番外編 オリビアの夢
「ヘンリー兄様が婚約する……?」
その報せに、オリビアは衝撃を受けた。
ヘンリーはオリビアの憧れの人だ。
『モレノの毒』の継承者としてはもちろん、次期当主としても非の打ちどころのない仕事ぶりが評価されている。
特に『モレノの毒』は、現在四人いる継承者の中では最も強い力を持っているらしい。
オリビア自身も継承者ではあるが、断トツで弱い。
継承者の証である瞳も薄紫色と、何とも弱々しい限りだ。
ヘンリーは端正な顔立ちの侯爵令息なので、よく女性達に声をかけられる。
だが、特定の女性をそばに置くことはなく、特定の女性に親切にするようなこともない。
そんな中でも、オリビアには優しくしてくれるのだから、少しは期待して良いのではないかと思っている。
美少女とまではいかなくても、オリビアも容姿は悪くはない。
モレノの一員として最低限のことは学んでいるし、事情を理解している分だけ気安いはずだ。
ヘンリーの伴侶である『毒の鞘』。
それが、オリビアの夢だった。
なのに、突然ヘンリーが婚約するという。
信じられないその悲報をオリビアに告げたのは、ドロレスだ。
ヘンリーの祖母であり『毒の鞘』である彼女に呼び出された時には、淡い期待すら持っていたのだが。
現実は、なんて残酷なのだろうか。
「……相手は、誰ですか」
「アラーナ伯爵令嬢だよ。名前は、イリス。カロリーナの友人らしい」
アラーナ伯爵の名前は、あまり聞いたことがない。
モレノで名前が挙がらないということは、取り立てて上位で影響力があるわけでもなく、ごく真っ当な生き様ということだろう。
可もなく、不可もない家柄だ。
問題なのは。
「カロリーナ姉様の紹介、ということですか?」
「さあ? でも、ヘンリーがひとめぼれでもして自ら声をかけたのでなければ、カロリーナの紹介はあったんじゃないかい?」
あのヘンリーが、ひとめぼれなんてするとは思えない。
ならばカロリーナが関わっているのだろうが、それはそれで由々しき事態だ。
ヘンリーの事情も性格もわかっているカロリーナは、今まで女性を紹介したことなどないので安心していた。
一番近しい女性である姉の紹介となれば、さすがにヘンリーだって気に掛けるかもしれない。
安全だと思っていたルートの落とし穴に、オリビアは歯噛みした。
「何でも、残念の先駆者とか呼ばれていて、ちょっとした有名人らしいが。……まあ、ヘンリーが『鞘』を持ってくれるのなら、細かいことはどうでもいいよ」
「残念……?」
噂は耳にしたことがある。
何でも、残念ラインとかいう奇抜な色やデザインのおかしなドレスがあるらしい。
その関係者ということは、本人も相当変わっているか、残念な容姿なのだろう。
よりどりみどりのはずのヘンリーが、何故またそんな変な女に関わっているのだろう。
「……もしかして、だからですか」
オリビアはピンと閃いた。
ヘンリーの伴侶は、即ち『毒の鞘』。
継承者を包み込んで癒すと比喩されるその存在は、諸刃の剣だ。
外部の人間は、モレノで育ってきたものと違い、どうしても危機管理や武力で劣る。
そこを狙われることも多く、『鞘』の中には襲撃で命を落とした者もいると聞いたことがある。
しかも、ヘンリーはただの継承者ではなく、モレノの当主になる人物。
その弱点にもなる『毒の鞘』には危険が付きまとうだろう。
『美女に恋して夢中になるのも、あまり良くないからな。それなら、関心のないパートナーの方が、影響が出にくいだろう』
ずっと前に女性の好みを聞いた時に、ヘンリーはそう言っていた。
当時は美人が好きじゃないのかな、くらいにしか思わなかったが、今ならわかる。
――『毒の鞘』は、狙われる。
万が一の時に失っても影響のない人間、特に関心のない人間。
そういう伴侶の方が、モレノの当主として合理的と言いたかったのだろう。
つまり、イリスという伯爵令嬢は、お飾りとしての伴侶なのか。
納得と共に少し安心した。
だが、婚約するということ自体は変わっていない。
どうにか、今からでも気持ちを変えてもらえないだろうか。
確かに変な女をお飾りで置くのは、都合が良いかもしれない。
だが、オリビアならモレノの教育を受けているから、心配は格段に減るはずだ。
ヘンリーも、どうせならばお飾りの変な女よりも、自分を想うオリビアの方が良いと思ってくれるのではないか。
「婚約披露パーティーに呼ばれているんだが。オリビア、おまえも一緒に行くよ」
「は、はい!」
思いがけない言葉に、オリビアは歓喜する。
これは、ドロレスも同じことを考えてくれているのかもしれない。
どちらにしても、ヘンリーに訴えるには会わなければどうしようもないのだから、この誘いは渡りに船だ。
――イリスという女を見定めて、ヘンリーにオリビアの想いを伝える。
オリビアの夢のため、ヘンリーの幸せのため。
この任務を成功させなければいけない。
オリビアは小さく拳を握りしめた。