ブースト切れで見えたもの
「モレノ侯爵領? 結構な距離じゃないか。それを今日からって」
プラシド・アラーナ伯爵は、驚くというよりも呆れた様子で娘のイリスを見ている。
当然の反応だとは思うが、こちらだって丸腰で生き抜く残念サバイバルなのだ。
ここで引くわけにはいかない。
「モレノの先代当主、ヘンリーのお祖父様にご挨拶しようと思いまして」
「それは大切だが。……じゃあ、ヘンリー君も一緒なのかい?」
父からのまさかの攻撃に、イリスはよろめいた。
油断したところに、こんな一撃を食らうとは。
これが『油断大敵』というやつか。
先人の知恵は本当に凄い。
一体、先人達は何と戦ってこんな教訓を得たのだろうか。
少なくとも、羞恥心ゼロからの残念ブースト切れで婚約者から逃げていないことだけは、確かだ。
「ヘ、ヘンリーは忙しくて。代わりに、カロリーナも一緒です。あと、ヘンリーの従妹も」
「そんなにいるなら、先方も迷惑だろう」
「大丈夫です。ちゃんと許可もいただきました。ただ、私一人だけという条件なんです」
「まあ、確かに侯爵家の別邸を訪れるのに、こちらから使用人を連れて行くのも失礼だな。……そういうことなら仕方ないが。くれぐれも、失礼のないようにね」
「はい、大丈夫です」
「迷惑をかけないようにね」
「はい、大丈夫です」
「変な残念を広めたりしないようにね」
「はい? ……大丈夫です」
何やら妙な言葉が混じっていたが、気にしないでおこう。
「私は反対です。お嬢様一人を送り出すなんて!」
憚りなく文句を言いながら、ダリアが着替えの用意をしている。
「でも、あちらの条件だから、ダリアを連れてはいけないのよ」
「わかっております。侯爵家の指示ですからね。ですが、納得はできません」
語気は荒いが、着替えの用意は丁寧だ。
「大体、お嬢様はまだ病み上がりなのですよ。ただでさえ、ろくな体力もないというのに。長距離移動など、体調を崩すに決まっています」
「大丈夫よ、たぶん」
「大丈夫じゃないから言っているのです。お嬢様はご自分の貧弱ぶりを、少しは自覚なさってください」
「貧弱って……」
確かに令嬢ボディの体力は底辺の代物だから、ダリアの言い分には一理ある。
だが、ヘンリーに精神を攻撃されるくらいなら、体調不良で寝込む方を選びたい。
いや、寝込んだら面倒見の鬼が活気づいてしまうから、やっぱり駄目だ。
「……難しいわね」
イリスが悩んでいると、大きなため息が聞こえてくる。
「お嬢様の風邪は、のどの痛みから始まりますから。のどに良い飴を入れておきます。あとは、体を冷やさないようになさってください。間違っても、氷の魔法で冷却しすぎないようにお願いいたします」
「ありがとう、ダリア」
「それから、残念ドレスは入れませんからね」
「もちろんよ」
婚約者の祖父を訪ねるのに、残念なドレスは必要ない。
だが、即答したイリスを見て、ダリアは驚愕の表情で固まっている。
「……ようやく、残念熱が解熱の時を迎えたのですね……」
何だか感慨深げに飴の缶を握りしめている。
そんなに温めたら、すべての飴が一つになってしまう。
大体、残念熱とは、一体何だ。
残念は病気扱いなのだろうか。
不満はあったが、過去の自分を振り返って、イリスは口を閉ざすことにした。
「イリスさん、行っちゃうんですか?」
モレノ侯爵家に連絡を入れて迎えを待っていると、クレトがやって来た。
既にアラーナ邸にも部屋を持っているクレトは、実家に帰ることの方が稀になっていた。
「あちらのお祖父様に挨拶に行くだけよ」
「でも、移動もあるし、しばらくは会えないですよね?」
それはそうだ。
寧ろ、それを狙ってモレノ侯爵領に行こうとしているのだ。
ヘンリーの祖父はついでのような状態なのだが、それはさすがに言えない。
「イリスさんがいないと寂しいです。俺、イリスさんに会いたいから、ここにいるのに」
子犬のような潤んだ瞳で見つめられたら、何だかこちらも切なくなってくる。
それに、よく考えると言っていることが凄い。
そんなつもりはないのだろうが、まるでイリスを慕っているみたいに聞こえて、何だか照れてしまう。
「……どうしたんですか?」
「え? 何が?」
見れば、クレトが不思議そうにイリスを見つめている。
「だって。俺が会いたかったとか、幸せにするとか言っても、笑って流していたのに」
そうか。
やはり、羞恥心ゼロの残念装甲は、鉄壁だったらしい。
クレトは弟のようなものだから特に意識はしていなかったが、『幸せにする』なんて普通はきっと言わない。
少年にありがちな、年上への憧れ的な物だろうけれど、それでも好意は確かにあるのだとわかってしまった。
「そうね。気付かなくて、ごめんね。……ありがとう」
「イリスさん……?」
訝し気なクレトを残して、イリスは迎えの馬車に乗り込む。
まさか、クレトがイリスを慕ってくれていたとは。
カロリーナは『イリスはもともと鈍感』と言っていたが、こういうことなのかもしれない。
思い返せばクレトの言葉は、かなりストレートに好意を出している。
それでもこの認識なのだから、イリスの鈍感と羞恥心ゼロからの残念ブーストとの相性は最高なのだろう。
こうなると、もしかしなくてもヘンリーのことも相当間引いた情報がイリスの脳内に届いている、ということだ。
申し訳ない、とは思う。
本当は何を伝えられていたのか知りたい気持ちもなくはない。
だが、今はまだ、受け入れるだけの心の余裕がない。
もう少し落ち着くまでは、保留させてもらおう。
イリスは車窓に流れる景色を眺めながら、小さく息をついた。