幸せ一杯は、ぞわぞわします
「小さかったヘンリー君が、婚約か。時が経つのは早いねえ」
恰幅の良い紳士が、楽しそうに笑っている。
ポルセル伯爵と名乗った男性はそう言ってイリスを見ると、何度もうなずく。
「それにしても、可愛らしい子だね。アラーナ伯も、こんなに綺麗な娘がいたのなら、もっと夜会に出せば良いものを」
「それでは恋敵が増えますから、伯爵に感謝しているところです。それでも虫退治に忙しいですが、惹かれる気持ちはわかるので仕方ありませんね」
ヘンリーはパーティー開始から、ずっとこの調子で返答している。
さすがに婚約披露なので、イリスを残念扱いするわけにはいかないのだろう。
最初に聞いた時には、驚いてヘンリーを二度見してしまった。
いくら何でも話を盛り過ぎだと思うが、侯爵家の祝い事はこういうものなのかもしれない。
だいぶ聞き慣れてきたが、それでも何やら背筋がぞわぞわする。
心にもないことを笑顔で返すというのは、大変そうだ。
心にあったとしたら、それはそれでイリスの背筋がぞわぞわと忙しくて大変だ。
「なるほどな。……縁談を蹴散らし、つれないことで有名だったヘンリー君が、こんなことを言うようになるとはねえ」
しみじみと感慨にふけるポルセル伯爵に、ヘンリーはただ笑顔を返す。
「これも、イリスさんのおかげだね。いつかうちにも遊びにおいで。広くはないが、屋敷には色々工夫を凝らしているんだよ」
「は、はい。是非」
精一杯の笑顔を返すと、ポルセル伯爵は満足そうにうなずいた。
どこかの貴族にひたすら挨拶をされては、挨拶を返すイリスとヘンリー。
何やら良い笑顔のヘンリーの横で、イリスもどうにか笑顔で振舞っていた。
元々、夜会にはろくに出ていない。
場慣れしていない分だけ、体力の消耗が激しい。
更に、伯爵令嬢としての振る舞いはできても、忙しさに心が追い付いてこない。
精神的にも疲労が重なってきて、笑顔が引きつりそうになる。
ちらりと横を見れば、非の打ちどころのない笑顔と対応のヘンリーがいる。
順番に挨拶をこなしているというよりも、幸せ一杯で笑みがこぼれているように見えるのだから凄い。
これも『大抵のことはできるように仕込まれてる』の範囲なのかもしれない。
さすがはモレノ侯爵家の次期当主ということか。
それとも、世の貴族はこのくらいはできて当たり前なのだろうか。
これからは、もう少し夜会に出た方が良いのかもしれない。
少なくとも、回数をこなせば場慣れするはずである。
ヘンリーがいると何だかんだとフォローされてしまうので、別々に行った方が良い気がするのだが。
これは『一人で出歩くな』の範囲に入ってしまうのだろうか。
だったら、ダニエラでも誘って行けば良いか。
そんなことを考えながら、イリスは何度目かわからないお礼の言葉を笑顔で伝える。
疲労は足にもやってきて、ふらつきそうになる回数が増えた気がする。
こうなると、パーティーをただ乗り切るだけでは駄目だ。
パーティーの後には、オリビアとドロレスとの話があり、その後にヘンリーがゆっくり話をすると言っているのだ。
少しの体力も無駄にはできない。
「……どんな顔だよ、それ」
ヘンリーが眉を顰めているが、イリスは無表情のまま口を引き結んでいる。
挨拶を一通りこなした後にダンスを踊っているのだが、これはこれでつらい。
衆人環視の中踊るというのは、精神も体力も消耗する。
大体、何なのだろう、あの視線は。
一様に目を細め、じっくりと、にやにやと、楽しそうにこちらを見ている。
ステップを間違えているのだろうかと確認してみたが、問題はない。
ドレスを見ても、綻びがあるわけでも、ごみがついているわけでもない。
こうなるとやはり、思いつく理由は一つだ。
「血塗れミラーボールが踊っているんだから、面白いわよね……」
早々に着替えたとはいえ、残念なドレス姿を見た客は多い。
あれだけいかれた格好をしておきながら、しれっと普通のドレスで踊っているのだ。
普段やんちゃな子供が、入学式だからと正装してランドセルを背負っているのを見たら、微笑ましくなる。
きっと、そういうことなのだろう。
「は? 何の話だ?」
「残念の弊害よ。避けて通れない道だわ」
残念な悟りを開きそうなイリスに、ヘンリーがため息をつく。
「何でも良いが、とりあえず少しは笑え。婚約披露って顔じゃないぞ」
「そうか、そうね。さっきのヘンリーみたいに、頑張るわ」
「何だ、頑張るって」
「挨拶しながら、幸せ一杯って感じだったでしょう? あれ、凄いなあと思って」
「……おまえ、俺が演技していると思ったのか?」
少し不機嫌そうに答えるのを見て、イリスは己の失言に気付く。
「ごめんなさい。そうよね、あくまで自然に見せているんだから、演技なんて失礼よね」
モレノの技術と経験がなせる技なのだろうから、あれは演技ではなく、もはやヘンリーの一部なのだろう。
「……何でそうなるんだよ」
ヘンリーは盛大にため息をつくと、イリスを抱きしめるように引き寄せた。
「――公の場でイリスは俺のものだって言えるから、俺、幸せ一杯なんだけど」
耳元でそっと囁かれた声と言葉に、イリスは思わず震えた。
「今、ぞわってした! 背中が、ぞわって!」
「そうかそうか。それは良かったな」
非の打ちどころのない笑顔でダンスを続けるヘンリーに、何だか調子が狂ってしまう。
結局、今度はへの字口のまま、イリスは踊り続けた。