肉の女神と杯
『いいわよね、残念ドレス。特に目潰しの効果は侮れないわ。着ているだけで自然に視力を奪うなんて、素晴らしい攻撃性だわ』
かつてファティマが言っていたことを考えると、希望は視力を奪う攻撃的なドレスなのだろう。
部屋で考えていても仕方がないので、イリスはミランダの店に向かうことにした。
「えー! 俺も一緒に行きたいです」
もはやアラーナ家にいない日はない状態のクレトは、そう言ってイリスの後ろをついてきた。
「クレトは、お父様と勉強があるって言ってなかった?」
「そ、それは」
だが諦めきれないらしく、クレトは悩んでいる。
そんなに一緒に行きたいということは、クレトも服を仕立てたいのかもしれない。
「クレト様。仕立て屋では採寸すると思いますので、男性の同伴は……」
ダリアのやんわりとした断りの文句に、クレトは暫し瞬いて考える。
すると、みるみる顔が赤くなってきた。
「す、すみません! 俺、勉強してきます!」
叫ぶや否や、勢いよく走って行ってしまった。
「お嬢様の採寸と聞いて恥ずかしがるのですから、可愛らしいものですね」
ダリアが微笑んで見送っている。
採寸する予定はないし、するとしても別室なので関係ないと思うのだが。
「……え? 待って。私、公開採寸する女だと思われてるの?」
いくら残念なイリスでも、下着姿を公衆の面前に出すつもりはないのだが。
「もちろん違いますし、クレト様は単に想像して恥ずかしくなっただけでしょう。ですが、お嬢様ならやりかねないとは思っています」
「さすがにないわよ」
「そう願います」
どうやら、今までの残念の数々のせいで、ダリアからの信用が無いらしい。
己の残念を振り返って、強く否定できないのが悲しい。
ダリアの微笑みにイリスは仕方なく口を閉ざした。
ダリアはまだ、モレノ侯爵家の家業の存在を知らない。
アラーナ家に残るのならこのまま。
イリスについてくるのなら、婚儀の後に教えて良いと言われている。
イリスの侍女とはいえ、雇っているのは父だ。
ダリアのことは好きだが、ついてきてほしいと言って良いものなのかイリスは悩んでいた。
年齢的にも結婚を考えていておかしくないし、これを機に辞める可能性は高い。
寂しかったが、ダリアの人生の邪魔をしてはいけない。
イリスが今後の話をすれば、別れが近付く。
悪あがきだとわかっていても、もう少しだけダリアに甘えていたかった。
「肉の女神じゃありませんか!」
ミランダの店につくと、灰色の髪の少年が喜色満面で出迎えてくれた。
「その呼び方はやめて。……ラウルは今日もお手伝いをしているの?」
「いえ。今まではちょっとした手伝いだったんですけど、本格的に仕立て屋修行を始めたんです」
「そうなの?」
「僕はガラン男爵を継ぐわけじゃないんで。手に職ですよ。それに、服作りにはもともと興味がありましたからね」
「そう、先を考えていて、偉いわね」
「あれからクレトとも仲良くなりまして。一緒に頑張ろうと言っているんですよ」
笑顔のラウルはそう言ってイリスにお茶を差し出す。
「そうなの。良いわね」
「はい。共に肉の女神を崇め、守るために頑張ろうと杯を交わしました」
「……え? 何それ」
伯爵の跡継ぎと仕立て屋修行、共に頑張ることで意気投合したのではないのか。
「ああ、大丈夫ですよ? ちゃんとクレトはジュースを飲んでます」
「違うわ。アルコールの有無を確認しているんじゃないの。……何、崇めるって。何するの」
「大丈夫です。僕とクレトがイリスさんを守りますからね! ヘンリーもいますし」
「質問に答えてない。……え? ヘンリーも参加してるの?」
「僕たち友達なので!」
「……え、ええ?」
確かにラウルはヘンリーに友達になってくれ、と言っていた気がする。
だが、ヘンリーが了承した記憶はないのだが。
そして、友達になっていたとしても、肉の女神を崇める集いにヘンリーが参加するとも思えない。
していたらしていたで、何だか嫌だ。
「最近では、伯母についてバルレート公爵家にも行って来たんですよ。いやあ、公爵家はさすがに広いですね」
イリスがヘンリーの肉への信仰について考えている間に、ラウルは仕立て屋修行の話を進めている。
バルレート公爵家と言えば、ベアトリスの家だ。
「そう言えば、最近ベアトリスにも会っていないわ。元気だったかしら?」
「公爵令嬢とお知り合いですか?」
「うん。友達なの」
すると、ラウルの顔に喜びが広がる。
「黒髪と金の瞳の美女同盟ですか、肉の女神の集いですか」
何やら謎の理由で興奮しているようだ。
よくわからないが、あと二人黒髪金目がいるのは言わない方が良さそうだ。
「公爵令息のエミリオ様の採寸を手伝ったんですが、美人な兄妹ですね」
「そうね」
友人達とのお茶会がもっぱらバルレート公爵家開催だったために、エミリオとは何度も面識がある。
穏やかで優しく、ベアトリスに似た端正な顔立ちだ。
「あ。でも、僕の肉の女神はイリスさんだけですからね」
「え、いいわよ。他の肉にしなさいよ」
「謙遜する肉の女神も美しいです」
基本的に、ラウルは話が通じるようで通じない。
悪い人間ではなさそうなのだが、困った人間ではある。
「そう言えば、兄妹で何か揉めていましたけど。続きとか何とか……よくわかりませんが、家柄が良いと色々あるんでしょうね」
「ええ? あの二人が?」
ベアトリスはもちろん、エミリオも穏やかで優しいのに、珍しいこともあるものだ。
もしかすると『雨の後は三日間外出禁止』という謎のしきたりで、イライラしていたのかもしれない。
モレノといい、上流貴族は何でわけのわからないしきたりが多いのだろうか。
イリスは普通の伯爵令嬢で良かったと思う。
まあ、今は残念な令嬢なので、ある意味普通ではないのだが。









