公爵と義弟
への字口のままダンスを終えたイリスは、ビクトルが念のためにと用意してくれていた椅子に腰かけた。
座った瞬間に思わず息が漏れてしまうのは、人間の性だ。
温泉に入ると声が出てしまうのと一緒だ。
魂の叫びだ。
だから、イリスはまったくの無意識で息をついていた。
「……そんなに、つらいのか?」
「え?」
隣に立つヘンリーを見上げると、心配そうにイリスを見ている。
「残念ドレスの時はずっと立っていたのに、すぐに座ったから」
それは、体力の配分を考え直さなくてはいけなくなったからだ。
パーティーだけを生き延びれば良いのなら、座らなくても何とかいける。
「あー、まあ……」
曖昧な返事を返すと、ヘンリーが眉を顰める。
「立てないわけじゃないのよ。ごめんなさい」
考えてみれば、婚約披露パーティーの主催側の人間として、座っているのは客にも失礼だ。
慌てて立ち上がると、椅子に押し戻される。
「いい。無理はするな」
無理というか、体力の配分を検討し直した原因はヘンリーなのだが。
パーティーの間くらいは気合で立っていられるから、『後でゆっくり話』をやめてもらえれば、それで良いのだが。
「イリス! 体調は大丈夫?」
何と伝えるべきか悩んでいると、カロリーナがシーロと共にやって来た。
ファティマは機能的でシンプルなドレスしか着てくれないと言っていたが、長身のカロリーナにはそれがとても似合っている。
この大人の女性という雰囲気は、イリスには全く存在しないものだ。
実際カロリーナは二歳年上だが、自分が二年後にこうなっているとはとても思えない。
「大丈夫よ。カロリーナにも迷惑をかけてごめんなさい」
「そんなことないわ。私達がそばにいたのに、気付いてあげられなくて」
話を続けながら、立ち上がろうとしたイリスを椅子に押し戻す。
この姉弟は結局のところ、どちらも面倒見が良いのだ。
「シーロ殿下……じゃなかった。オルティス公爵も、お久しぶりです」
「そんなに堅苦しくしなくて良いよ。イリスはもうすぐ俺の義妹になるんだし」
「……じゃあ、シーロ様。婚約おめでとうございます」
「ありがとう。先に言われてしまったな。二人も、おめでとう」
赤い髪に緑色の瞳の美しい青年は、そう言うと笑った。
「オルティス公、ありがとうございます」
「ヘンリーも、義弟になるんだ。義兄さんで良いよ」
「……では、シーロ様」
「なんだ、つまらないな」
シーロは笑うと、ヘンリーの肩を叩く。
王族と臣下から、公爵家と侯爵家に、義兄と義弟になる二人は、何だかんだで仲が良いようだった。
カロリーナとシーロは既に正式に婚約している。
シーロはこれを機に、シーロ・ナリスという王弟としての名ではなく、オルティス公爵を名乗っていた。
「城を出たと伺いましたが、その後に会うのは初めてですね」
「兄上には妃がいるし、いずれ子も生まれるだろう。いつまでも王弟として城にいるわけにもいかないしな。他の二人も、遅かれ早かれ、城を出るだろう」
「あの。ルシオ殿下は……?」
ヘンリーに『モレノの毒』を盛られたところを見ているが、あの後どうなったのかは知らない。
『殺すつもりはない』とヘンリーは言っていたから、命の心配はないのだろう。
だが、声を上げて床をのたうち回る様を見ているイリスとしては、平穏に暮らしているとも思えなかった。
「ああ。ルシオはきっかりひと月の狂乱の後、しばらくリハビリをして、ようやく普通の生活に戻りつつあるらしいよ」
狂乱、リハビリ、ようやく普通の生活。
何だか不穏な言葉が並んでいて、イリスは思わず眉を顰める。
だが、シーロは気にすることなく話を続ける。
「独善的だったのが、だいぶ丸くなった。というか、小心者になったというか。ヘンリー怖い病に罹っていてね」
何だ、その妙な病名は。
「『毒』が相当きつかったみたいだよ? ヘンリーのヘの字を出すだけで悲鳴を上げているからね」
「……出してみたんですか」
「出したよ。モレノのモでも駄目だった」
シーロはにこにこと笑顔を崩さない。
「……楽しそうですね」
「まあね。俺はかつて、ルシオに散々狙われたし、兄上とモレノが匿ってくれなければ危険だった。でも、おかげでカロリーナに出会っている。だから、恨みもあるし、感謝もしているよ」
モレノ侯爵家が隣国に匿わなければいけなかったのだから、当時シーロは本当に危険だったのだろう。
「もともとは兄弟仲も悪くなかったんだけどね。同母兄弟のフィデル兄上だけが推されたのに、嫉妬したんだろうな」
「シーロ様は違うんですか?」
「フィデル兄上とルシオ、俺とアベルが同母兄弟だよ」
「……意外です」
全員同母だと思っていたが、母親が違うとしたらフィデルとシーロ、ルシオとアベルという組み合わせが自然な気がした。
「よく言われる。……王妃に子がいなくてね。俺達にお鉢が回ってきたわけだ」
では、元々は王位とはそれほど関係なかったのか。
降って湧いた話に、ルシオは嫉妬してしまったということか。
大きな権力やお金というものは、人を狂わせるのかもしれない。
「そういうことで、ルシオはもう迷惑をかけるようなことはないと思うよ。ヘンリーは知っていただろうけど。アベルは一人で行動を起こす気概はないから、大丈夫だろうしね」
そう言うと、シーロはヘンリーの肩を再び叩く。
「まあ、何にしても正式にイリスと婚約できて良かったな、ヘンリー。これで護衛も付けられるし、堂々とイリスに群がる奴らを蹴散らせるな。虫退治も楽になるだろう」
「虫……?」
どういう意味だろう。
確かに蚊や毒虫は怖い。
だが、アラーナ邸の庭にヘンリーが来て虫退治しなくても、庭師が手入れをしてくれているのだが。
これも『大抵のことはできるよう仕込まれてる』の範囲なのだろうか。
紅茶から笑顔で挨拶に虫退治と、モレノの守備範囲は無駄に広い。
首を傾げるイリスを見て、シーロは苦笑する。
「本人がこれだしな。カロリーナに聞いたが、昔からこうらしいから、覚悟して守るんだな。婚約すれば多少減るだろうが、それでも来るのは質が悪い奴らだぞ」
「わかってますよ。だから、婚約披露パーティーも開いたんです」
「だろうな。俺達は面倒だからやらないけどな」
笑うシーロを見る限り、ヘンリーが婚約披露パーティーを開催したいと言っていたのには、イリスが関係していそうである。
よくはわからなかったが、どうやら何かを心配しているらしい。
やはり、面倒見の鬼は面倒見をこじらせているようだった。