承者よ。ヘンリー、オリビア、お祖父様ともう一人。それが、ニコラスよ」
急いで身支度をしてカロリーナと共に向かうと、金髪の青年がソファーから立ち上がった。
「君がイリス? はじめまして、俺はニコラス・モレノ」
「イリス・アラーナです。はじめまして」
愛想の良い挨拶と共に、ソファーに座るように促された。
ニコラスは自身も腰掛けると、イリスをじっと見つめてきた。
継承者の証だという紫色の瞳にヘンリーを思い出してしまい、余計に気まずい気持ちになる。
「ニコラス、見過ぎよ。イリスが怖がるじゃない」
「ああ、いや、ごめんね。あのヘンリーが選んだ『毒の鞘』になる子だから、つい気になって」
ヘンリーはどれだけ縁談を蹴りまくっていたのだろう。
おかげで、イリスは珍獣扱いだ。
今までは残念扱いだったのだが。
はたして扱いが良くなったのか変わらないのかは、よくわからない。
「イリスは、俺のこと知らないよね? 俺は、ヘンリーの再従兄だよ。現在、最前線でこき使われている『毒』さ」
こき使われているというのは、どういうことだろう。
『モレノの毒』の継承者は四人と聞いているし、重要な人物だと思うのだが。
「ニコラスは、ヘンリーが生まれるまではモレノの跡継ぎ候補だったのよ。ヘンリーが生まれて保留になって、その後に変更されたの」
カロリーナの説明だと、モレノの跡継ぎの座をヘンリーに奪われたということになる。
それでは、複雑な感情を抱えたままモレノの仕事をしているのだろうか。
愛想良く話す様子からは想像もつかないと思って見ていると、ニコラスは笑った。
「カロリーナ、その言い方だとイリスが心配するよ? 少しの差で負けたというのなら嫉妬したかもしれないけれど、馬鹿みたいな差だから、何の嫉妬も生まれようがないよ。……寧ろ、ちょっと怖い存在だと俺は思っている」
「……怖い、存在」
その言葉に、ルシオに『モレノの毒』を使った時の光景がよみがえる。
凄絶な冷たい笑みを浮かべたヘンリーに、確かに恐怖を感じた。
背筋を寒気が走ったあの感覚は、それまで感じたことのないものだ。
「……ああ。ヘンリーの『毒』を見たことがあるんだね?」
ニコラスはイリスの表情の変化を察したらしい。
「あ、はい」
「そうか。なら、話が早いな。どのくらいの『毒』だったかわかるかな?」
「ええと。……ルシオ殿下は床をのたうち回ってわめいていました。ヘンリーは仕方ないから手加減した、せいぜいひと月、って」
どのくらいという基準が良くわからないので、とりあえずは見たことと聞いたことを伝えてみる。
だが、ニコラスの眉間に一気に皺が寄った。
「は? 殿下? ……あいつ、王族に『毒』を盛ったのか?」
「陛下の許可はいただいていたらしいわよ。次期当主の『毒の鞘』に手出しをしたから、特例だって」
「それにしたって、よくもまあ……。それに、なかなかえげつない内容みたいだし。大体、手加減してひと月って、なあ?」
ニコラスは大袈裟に肩をすくめて見せると、イリスに視線を移す。
「つまり、君に手を出した報復だろう? あのヘンリーが、ねえ。……人間、変われば変わるものだな」
なにやら感慨深げにうなずいているが、イリスには事情がよくわからない。
「それと、俺には敬語を使わなくていいよ。君はいずれ俺の上司の妻になるわけだし、その方が俺も気楽だから」
「……いいのかしら」
「俺が良いんだから、大丈夫。大体、カロリーナも年下だけどこんな感じだしな」
「ニコラスだからね。良いのよ」
「わかったわ」
カロリーナが笑うので、イリスもそれに従うことにした。
「ああ、話が逸れたね。『モレノの毒』は暗示に使ったり混乱させたり色々だから、一概には言えないんだけどね。『毒』を使った後いつまで保てるかで、力の強さを大まかに分けているんだ」
そういうとニコラスは紅茶に砂糖を入れ始める。
「オリビアみたいに、半日や一日が限度なのを、仮に『下』とするよ。そうすると、数日から十数日までいける俺が『中』、ロベルト様は『中の上』。ヘンリーの手加減してひと月、というのが破格だとわかるだろう?」
ニコラスは砂糖を入れながら、話を続ける。
「あいつは、いうなれば『上の上』。……そのヘンリーの『毒の鞘』だから、モレノの人間なら君に興味を持たないわけがないよ」
ついに砂糖の容器をひっくり返して残りをカップに入れると、スプーンで紅茶を混ぜ始めた。
完全に飽和状態を超えているらしく、スプーンが動くたびに砂がこすれるような音が響く。
「……あの」
「ああ。こんな話をして、不安になったかな?」
「いえ。お砂糖、入れ過ぎじゃないかと。……溶け残ってるわよね?」
イリスが真剣に尋ねると、ニコラスの手が止まる。
味の好みは人それぞれだろうから、余計なお世話だろう。
だが、紅茶一杯にあの砂糖の量では、体調が悪くなりそうで怖い。
「ニコラスはいかれた甘党なのよ。気にしないで、イリス」
笑いをこらえながら、カロリーナが砂糖の容器のふたを閉める。
「いかれた甘党。……そう。余計なことを言ってごめんなさい」
初めて聞く言葉だが、何故だろう。
親近感がわいてくるのは。
「私も、いかれたドレスを着る女と言われたし、いかれた者同士、よろしくお願いね」
「いかれたドレスって? 誰がそんなことを」
残念やら何やら各地で言われたイリスだが、いかれたという表現を使ったのは、確か。
『でも、一生懸命なイリスを見ているうちに、だんだん目が離せなくなって。顔に傷の化粧をして、太っているように見せかけて、いかれたドレスを着て、肉を両手に持ってうろつく変な女なのに。……好きになってた』
「……ヘンリーね」
かつて言われた言葉を思い出し、頬が赤くなるのがわかった。
やはり、残念ブーストの無敵装甲は情報を間引いてイリスの脳に伝えている。
言われた時は、褒められているような、けなされているような、何とも言えない感情だった。
だが、今思い返せば、それだけおかしなイリスでも好きなのだと伝えられているのがわかる。
これは、今までの自分が怖いし、これからのヘンリーが更に怖い。
どうにか生き延びるために、精神の鍛錬まで必要になりそうだ。
「王族に『毒』を盛るくらい大切な『鞘』に、いかれたドレスなんて言うヘンリーも大概だが。それで頬を染めるのも、おかしいと思うんだが」
「……この二人は、ちょっと色々残念がこじれているのよ。見守ってあげて」
更なる鍛錬に前向きなイリスの横で、モレノの二人はため息をついた。









