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 目を開けると、薄暗い部屋のベッドの中だった。

 見たことのない天井を、ぼうっと眺める。


「お嬢様、気が付きましたか? 今、湯冷ましをお持ちしますね」


 聞き慣れた声に見てみれば、ダリアがテーブルから湯冷ましを持ってくる。

 吸い飲みに入れられたそれを口に含みながら、まるで幼い頃に戻ったようだなとイリスは思った。



「ダリア。ここ、どこ?」


 自身の声がかすれて上手く出せないことに驚く。

 よほど長時間、眠っていたのだろうか。


「モレノ侯爵家の屋敷です。お嬢様が倒れたというので、私が呼ばれました」

「倒れた?」

「私がこのお屋敷に到着した時には、既に酷い高熱でした。とても動かせる状態ではなかったので、そのまま休ませていただいています」


 倒れた。

 高熱。

 

 一体、何があったのか。

 思い出そうとするよりも先に睡魔が襲ってきて、イリスはあっという間に眠りについた。




 ――熱い。


 湯に浮かべられているような、ゆらゆらとした眩暈と疲労の中、イリスは何度か目を覚ました。

 いつでもダリアがそばにいてくれて、汗を拭いたり、湯冷ましを飲ませてくれる。


「大丈夫ですか」と声をかけられるだけでも、安心できて。

 イリスはまた、眠りについた。




 何度目かの覚醒時には、何となく事態を把握できていた。

 たぶん、体が冷えすぎたのだろう。

 生き物は体温が下がりすぎれば生きていけない。


 イリスも反動で高熱を出したようだった。

 あるいは、単純に風邪を引いただけなのかもしれない。



「ダリアも、モレノについてきてくれる?」


 人は、体調が悪いと心も弱るのだろう。

 そんなつもりはなかったのに、いつの間にかそう尋ねていた。


 ダリアは一瞬驚いたようだったけれど、すぐに優しい笑みを浮かべた。

「私以外の誰が、お嬢様に残念な化粧をするんですか? ……どこへでも、お供しますよ。お嬢様」

「……うん。ありがとう」


 熱が出て干からびているはずなのに、イリスの目には涙が浮かんでいた。




 夜が明けても熱は下がらなかったが、段々と覚醒する時間が増えてきた。

 目が覚めていれば、水も飲めるし、薬も飲める。

 もう少し頑張れば、熱も下がるだろう。


「お嬢様。ヘンリー様をここにお通ししてよろしいですか?」

「え?」


 以前、ダリアは婚約するとはいえ寝室には入れられないと言っていたのに。

 ここがモレノ邸だから、だろうか。


「……ヘンリー様は、昨夜からずっと、お嬢様が休んでいるこの部屋の前にいらっしゃいます」

「え? 一晩中?」

「はい」


「何で? 待っていても仕方ないのに」

「私も、お嬢様が起きるようなら伝えるのでお休みください、と何度も言ったのですが。……そばにいたいから、と」

 ダリアは困ったように笑うと、イリスの顔を温かいタオルで拭く。


「夜が明ける頃にもまだいらしたので、寝顔だけでも見ますかと声をかけたのですが」

「え、それはちょっと」


 何をイリスに無断で、勝手な提案をしているのか。

 よだれ塗れだったらどうするのかと思ったが、だからダリアは今顔を拭いたのかもしれない。

 汗を拭いたのだと思いたいが、現実は非情で残念なものだから、聞かないでおこう。



「ですが、ヘンリー様は首を振って断りました。『イリスが俺を呼ばないなら、行けない』と仰って」

 入室の許可が欲しいということだろうかと考えて、ふと、思い出す。



『待つから。だから、――俺を、呼べよ』



 そうだ。


 一時とはいえ、ヘンリーを呼べなかったから。

 忘れてしまったから。


 呼べるようになったら……ヘンリーを思い出したのなら、名前を呼んでほしい。

 そういう意味なのかもしれない。



 ダリアの手を借りてベッドに腰かけると、ヘンリーを通すように頼む。

 部屋の前にいたというだけあって、彼はすぐに現れた。


「何かあれば、お呼びくださいませ」

 そう言って、ダリアは部屋から出ていく。


 だが、ヘンリーは部屋の入り口から動こうとしない。

 心なしか、顔色が悪い。

 一晩中部屋の前になどいたからだろう。



「ヘンリー」



 その名前を呼ぶと、目を瞠る。

 そうして大きく息を吐くと、ようやくイリスのそばにやって来た。


「……俺が、わかるか?」

「うん。ごめんね。心配かけて」


 イリスが微笑むと、ようやくヘンリーの強張った顔が緩んだ。

 そっと手を伸ばしてイリスを抱きしめると、頭を撫でる。


「まだ、熱が高いな。横になった方がいい」

 そう言ってイリスをベッドに横たえた。



「何があったか、覚えているか?」

「『毒の鞘』の試験で、暗示をかけられたのよね? でも、私には『ヘンリーを忘れろ』って聞こえたの。何故かわからないけれど、たぶん本当に忘れると思って。だから、まとわりつく魔力をどうにか凍結しようとしたんだけど。……あとは、夢中でよく覚えていないわ」


「オリビアが、勝手に指示と違う暗示をかけたんだ」

 そう言うとヘンリーは眉を顰める。

「俺達は最初、わからなくて。イリスが急に冷気と氷を出し始めるし、氷を握りしめて血を流すし、危険だから止めたんだ」

「そうなの」


「あと少し、ってイリスが言うのを聞いて、何かをしていたというのはわかったんだが。その話だと、暗示の内容が聞こえて、『毒』を凍結して解除したということだろう? ……イリスは、魔法の才能があるんだろうな」

 こんなところで悪役令嬢のハイスペックが役立ったということか。

 体力と剣術は悲惨なものだが、たまには良いこともあるものだ。 



「オリビアの毒は弱い方だ。そのままでも、半日。どう頑張っても一日はもたなかっただろう」

「じゃあ、必死に凍結する必要なんてなかったのね」


「いや」

 ヘンリーは首を振った。


「一時でも、イリスに忘れられるのはつらい。名前を呼ばれず、他人行儀にされて、怯えられた。……思い出すだけでも、つらい」

 暗示をかけられている間の記憶は、イリスにもある。

 見ず知らずの少年に対する普通の対応だったと思うが、それがかえってヘンリーを傷つけたのだろう。


「……ごめんね、ヘンリー」

「いや。――頑張ってくれて。思い出してくれて、ありがとう」

 ヘンリーがようやく、笑みを浮かべた。



「でも、一晩部屋の前にいるのは駄目よ。風邪をひくわ」 

「一晩くらい何でもないよ。それよりも、イリスのそばにいたかった」

 そばにと言うが、ヘンリーがいたのは部屋の前だったというではないか。


「だったら、ダリアもいたんだし、部屋の中に入ればよかったじゃない」

 寝顔を見られるのは恥ずかしい。

 だが、一晩部屋の前にいるくらいなら、ちょっと見て、さっさと自室で休んでほしいと思う。


「そうだな。でも、目を覚ましたイリスが思い出してなかったら。また、ごめんなさいって言われたらと思うと……怖くてな」

「ヘンリーにも怖いものがあるのね」

「そうだな」

 イリスの頭を撫でながら、ヘンリーは苦笑する。



「私も怖かったわ。自分の意思とは違うものに塗り替えられるのは、怖かった」

 自分の望まぬものに蹂躙される恐怖は、鮮明に覚えている。

 命は奪わないのだとしても、違うものに変えられたのなら、それはイリスという存在にとっての死だ。


 ヘンリーが『モレノの毒』を使うところを見たことはあったが、自分が体験すると見方が変わってくる。

 あれは、確かに魔法と言うよりも、毒だ。

 記憶を、心を、蝕むもの。


 それを扱うヘンリーは、どれだけ負担がかかっているのだろうか。

 イリスは初めて、『モレノの毒』の継承者であるヘンリーが心配になった。



「怖い思いをさせて、ごめん」

 ヘンリーは目を伏せながら、イリスの手を握る。


「ヘンリーが悪いわけじゃないわ。……私、熱が下がったら、もっと魔法の鍛錬をするから。隙間という隙間を、何でも凍らせるようになるから」

 そうして、いらぬ『毒』を消せるようになったら……少しはヘンリーの負担が減るかもしれない。


「隙間って何だ? そう言えば、どうやって『毒』を凍らせたんだ? 目に見えるようなものでもないだろう?」

「私にまとわりつく魔力との隙間をひたすら凍らせたの。自分とそれ以外の境界を認識して凍結」


「……よくわからないな。普通は、暗示をかけた内容が聞こえたりもしないはずだ。イリスは、かなり才能があるのかもしれない」 

「剣も体力も壊滅的だもの。一つくらい取り柄があって良かったわ」


 そう言って笑うイリスの頭に、ヘンリーがそっと手を伸ばす。

 何かを確かめるように、ゆっくりと頭を撫でた。



「イリス。――俺を呼んでくれて、ありがとう」


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