モレノの宿
「……ここ、どこ?」
アラーナ邸を出発した馬車は、夜になってこの建物に到着した。
だが、そもそもここがどこなのか、イリスはまったくわかっていなかった。
「今日はここに泊まるのよ」
「宿なの?」
「まあ、役割としてはそんなものね」
カロリーナの不思議な表現に首を傾げるが、オリビアは特に何の疑問もなさそうだ。
ということは、モレノ行きつけの宿なのだろうか。
馬車から下りてみれば、既に辺りは暗い。
半日ほど馬車移動したわけだが、そういえば目的の屋敷まではどのくらいかかるのだろう。
ヘンリーから離れることばかり考えていたせいで、肝心なことを確認し忘れていた。
やはり、イリスは残念な行動をとってしまう。
これはもう、残念が染みついたというよりは、そもそもイリス自体が残念なのではなかろうか。
そう思うと、少しばかり情けなくなった。
建物をよく見てみれば、宿という雰囲気ではない。
こぢんまりとしてはいるが、綺麗な屋敷だ。
これでここがモレノ邸だったら、ヘンリーからの逃避にはあまり役に立たない。
どうかモレノ邸ではありませんように、と願いながらカロリーナについて中に入ると、数人の使用人が出迎えてくれた。
「ドロレス様、ようこそいらっしゃいました」
「ああ。それよりも、この子達を休ませてくれるかい」
ドロレスに頭を下げていた使用人達が、一斉にこちらに視線を向ける。
「カロリーナ様、オリビア様。……では、あちらのお嬢様が」
「イリスだよ。ヘンリーの『毒の鞘』になる子だ」
使用人全員の息を呑む音が聞こえた気がする。
いくらなんでも反応しすぎだと思うのだが、どういうことだろう。
今日は残念ドレスを着ているわけではないし、顔に傷の化粧もしていない。
初見で引かれる要素はないはずなのだが、何か良くなかったのだろうか。
それとも、隠しきれない残念が滲み出ているということか。
だとしたら、もうどうしようもないので、素直に謝るしかない。
「失礼いたしました。イリス様、ようこそモレノの宿へ。すぐにお部屋にご案内いたします」
「は、はい。よろしくお願いします」
年嵩の使用人の男性が案内してくれた部屋は、簡素だが明るく清潔で心地良い。
ちらりと眺めただけでも、手入れが行き届いているのがよくわかった。
「ねえ、カロリーナ。モレノの宿って、何なの?」
部屋数はありそうだったが、イリスとカロリーナは同室だった。
イリスとしては楽しいので良いのだが、色々と聞きたいことが山積みだ。
「モレノの構成員専用の休憩施設ね。ここはモレノ本邸と別邸の中間くらいだし、宿泊に使われることが多いわ」
屋敷の中間ということは、少なくともあと半日は移動するのだろう。
全体では馬車で一日以上かかるということだ。
それくらい離れていれば、ヘンリーも簡単には来られないだろう。
嬉しそうにうなずくイリスを見てカロリーナが苦笑する。
「モレノ本邸からは馬車で大体一日半から二日かかるわ。ヘンリーは仕事があるから、来られないわよ」
「なら、安心ね」
安堵のため息をつくイリスと共にソファーに座ると、カロリーナがおもむろに肘掛を持ち上げて外した。
「な、何してるの?」
「確認よ。ここに武器を隠してあるの」
そう言って再び肘掛を元に戻すと、その上に腕を乗せて寛いでいる。
「何で、武器?」
「いつ何があるか、わからないから。モレノの宿だから安全ではあるけどね」
「……そんなに物騒なの?」
怯えるというよりは驚きの感情の方が強い。
「私なんかは、滅多に遭遇しないけどね」
「ヘンリーは『軽い襲撃くらいなら、日常茶飯事』って言ってたわ」
あれは、本当にそういうことなのか。
別に疑っていたわけではないが、こうして隠し武器が普通に用意されているのを見ると、現実感がある。
「ヘンリーは、ちょっと特殊だから。あんまり参考にならないわね」
「特殊?」
「次期当主なんだから、本来は統率する側なのよ。でも、あいつは最前線で働くことも多い。他の構成員と違って侯爵令息として顔も知られているから、狙われやすいしね」
「……大丈夫なの?」
「ヘンリー自身は大丈夫よ。剣の腕前はおかしいし、あれこれと仕込まれているしね」
きっぱりと言い切るのだから信頼されているというか、ヘンリーが凄いというか。
感心していると、カロリーナにじっと見つめられていることに気付く。
「な、何?」
「……だから、ヘンリーの代わりにイリスが狙われるかもしれない」
「私が?」
「次期当主の弱点だからね。ヘンリーを相手にするよりもずっと簡単で、効率が良いわ。……実際、ルシオ殿下もイリスに接触してきたでしょう?」
確かに、王弟のルシオがモレノ侯爵家次期当主としてヘンリーを狙った際、イリスを攫うという行動に出ている。
「……じゃあ、私が足手まといになっているのね」
あの時も、ヘンリーが助けに来てくれたから無事だったというだけだ。
イリスだけなら怪我では済まなかったかもしれない。
これからもあんなことがあるのだとしたら、令嬢ボディで貧弱なイリスは格好の的ということか。
「そこは仕方ないから、あんまり気にしないで……」
「――なら、やっぱり、魔法の鍛錬に力を入れるべきね!」
体力なし、腕力なしの貧弱令嬢ボディで身を守るには、それしかない。
隙間の凍結マスターにでもなれば、きっと今より少しはましだろう。
拳を掲げた姿を見て、カロリーナはぽかんと口を開け、次いで笑い出した。
「やっぱり、あなたがヘンリーの『鞘』で良かったわ」
そう言うと、イリスをぎゅっと抱きしめた。