残念ブーストが切れました
「俺の、大切で残念な、『毒の鞘』。……もう少し自覚してくれよ」
ヘンリーはそう言うと、イリスの指輪に口づける。
その瞬間、イリスの瞼の奥に閃光が走った。
――懐かしい光だ。
そう思う間もなく、イリスの脳内に一気に沢山の思考が押し寄せる。
「うん……?」
とても処理できずに言葉を失っていると、ヘンリーがイリスの頭を撫でる。
「馬車の中で眠っても良いからな。俺はちょっと面倒な仕事があって、しばらく会いに行けないかもしれないけど、何かあれば呼んでくれ」
手を引かれて歩きながら、イリスは上手く返事をすることができなかった。
アラーナ邸まで、何を話したのか覚えていないが、たぶん上の空だったと思う。
それでもヘンリーが特に追求しなかったのは、イリスが疲れていると思ったからだろう。
ある意味で、それは正解だ。
イリスの脳内は、今までの記憶と思考でごちゃごちゃになっていた。
自室のベッドに横になるが、体は疲れ切っているのに、妙な興奮で眠れない。
今思い出したのは、『ヘンリーは残念状態のイリスが良い』という誤解が解けた時の記憶だ。
そっと指先で唇に触れてみる。
確かに、柔らかい何かが、ここに触れた。
「……あの時、キス、した?」
本当に?
指で触っただけの可能性もあるが、『今はこれで我慢しておく』という言葉を考えればキスしたと考えるのが妥当だろう。
でも、何故?
『警戒心を持って行動すること』と言っていたのは、警戒しないとキスするという意味なのだろうか。
それとも、警戒してキスを防げということか。
そもそも、『目を閉じて』と言ったのはヘンリーだが、それ自体を警戒しろという罰なのか。
何故、キスしたの?
それは、普通に考えれば――好きだからだ。
「――嘘、でしょ」
イリスは顔を手で覆うと、ベッドの上でうずくまった。
ヘンリーの好意に気付いていなかったということではない。
自分の意識と理解が信じられなかったからだ。
ヘンリーは好きだと言ってくれたし、プロポーズされている。
そういう間柄なのだ。
イリスとヘンリーは。
恋人をすっ飛ばして、既に婚約者になったくらいだ。
そりゃあ、他の男が寄ってきたら良い気持ちはしないだろう。
警戒心を持てと言いたくもなるだろう。
実際、イリスは警戒心など皆無だった。
皆無どころか、警戒心という言葉自体が存在しないような有様だった。
それは、そういう思考がすっぽりと抜けていたからだ。
閃光と共に『碧眼の乙女』の記憶を取り戻した代償なのだろうか。
イリスが本来持っていたはずの、伯爵令嬢としてのたしなみというか羞恥心のようなものが、ごっそりと綺麗に失われていたのだ。
でなければ、『残念な令嬢になろう』などと思いついても実行はできない。
日本で言うならば、『今日は暑いから、素っ裸で出かけよう』というくらい、ありえない。
なのに、イリスは見事に残念街道をひた走った。
『伯爵令嬢イリス・アラーナ』だったら、あそこまではできなかっただろう。
結果的には生き延びたので良かったのだろうが、令嬢としては色んなものを失ってしまった気がする。
思い返してみれば、カロリーナが逃避を選んで隣国に行き、悪評を立てられても放置していたのだっておかしい。
カロリーナは、やられたらやり返す。
何なら、やられそうな時点で先にやり返す。
その彼女が何もしないうちから逃げて、そのままだんまりを決め込んでいたのは、今考えれば不自然だ。
ベアトリスだって、大人しくやられている人間じゃない。
彼女は自分の生まれを理解しているし、それに伴う責任を果たす代わりに、利益もちゃんと享受する。
王子との婚約は、公爵令嬢の責任として受け入れていた。
だからこそ、それを反故にした相手には公爵家として相応の対応をしたはずだ。
だが、殴りたくなるとは言っているものの、大きな行動を取った様子はない。
ダニエラもそうだ。
応援しても冤罪で修道院に入れられるなんておかしいし、目撃者は多数いたはず。
だが、彼女もあっさりとそれに従っている。
好奇心旺盛な彼女が、事態の調査も把握もしないでさっさと修道院に入るのも、やはり不自然だ。
たぶん、『碧眼の乙女』の記憶は、何かと引き換えにしてよみがえったのだ。
それにしても、何故今さらこんなことを思い出したのだろう。
やはり、さっき瞼の裏に閃光が走ったのが関係しているのかもしれない。
『碧眼の乙女』のシナリオから完全に離れたということなのだろうか。
それとも、まだ何かあるのだろうか。
だが、問題はそこではない。
今までは、命がけで発動していた残念ブーストとでも言うべき状態だったのだ。
それが今、途切れてしまった。
もちろん、残念という思考と経験はイリスの中に残っている。
余人には真似のできない残念な装いだって可能だ。
だが、一点の曇りもない眼差しで残念をとらえていたイリスには、もう戻れない。
簡単に言うと、恥ずかしくて、今まで通りにはできそうにない。
そうなると、一番の問題はヘンリーだ。
思い返せば、何やら恥ずかしいことを言われていた気がする。
幸か不幸か、残念ブーストの鉄壁の防御のおかげでまったくの無傷だったわけだが。
その防御壁がなくなってしまったのだ。
「私、何で今まで平気だったのよ……」
理由はわかったが、愚痴を言いたくもなる。
実際は愚痴を言いたいのはヘンリーの方だったのかもしれない。
何を言っても響かないのだから、さぞや空しかっただろう。
だが、それに慣れたであろうヘンリーと違って、イリスは突然の残念ブースト切れだ。
それこそ、心が素っ裸状態だ。
次にヘンリーに会うのが、もはや恐怖でしかない。
頼むから、好意を感じさせる言葉は口にしないでほしい。
貧相とはいえ羞恥心を取り戻したばかりなので、リハビリ期間が欲しい。
いっそ、しばらく会わずに過ごしたい。
そう思ってはみたが、それはそれで寂しいと思う自分がいて、イリスは頭を抱えた。
「初恋こじらせてるみたいじゃないの。婚約者なのに」
どうしたら良いのか、途方に暮れる。
もともと、イリスは色恋に疎いし、ろくに経験もない。
しかも、転生の記憶とそれに伴う喪失と復活というややこしい事態だ。
とりあえず、ヘンリーと距離を置きたい。
少し時間が空けば、このざわついた記憶と心も落ち着くだろう。
まずはヘンリーと接しない方法を考えよう。
確か、『ちょっと面倒な仕事があって、しばらく会いに行けないかもしれない』と言っていた。
この上なくありがたいことだが、相手は面倒見の鬼だ。
手放しで信じてはいけない。
何かの拍子にふらりと来る可能性だってある。
ベアトリスやダニエラの所に泊まり込んだとしても、きっとモレノのあれこれで筒抜けだろう。
ヘンリーが会おうと思えば、すぐにでも会えるのだ。
その時、イリスは閃いた。
ドロレスは『ちょっと用ができたから私とオリビアは明日の夕方には帰る』と言っていた。
『田舎にも遊びにおいで』とも。
モレノ侯爵領のどのあたりなのかはわからないが、半日もかからないような近場ではないだろう。
いくらヘンリーでも、物理的な距離までは縮められまい。
しかも、面倒な仕事とやらでアラーナ邸にすら会いに行けないかもしれないと言っているのだから、きっと安全だ。
図々しいにもほどがあるし昨日の今日で空気が読めないとは思うが、もうここにすがるしか道はない。
羞恥心を取り戻して最初の行動が、図々しく田舎へ同行を頼むという矛盾に、イリスは切なくなった。