あと少し
「肉の女神、今日も麗しいですね。会えて良かったです」
「だから、変な呼び方しないでってば」
アラーナ邸に戻ると、ちょうどラウルがドレスを届けに来ていた。
残念なドレス一着と、普通のドレス一着。
婚約披露パーティー用のドレスを確認すると、ダリアがそれを持って部屋を出ていく。
「そうだ。バルレート公爵令嬢から伝言があるんです」
「ベアトリスから?」
ラウルがバルレート公爵家に出入りしているのは聞いていたが、何故ベアトリスが彼に伝言をするのだろう。
イリスに直接手紙でも出せば良いのに。
「はい。何でも、しばらくはバルレート公爵家に近付くな、手紙も出すな、だそうです」
「ええ? 何よ、それ」
「屋敷を改装するらしくて、危ないし、手紙が上手く届かない可能性があるそうですよ」
「……どんな規模の改装なのよ」
危ないというのは、まあわかるとして。
手紙が届かないというのは何だ。
改装で迷子にでもなるのか。
さすがは公爵家。
改装一つとっても、他とはレベルが違うということだろうか。
「でも、見た限りでは、まだ何もしてませんでしたけどね」
「じゃあ、これから始まるんじゃないかしら」
バルレート公爵家は『雨の後は三日間外出禁止』という、謎のしきたりのせいで家にいることが多い。
だからこそ、家で快適に過ごせるように色々と工夫している。
きっと、今回の改装もその一環なのだろう。
「それじゃあ、僕は店に戻ります。今回も良い出来ですよ。特に普通のドレスは、生地が良いですからね。ドレスを着た肉の女神が見られないのは残念ですけど、僕の心の中でいつでも肉の女神は輝いていますから」
「その言い方だと、私、死んでる気がするんだけど」
「大丈夫です。肉の女神は死してなお美しいですから」
「肉が死んだら、それはただの腐った肉よ?」
「肉の女神は腐りませんよ。それに、もし腐っても愛好家がいますから」
「ええ……」
既に残念なのに、更に腐ったイリスなんて、もうただの廃棄物で危険物な気がするのだが。
眉を顰めるイリスを見て、ラウルは屈託のない笑顔を返す。
「自慢のドレスです。愛好家によろしくお伝えください」
そう言って礼をすると、ラウルが退室する。
何か変な言葉が聞こえた気がするが、気のせいだろう。
ドレスは注文通りにできていた。
これで、ファティマも喜んでくれるだろうか。
ドロレスは……あまり近くに来ないでもらおう。
残念なドレスは目も攻撃するが、初めて見るのなら心臓にも良くない気がする。
「それじゃあ、説明から始めようか」
ドロレスはそう言うと、室内を見渡した。
「まずは、判定人として『毒の鞘』である私。見届け人として、ヘンリーとカロリーナ。執行人としてオリビアが参加する」
ずらりとソファに座ったモレノの面々に少し緊張していると、部屋の入り口に立っていたビクトルと目が合う。
何故かビクトルも緊張しているらしく、何となく落ち着きがない。
その様子が面白くて、イリスはくすりと笑った。
「今から、オリビアが目の前の紅茶の味を変化させる暗示をかける。別に、暗示にかかって問題ないよ。『モレノの毒』の魔力に慣れる意味と、耐性や適性を見るものだからね」
「はい」
では、味の変わった紅茶を飲めば良いということだろうか。
思ったものと違って、特に難しくはなさそうである。
というか、イリスは特に何もすることはないようだ。
「『モレノの毒』で暗示をかけるのは、オリビアだ。伴侶だと手加減して正確にわからないから、普通はそれ以外の継承者が担当する」
「はい」
確かに、公平性を保つには必要な対応だろう。
「……まあ、ヘンリーは『モレノの毒』がアレだから。万が一の時に、しばらく紅茶がペンキの味にでもなるといけないからね」
「はい……?」
よく意味がわからないが、とりあえず返事をする。
「もの凄く暗示が効く人もいれば、効きが弱い人もいる。たまにショックで倒れる人もいるからね」
ドロレスはそう言うと、イリスを椅子に座らせる。
ヘンリーとカロリーナ、ドロレスはソファーに腰かけてイリスを見守ってくれている。
それだけで、何だか安心できた。
オリビアは座ったイリスの目の前に立つと、ドロレスをちらりと見る。
「はじめなさい」
その言葉にうなずくと、オリビアの眼差しはイリスに向けられる。
薄紫色の瞳に視線を奪われると、脳内に鐘の音のように言葉が反響しだした。
ぞくり、と悪寒が走った。
突然、ぐらぐらと視界が揺れる。
意識を失いそうになる自分に、イリスは危機感を覚えた。
――寝たら、負ける。
何の根拠もなくそうわかって、じっとしていられずに椅子から立ち上がった。
だが、眩暈にも似た眠気で、足元がおぼつかない。
周囲が何か言っているが、聞こえない。
聞いている場合ではない。
まとわりつく不快なものを、魔力を、排除しなければならない。
――集中しろ。
隙間の凍結と一緒だ。
集中しろ。
イリスの周囲に冷気が生じ、無数の氷の粒が煌めき出す。
――消せ。
凍結しろ。
だが、泥のような眠気で意識が遠のきかける。
誰かがイリスの肩に触れたが、それを払いのけると、右手に集中する。
手のひらと空気の隙間を凍結して、氷の塊を生む。
刃のように鋭利な氷を手のひらで握りしめると、痛みで少しだけ眠気が和らいだ。
その間に、凍結に集中する。
あと少し。
あと、少し。
周囲が何かを言っている。
握りしめる拳から何かが滴る気配がした。
その瞬間、イリスの腕が押さえられ、手から氷塊が取り上げられた。
痛みがなくなり、眠気に耐えられずに意識が遠のく。
瞼を閉じる直前、紫色の瞳の少年が心配そうな表情でイリスを見ていた。
「……馬鹿。あと、少し……だったのに」
それきり、意識は闇に飲まれる。
イリスの脳内を、心を、体を。
たった一つの言葉が蹂躙した。
――『ヘンリーヲ、ワスレロ』