『毒の鞘』の意味
「まずはお疲れ様。部屋を移そうか」
パーティーを終えて招待客が帰ると、ドロレスはそう言ってイリスとヘンリーを別室に案内した。
部屋に入ると、既にカロリーナとオリビアが座っている。
勧められるままにソファーに腰を下ろすと、隣にはヘンリーが座る。
カロリーナは押し黙っているし、気のせいかオリビアの目が赤い。
何となく口を開くのがためらわれて、イリスは紅茶に手を伸ばした。
「本来の指示以外の『毒』を盛ってしまい、結果としてイリスが負傷して寝込むことになったのは私達のせいだ。申し訳なかったね」
「い、いえ。寝込んだのは凍結で冷えて熱が出たせいなので、私のせいです。気にしないでください」
ドロレスの謝罪に、イリスは慌てる。
令嬢ボディは体力もなければ、冷えにも弱い。
困ったものだが、今回はさすがに冷えすぎたので仕方がないだろう。
「……私はね、オリビアが指示通りの暗示をかけなかったことに、すぐに気付いていたんだよ」
「え?」
思いがけない言葉に、全員の視線がドロレスに集まる。
「解除できる可能性もあったが、あえてそのままにした」
ドロレスの言葉に、ヘンリーの表情がみるみる曇っていく。
「ヘンリーは、オリビアよりもずっと強いロベルト――ヘンリーの祖父をはるかに凌ぐ『毒』の持ち主だ。身の内に毒を飼う継承者にとって、精神の安定が何よりも重要。バランスを崩せばそれは自らを蝕む。……イリスは、『モレノの毒』の継承者の伴侶が、何故『毒の鞘』と呼ばれるか知っているかい?」
「いいえ」
「今は、包み込んで癒すという比喩で呼ばれることが多いけれどね。本来は『毒』を正しく収める補佐をするという意味で『鞘』と呼ぶんだ」
「補佐、ですか?」
「そう。毒の瓶ではなく『鞘』と呼ばれるのは、ただの入れ物ではないからだよ。『毒』を収める補佐であり、必要時にはその力を抑えることが求められる。……役割はそれだけじゃないけどね」
どうやら、継承者の伴侶の呼び名というだけではなかったらしい。
ヘンリーは何だか難しい顔をしているが、よくわからないと言っていたのだから、きっと初耳なのだろう。
「『毒』がそれほど強くない継承者の伴侶ならば良い。だが、ヘンリーの『鞘』ならば話は別だ。解除とまではいかなくても、抵抗性くらいはないと。伴侶の『毒』に当てられるようでは困るからね――だから、様子を見た。イリスがすぐに反応できていたからとはいえ、それでも放置したことには変わりないよ」
そう言って、ドロレスはヘンリーに視線を移す。
「……怒っているかい? ヘンリー」
「オリビアに指示したわけでは?」
「ないね」
「何の暗示だったかは?」
「おまえにわからないのなら、私にわかるはずもないよ。私にわかったのは、本来の指示とは違うということだけだ。継承者が『毒』を使うのを見た回数なら、私以上の者はいないだろうね」
ドロレスの答えに一応納得したのか、ヘンリーが押し黙る。
「放っておいても半日程度で切れるオリビアの『毒』を、初見で解除した。ヘンリーが止めて意識を失わなければ、盛られたその場で解除できたかもしれない。……まあ、その場合は体が氷に包まれそうだったが」
必死だったのであまり覚えていないが、ヘンリーは『氷を握りしめて血を流す』と言っていた。
たぶん、それで止めたのだろう。
どうやら、止めなければイリス自身が凍結していたようなので、ヘンリーに感謝だ。
「初見でこれなら、かなりの資質だ。普通は、抵抗性があれば良い方という程度だからね。……安心したよ。万が一ヘンリーが暴走するようなことがあったら、心おきなく凍らせてやりなさい」
「は、はあ……」
何と答えたら良いのかわからず、イリスが声を漏らす。
「それより、解除できる可能性というのは、どういうことですか?」
「イリスが凍らせて解除するのと一緒だよ。私の場合は、これ」
そう言って、ドロレスは手を何度か振り下ろす。
「私の渾身の平手打ちで、大体は解除できる。オリビアの『毒』くらいなら、大丈夫だっただろう」
理屈もよくわからないが、それにしても平手打ちの素振りで起きる風が強すぎはしないだろうか。
何故、手を振っただけで離れたソファーに座るイリスの前髪が揺れるのだ。
つまり、様子見されなければ、イリスはあれを食らっていたのか。
「イリスにそれは、やめておいてください。……シャレにならない」
ヘンリーがため息と共に首を振る。
確かに、令嬢ボディに渾身の平手打ちは危険だ。
軽く骨折くらいはしそうで、笑えなかった。
「――それで。何で指示通りの暗示をかけなかったんだ。オリビア」
ヘンリーに問われ、オリビアはうつむく。
「……急に出て来た女に、ヘンリー兄様を盗られた気がして。悔しくて、嫌がらせをしてやろうと思ったんです」
急に出て来た女。
……何だ。
イリスが残念過ぎて相応しくないからではなかったのか。
ちょっと安心したイリスと違い、ヘンリーは無表情のまま聞いている。
「俺のことを忘れる暗示だったのは?」
「ヘンリー兄様を忘れるような薄情な女、って少しでも思わせたくて。……どうせ、私の力ならせいぜい半日程度だし、それくらいは何でもないだろうと思ったんです」
実際、イリスはヘンリーを忘れたわけだから、立派に薄情な女だ。
オリビアの目的は果たせたわけだが、これで気が済んだのだろうか。
「……半日も続けば、俺の『毒』も漏れただろうな」
「そ、そうですよね」
ヘンリーの言葉に、オリビアが目に見えて怯えている。
「どうせお飾りの婚約者だろう、って思っていました。ヘンリー兄様が、あんなに怒るなんて……大事にしているなんて思わなかったんです。ごめんなさい」
オリビアは泣きそうになっている。
この絵面だけ見ていると、ヘンリーが少女をいじめているようにしか見えない。
「愚かなことをしました。ヘンリー兄様の『毒』での処罰も覚悟しています」
震えながら告げるオリビアを見ても、ヘンリーは表情を変えない。
これは、本当に『モレノの毒』を使うのかもしれない。
イリスは思わずソファーから立ち上がった。
「待って、駄目よ」
急に立ち上がったせいで、軽い眩暈を起こしてよろめく。
まったくもって、令嬢ボディは扱いにくい。
「危ない、座れ」
ヘンリーに手を引かれ、倒れこむようにソファーに座る。
すぐに座ったおかげで、眩暈は程なく落ち着いた。
「……何で止めるんだ?」
理解できないという顔で、ヘンリーが問い返してくる。
「じゃあ、何に対して処罰をするっていうの?」
「イリスに危害を加えた」
「危害って……。寝込んだのは、私の凍結のせいだわ。手の怪我だって、そうよ」
「そのきっかけになったのは、オリビアだ」
何の感情も揺らがないという様子に、イリスは苛立った。
今だって、ふらついたイリスが座る時にひっくり返らないように、支えてくれたのに。
そんな面倒見の鬼が、何故身内のオリビアに冷たいのか。
コンラドだって、『ヘンリーは身内に甘い』と言っていたのに。
「私が被害者だっていうのなら、私の意見を聞いてくれても良いじゃない」
「……オリビアを罰するのは、気が重いか?」
「違うわよ、馬鹿。そりゃあ、目の前で可愛い子が処罰されるなんて嫌だけど」
「じゃあ、何だ?」
「ヘンリー、『毒』をオリビアさんに盛ったら、後悔するわ」
すると、ヘンリーが微かに笑った。
「……俺は、そんなに優しくないよ」
自虐と言うよりも、真実をただ伝えるような口ぶりに、イリスはため息をついた。
「残念ながら、そうでもないのよ、きっと。コンラド様も言っていたわ。身内に甘い、って」
イリスはヘンリーの紫色の瞳をじっと見つめる。
「ヘンリーのために、オリビアさんに『毒』を使わないでほしい。……それなら、受け入れてくれる?」
これは、イリスのわがままなのかもしれない。
でも、どうしてもこんな形でヘンリーが『モレノの毒』を使うのは嫌だった。
ヘンリーはイリスをしばらく見つめると、肩をすくめた。
「……わかったよ。俺の『毒の鞘』がそう言うのなら、従う」
「ありがとう」
イリスはほっと胸を撫でおろした。









