番外編 カロリーナの慰め
「――俺が誰だか、わかるか」
ヘンリーが、恐る恐るという様子でイリスに尋ねる。
その言葉と顔色に、カロリーナはようやく違和感の正体に気付く。
イリスは目覚めてから一度も、ヘンリーの名前を呼んでいない。
返答もすべて、敬語だ。
まるで見知らぬ人のような、他人行儀な対応をしている。
「ごめんなさい。……どこかで会いましたか?」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
ヘンリーのことが、わからないのか。
「オリビア! あんた、何をしたの!」
「ヘンリー兄様を忘れるように、暗示をかけました」
「あんた……!」
カロリーナはオリビアの胸ぐらを掴んで睨みつけた。
やはり、『モレノの毒』の暗示か。
今は『毒の鞘』の試験だというのに、何故こんな真似をしたのか。
それも、よりによって、ヘンリーを忘れる暗示などを。
「カロリーナ、落ち着きなさい。もって半日だ」
ドロレスが宥めるように言うが、そういう問題ではない。
きらきらと氷の欠片が舞う中、イリスは不思議そうにカロリーナを見ている。
ヘンリーを忘れたのなら、当然婚約の話も消えているはず。
そうなれば、この部屋の中で知人は、カロリーナ一人だけなのかもしれない。
不安な思いをさせては、かわいそうだ。
カロリーナは、しぶしぶオリビアから手を離した。
「……あと少しって、言ったよな?」
顔色が悪いままのヘンリーは、真剣な顔でイリスを見つめていた。
「待つから。だから。――俺を、呼べよ」
ヘンリーの言葉と同時に、イリスの周囲に冷気が溢れ出す。
イリスの周囲に現れた氷の欠片が集結して、抱えきれないほどの大きさになった瞬間、一気に砕け散った。
きらきらと煌めく氷の雨の中、華奢な体が傾ぐ。
「……ごめんね、ヘンリー」
色を失った唇でそう言って、イリスは意識を失った。
今、確かにヘンリーの名前を呼んだ。
オリビアの暗示が解けたのだろうか。
……いや、いくら何でも早すぎる。
イリスが冷気を発していたところを見ると、無数の氷も彼女が出したものなのだろう。
あれが関係しているのかもしれないし、ヘンリーが何かしたのかもしれない。
カロリーナは『モレノの毒』の継承者ではないし、魔法にも疎いのでそのあたりはよくわからなかった。
イリスはぐったりと力なく横たわっていて、顔色も悪い。
魔力のことはわからないが、あれだけの冷気を放ったのだから、相当冷えているのだろう。
とりあえず、休息が必要だ。
「ビクトル、寝室の用意をさせて。部屋も暖めてちょうだい」
「は、はい。カロリーナ様」
ビクトルが慌てて部屋を飛び出すと、ヘンリーは上着を脱いでイリスにかける。
表情は見えないが、じっとイリスを見つめているのはわかった。
「……あの、ヘンリー兄様」
オリビアが口を開いた瞬間、ヘンリーはイリスを抱きかかえて立ち上がった。
「――俺に話しかけるな」
カロリーナは思わず身震いをした。
イリスの放った冷気とは違う、もっと底冷えする何かが背筋を撫で上げる。
――『モレノの毒』だ。
『毒』の魔力が、ヘンリーから漏れ出している。
たぶん、本格的に漏れているわけではない。
それでも、カロリーナはヘンリーが『毒』を抑えられないのを、初めて見た。
********
「……あんた、何であんなことしたの?」
イリスとヘンリーの婚約披露パーティーが終わり、ドロレスが二人を呼んでくる間。
ずっと気になっていたことを、オリビアに聞いてみた。
「……私、ヘンリー兄様が好きだったんです」
「ああ。……まあ、知っていたわ」
ヘンリーは従妹として可愛がっていたが、オリビアの方はヘンリーに向ける目が違う。
認識の違いか性差のせいか、カロリーナにはその好意がわかっていた。
だが、それと今回のことがどう結びつくのだろう。
「婚約者のイリスを害すれば、ヘンリーが怒るとは思わなかったの?」
「私、お飾りの婚約者だと思っていたんです」
「お飾り?」
「以前、ヘンリー兄様が美女に恋して夢中になるよりも、関心のないパートナーの方が影響が出ない、って言っていたから。どうでも良い変な女を選んだんだと思って」
確かに、そんな感じの言葉を聞いたことがある。
ヘンリーは優秀ではあるが、そういうところが淡白というか、無関心なところがあった。
「でも、実際は綺麗な子だったから……嫉妬したんです」
確かに、イリスは控えめに言って可愛い。
残念装備とかいう困った状態でなければ、普通に美少女でしかない。
「どうせ私の暗示なんて、もっても半日くらいだし。ヘンリー兄様のことを忘れて、少しでも気まずい関係になれば良いって思って。ただの八つ当たりです。でも……ヘンリー兄様があんなに怒るのを初めて見ました」
「確かにそうね。私も、ヘンリーが『毒』の魔力を抑えきれないのを、初めて見たわ」
オリビアはうつむくと、唇を噛んで涙をこらえているようだった。
「とりあえず、ちゃんと謝りなさい。それが先決よ」
「ヘンリー兄様、もう私の事嫌いになりましたよね? あんなに大事にしている婚約者に、自分を忘れる暗示をかけて。おかげで怪我して寝込んだんですから。軽蔑してますよね?」
涙を浮かべながら、カロリーナの腕に縋りつく。
カロリーナにとっても可愛い従妹だから、大丈夫だと言って慰めてあげたい。
だが、こればかりはそうもいかなかった。
「好き嫌いの前に、指示に従わずに『毒の鞘』候補に害を与えたことが問題よ。オリビアも、モレノならわかるでしょう?」
「……処罰を、受けるんですよね。きっと」
「モレノのことは本来当主のお父様が決めることだけど、この件はヘンリーに任せると言ったらしいから。ヘンリー次第ね」
「……あの人、『毒』の暗示を自力で解除しましたね」
「え? ああ、イリス? そうね。私もイリスがあんなことできるとは、知らなかったわ」
悪役令嬢のハイスペックが素地にあるとしても、説明がつかない。
きっと、イリスは『碧眼の乙女』との戦いの後も、魔法の鍛錬を続けていたのだろう。
それにしたって妙な魔法の使い方だが、『モレノの毒』の暗示を解除できるのだから十分に凄い。
「……いいなあ」
オリビアがぽつりと呟く。
「ヘンリー兄様に大切にされて、魔法の才能もあって、綺麗で。……私が欲しかったもの、全部持ってるんですから」
笑うオリビアの頬に涙がつたう。
「いいなあ……」
カロリーナは何も言わずに、オリビアの頭を撫でた。